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第88話 打撃では…勝てない

「……ち」


悠然と揺れている安平選手に向かって俺はパンチを振り回しながら突っ込んでいったが、今度はサークリングのステップであっさりと外された。

そして、俺の攻撃が終わったタイミングでまた見えない所から被弾した。パーン、と顔面で何かが弾けたような衝撃を受ける。


「保君、頭振れ! 同じところで止まってると狙われるぞ!」


師範の声に俺は頭を振って相手にパンチの的を絞らせないようにする。だが安平選手はそんな俺を嘲笑うかのように悠然とステップを踏み続け、今度はパンチを放つフェイントを掛けただけだった。


(……いや、少し正体がわかったぞ。アレがフリッカージャブか……)


最初はまるで正体の掴めなかった攻撃だったが、さっき被弾した際には戻ってゆく安平選手の左手を視認することができた。

フリッカージャブ。ボクシングで主に使われる技だ。

通常のジャブはガードを固めるために上げた前手を真っ直ぐ伸ばして放つパンチだが、フリッカージャブは下ろした前手を下から上げながら放つような軌道のパンチだ。


(……こんなパンチ初めて食らったけど、実は理に適っているのかもな……)


そんな感想を抱いた瞬間、また安平選手が踏み込んでくる気配を感じ、反射的にバックステップを踏む。

反応できた! ……と喜んだのも束の間、今度はそのタイミングで安平選手はフリッカージャブを放ってはこず、さらにもう一歩踏み込んで右ストレートを放ってきた。

ガッ! 反射的に上げたガードが功を奏し、顔面に被弾することは免れたが、そのパンチは正確に俺のアゴを捉えていた。

やはり安平選手のパンチ精度、そして俺の動きを読んでの攻撃……打撃の刺し合いでは俺よりも一枚も二枚も上手のようだ。


「お!」


右ストレートを俺にガードされたことに安平選手は驚いたような声を上げた。その反応が正直なものだとしても、この真剣勝負の場で俺をまだ舐めているかのような反応には俺もイラ立つ。


(……いや、冷静になれ。イラ立った分だけ俺が損をするだけだ……)


勝負のためにはとにかく冷静に機械のようにやるべきことを遂行するだけだ。感情に振り回されるメリットは一つもない。

ガードを下げてのフリッカージャブによる攻撃……傍から見れば相手を舐めた戦法に見えるかもしれないが、安平選手の攻撃にはかなりの合理性があることに気付いた。

まずMMAではタックルに対処するためある程度ガードを下げる構えも有効だという点だ。安平選手は元々ダッキングやスウェイによるディフェンスが得意なタイプだし、近距離のパンチの打ち合いには絶対的な自信があるだろう。それならテイクダウンディフェンスを重視して前手をある程度下げておくのは、彼の戦い方にピッタリだ。

そして前手を下げることで俺の距離感を狂わせるという効果も狙っていたのだろう。相手の前手に触れて打撃やタックルの距離感を掴む……というのはスタンドの攻防ではよくあることだし、俺もそうすることが多かった。

俺はバンタム級の中ではリーチが長いタイプだから、距離を掴んだ上で打撃を先に当てることができていたケースが多かった。もしかしたら俺のそうしたクセまでも安平選手は見抜いて、今回の戦法を立ててきたのかもしれない。


「保君、止まるな! 足使おう! 頭振ろう!」


思考が巡り、一瞬動きが止まっていた俺に対して的確なタイミングで師範から声が飛んできた。

そうだ……とにかく今は動いて相手に的を絞らせないこと、そしてこちらから仕掛けてゆくことだ。

安平選手相手にスタンドの打撃戦にこだわるのはどう考えても分が悪い。当然そんなことは戦う前から分かり切っていたことだし、そのためテイクダウンして寝技の展開に持ち込むのが今回の戦いの俺のテーマだったはずだ。

だがそれでも多少は打撃を警戒させないとテイクダウンは取れるものではない。打撃の攻防の展開を経てその中でテイクダウンに行かなければならないのだ。


カーン!

そこで1ラウンド終了のゴングが鳴った。

真っ直ぐセコンドの師範の下に戻った俺に対し、安平選手は両手を掲げてケージを一周し観客に向かって優位をアピールした。当然それに対して彼のファン『安平キッズ』たちは大きな歓声で応える。




「1ラウンド振り返ってどうでしたか?」

「いやぁ、両者ともに1ラウンドは思ったよりも慎重だったなという印象ですね。安平選手からすればもっと踏み込んでダメージを与えてゆくこともできたように見えましたが、しっかりと確実にこの試合に勝つことをまずは第一にしているという印象です。対する田村選手は何とか強引にでも組み付いていきたいところだと思いますが、ほとんどそんな間合いにすら入れませんでしたからね……。しかし安平選手がさらに踏み込んで攻勢を強めてくれば、当然田村選手にもテイクダウンのチャンスも出てくると思います」


実況と解説の声はどちらか片方に偏った解説のないように配慮されたものだったが、客席の空気は俺が劣勢であることを理解しているものであった。


「……やっぱ強いっすね。アイツ」


コーナーに戻った俺から師範に出てきた最初の言葉は、安平選手を称えるものだった。

後から振り返ってみれば、今戦っている相手に対する賛辞を漏らすなんてファイターの心構えとしてあまり相応しいものではなかっただろう。


「ああ、そうだね。よく倒れなかったよ、保君」


だが師範は俺のそんな言葉にもしっかりと目を見て頷いてくれた。弱い俺のことも認め、寄り添って導いてくれる……俺が入門した高校生の時の師範と今もそれは変わらなかった。

「俺の言う通りにやれ!」「絶対に勝て!」「勝つこと以外考えるな!」そんなことしか言わない人が俺の指導者だったら、俺はとっくにMMAを辞めていたに違いない。


「大丈夫だ、保君。楽しもう! そんな安平選手と戦えるところまで保君も来たんだ。2ラウンド間違いなく安平選手も動いてKOを狙ってくるはずだ。その時がこちらにとってもチャンスだってこと……狙っていた通りの展開だろ?」


師範が俺に向かって微笑む。

そうだ。相手の方が格上なんてことはとっくの昔にわかっていたことだ。向こうには向こうで「接戦ではなくKOしなきゃいけない!」というプレッシャーが掛かっているのも間違いないのだ。

俺は師範に微笑み返して立ち上がった。




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