目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第89話 打撃の塩漬け

(……ある程度の被弾は覚悟の上だ。近距離の打ち合いは絶対に避けてパンチに合わせて組み付くんだ!)


2ラウンド開始前、俺は改めて自分に気合を入れ直した。

そもそもこうして人気・実力とも遥かに格上の安平潮やすひらうしおという選手とこのFIZINの場で戦えていることが幸運なことなのだ。後悔を残すような中途半端な戦いだけはしたくない。

今の俺のできる限りをぶつけて、安平選手に田村保という人間について知って欲しかった。


カーン!

ゴングが鳴り、ケージ中央で向かい合った。


(……ちょっと近いか?)


安平選手は今度はしっかりとガードを上げて構えていた。1ラウンドよりも若干距離が近いようにも思えたが、果たして本当にそうなのか、向こうがガードを上げたことによる俺の錯覚なのかは判別が難しいところだった。


ビシ!

一瞬の俺の虚を突くように安平選手がローキックを当ててきた。ほんの僅かに前手を動かしジャブを放つかのような気配を出しつつ、目線を動かすことも予備動作もまったくない右のローキックだった。

反射的にこちらもローキックを打ち返すが、これはしっかりと安平選手にスネでカットされてしまい、こちらの蹴り足がジンジンと痺れた。

やはり正面からのストライキング勝負では向こうの方が一枚も二枚も上手だろう。


(いや、でも行くしかない!)


俺は先ほどの自分の覚悟を再確認して被弾覚悟で踏み込み、右ストレートから左フックを放っていった。その場に留まってのコンビネーションではなく、前に進みながらの連撃だ。

どっちみち俺のパンチなど安平選手に見切られてかわされるだろう……と予測した上での攻撃だ。

ともかく、まともにヒットせずとも強引に距離を詰めていくしか活路はない。


「……ぐ」


だが予想を超えた反撃が待っていた。せめて俺がパンチを振り回している間は向こうも回避に徹するだろうと思っていたのだが、パンチの打ち終わりに合わせてやや横にズレた位置からテンカオを腹に叩き込まれた。

息が詰まりかけるがそれでも強引に距離を詰め、何とか胴タックルのような形で組み付くことができた。

……だがすでにその位置はケージの端に近かった。安平選手はゆっくりと一歩後退し、壁に背中を預けるようにしてポジションを取り大きく呼吸をした。


(くそ! ……っていうか組みの力も強い!)


ケージに背中を預けている身体の後ろに手を回してクラッチを組むことは物理的に不可能だ。俺がテイクダウンに行くとすれば、安平選手の体勢を崩してさらに優位なポジションを取らなければならないが、安平選手の組んだ際の身体の力・体幹の力というのも予想以上の強さだった。


いつの間にか身体と身体の間にスペースを作られ、突き飛ばされる。

再び距離を取ってのスタンドのポジションでの試合再開に、場内の安平ファンからは拍手が巻き起こった。彼らも今の攻防でテイクダウンを防いだ安平選手が優勢に立ったことを理解しているのだ。


(来る!)


当然今の攻防でスタミナを消費していたのは俺の方だ。間髪を入れず安平選手が仕掛けてきた。今までとは違うリズム・迫力を感じ思わず俺の身体も強張る。

初手のジャブの鋭さは相変わらずだったが、何度も食らっているだけに流石に少しリズムが掴めてきた。


(……下か!)


だが次の右ストレートは顔面ではなく、腹を狙ったボディストレートだった。

顔面へのワンツーを警戒していたので反応が遅れるが、流石にボディ一発でKOされるわけにはいかない……と思った瞬間、脳天が揺さぶられ視界も揺さぶられ足がもつれる。


「あ~っとここで安平選手得意の左フックが炸裂した! 田村選手、これは立てるか!?」


その瞬間は何の攻撃をもらったのか理解できず混乱していた。

ボディストレートで下に意識を向けさせての左フック……というコンビネーションだったようだ。すべては後から映像を見返して理解できたことだが。

俺の意識は朦朧としていた。とにかく安平選手の打撃は精度が違う。俺のアゴ先を正確に射貫く左フックだった。打撃の強い選手、速い選手とは今まで何人も対戦してきたが、ここまで一発で正確に急所を射抜く精度を持った選手は初めてだった。

彼にはやはり彼にしか見えない世界があるのだろう。




(……え、来ない?)


ダウンした俺は朦朧とした意識の中、ほぼ反射だけで足を持ち上げてガードポジションの体勢を取っていた。この状態で追撃をまとめられたら簡単に試合は終わってしまうから、染み付いていた最低限の防御が咄嗟に出たに過ぎない。

だが奇妙なことに安平選手は追撃に来なかった。

まさか今さら染み付いたキックルールのクセで、ダウンした相手に審判がカウントするのを待っていたわけではなかろう。安平選手もMMAに転向して以降キックの試合はしていないはずだ。

普通に考えれば絶好のKOチャンスだ。ここまで打撃で綺麗にダウンを奪ったならば追撃のパウンドなりサブミッションなりでフィニッシュを狙うのがセオリーだ。この機会を逃して相手に回復の機会を与えれば逆転される余地を残すわけで、好機に畳み掛けるのは勝負の鉄則だ。


朦朧とした意識の中で俺が戸惑っていると、観客席から大きな歓声が上がった。


「あっと安平選手、手を振って”立て”というジェスチャーをしていますね」


俺に向かって手をクイクイと指し示している安平選手の姿が視界の端に映った。

審判が一旦ブレイクを宣言し俺に立ち上がるよう指示した。そして試合はスタンドの状態から再開となった。


(……まさか、俺の寝技をそこまで警戒していたわけでもないだろうに……)


フラフラとした頭で何とか立ち上がりつつ、ぼんやりとそんなことを思った。

安平選手は生粋のストライカーで打撃が得意なのは間違いないが、MMAに転向してすでに数年経っており、寝技ができないわけでもない。極める技も力もそれなりにあるだろう。

対戦相手がトップクラスの柔術家だったとしたら下からのサブミッションを警戒して、寝技の展開を避ける……というのもあり得る話ではあるが、俺もどちらかというとストライカーだし、そこまで寝技の技術があるわけでもない。


「保君、動け! 自分から仕掛けよう!」


未だ戸惑っていると師範から声が掛かった。

そうだ、今は過ぎたことを考えている場合ではないのだ! そしてキツい時ほど自分から仕掛けてペースを作っていかなければならないのは鉄則だ。相手に展開を委ねては相手のやりたいようにやられるだけだ。

俺はジャブから右のミドルキックを出してガードさせると、さらにそこにパンチを被せていった。

ダウンさせられたダメージは残っていたし、その中で打撃を連続で放つのはかなり息が切れた。それでも何とか主導権を握るには俺の方からプレッシャーを掛けるのが絶対だ……そんな思いが俺を動かしていた。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?