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第87話 稲妻ジャブ

だが転機は突然訪れた。ニヤリと笑った安平選手が前の手(オーソドックスに構える左手)をダラリと下ろし、さらに頭を俺の方に向かって突き出し「打ってこい」とばかりに自分のアゴを指差したのだ。


(……誘ってやがる……)


挑発的な安平選手のポーズに場内からは歓声が上がる。『安平キッズ』と呼ばれる彼に心酔するファンが会場にも多く詰めかけているということの表れだ。

安平選手のあからさまなポーズに一瞬俺は躊躇した。


(こんな安い挑発をしてくるってことは、向こうも攻めいるってことだ……だが……)


スタンドの攻防で向こうの想定以上に俺は戦えていた、ということだと俺は解釈した。

もちろん安平選手のことだからエンターテインメントという意識もあっただろうが、向こうもこのスタンドの膠着状態をなんとか打開しようとしているということだ。


ガードを上げる、というのはボクシングやキックボクシングの場合はかなりマストの技術だが、実はMMAではそこまで絶対的なセオリーでもない。

グローブを付けたボクシング・キックとの違いもあるし、間合いの違いもある。MMAではタックル等への対処もあるため、むしろ常時ガードをガチガチに上げている選手は少ない印象だ。もちろんどの程度ガードを上げて構えるかは選手の個性・特徴によってかなり変わってくる。

安平選手はキック出身ゆえに打撃の防御はかなり上手い。しかもブロッキングだけでなく、スウェイやダッキングといったかわす技術が身体に染み付いている。その技術を生かして、自らは被弾せず自分だけが一方的に当てる……近距離のパンチの打ち合いでもそんなことが彼には可能だった。俗に言う『眼が良い』というやつだ。

それによって彼はキック時代から数々の名勝負を演出し、名を上げてきたのだ。


(まあ、行くしかないだろ!)


一瞬の躊躇の後、俺は一歩踏み込んでパンチを放っていった。俺の最も得意とする右ストレートが日本一のストライカーである安平潮に対してどの程度通用するのか、純粋に興味があった……その根底には憧れに近い彼に俺の打撃がどの程度のものか見て欲しかった……という感情なのかもしれない。


俺の踏み込みに対する安平選手の反応は思ったよりも遅れていた。反応の早い選手ならば俺が踏み込んだ時点でもう何らかの反応をしている段階になっても安平選手の動きはなかった。

……だが

当たる! と思って振り抜いた俺の右ストレートだったが、あるはずの手応えはなく空を切った。

俺のパンチスピードを測って合わせたようなスウェイバックだった。一瞬後ろに下がった彼の頭が俺の右拳の戻りに合わせるように、再び元の位置に戻ってくる。


(……いや、まだだ!)


もちろん一発で仕留められるなんてことは、プロ同士の試合では基本的に有り得ない。

しかも今のパンチはわかりやすいタイミングだったはずだ。来るとわかっていればパンチを回避するのはそれほど難しいことではない。

だからとにかく連打を仕掛ける。連打を放てば向こうもすべてを正確に防ぐことは難しいはずだ。


ジャブ、右ストレート、左フック、右アッパー。

渾身のコンビネーションだったが、残念ながら俺の攻撃はすべて空を切った。

スウェイ、ダッキング、パリング……恐ろしいのは安平選手はステップワークをほぼ使わず、その場ですべて俺のパンチを防いでしまったことだ。


「粗い、粗いって。焦んなよ、オタク君」


再びニヤリと笑って自分のアゴを指差した安平選手に、会場からはさらなる歓声が上がる。


(……くそ!)


これだけパンチを見切られるということは、近距離の打撃の攻防に於いて俺の勝ち目はほぼないということだ。当然彼の方からパンチを返すこともできたはずだ。それを彼があえてしなかったのはいつでも料理できるという自信に他ならない。


「保君、熱くなるな! 冷静に行こう!」


セコンドの師範の声が聞こえてきて、俺は自分が動揺して熱くなっていたことに今さら気付いた。


(そうだ……これはMMAの勝負なんだ!)


俺は打撃が得意だし、安平選手も打撃出身の選手だ。

だからといって打撃の勝負にこだわり続けるのは愚かだ。勝つためにはルールの範囲内、すべての攻撃を総動員するのがMMAというものだ。


(タックルのフェイントを入れて、そこから上のパンチだ!)


俺は方針を決めた。

宮地君や大兼君などレスリング出身の選手が得意とするパターンだ。タックルに行くフリをして右のオーバーハンドフックを放つ……シンプルなコンビネーションだがこれは有効だろう。

安平選手はストライカーで基本的に組み付かれたくないと思っている選手だからだ。タックルに対する警戒心が強い相手にこそ、このパターンは有効な筈だ。


(よし……………………え?)


一歩踏み込んで狙いの攻撃を仕掛けよう、というタイミングで突然顔面に衝撃を受けて俺は混乱した。


(……は?)


目の前の安平選手は相変わらず両手をぶらりと下ろし、リズムを取るかのように前後に軽く身体を揺らしているだけだった。

もしかしてさっき攻撃を受けたと思ったのは俺の錯覚か? それともどこか身体の異変なのだろうか?


(いや、いい! 行け!)


ともかく勝負の最中だ。余計なことを考えず、目の前の相手だけを見ろ! オーバーハンドフックが外されるような気配ならば、強引にタックルに行って寝かせろ! とにかく触れれば安平選手の組みの力もわかるはずだ!

そう思い今度は軽くジャブを出して、それを自ら追うようにタックルに入ろうとした瞬間、またしても顔に衝撃を感じ、屈みかけた俺の上体が無理矢理引き起こされた。


「保君、ジャブだ! 気を付けろ!」


セコンドの師範の声は聞こえたが、俺にはその意味が理解できなかった。

俺が一瞬混乱した表情をしたのが安平選手にも伝わったのだろう。

再びニヤリと笑い、今度は彼の方から俺に向かってきた。前後、上下に軽く揺れていた安平選手のリズムはそのままに一歩近付き、目前の二歩目で急にスピードが上がったのがわかった。

そして、次の瞬間には突如として俺の顔面にパンチが当たっていたのだった。


「……くそ……」


正面から被弾して、ようやく俺も師範の言っていた意味がわかった。

だがその時すでに安平選手はまた元の間合いに戻り、両手を下げて最初と同じリズムで軽く揺れていた。


「ああっと、これは安平選手得意にフリッカージャブが炸裂した模様だ~!」


実況のアナウンスと同じタイミングでようやく対戦相手の攻撃を理解した俺は……控え目に言ってかなり滑稽だった。




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