「大丈夫か!? 最後はよくテイクダウン行ったよ!」
「はい……なんとか……」
この2ラウンドは安平選手に二度もダウンさせられている。
頭にもズキズキとダメージは残っていたし、ボディや足も何回も攻撃を受けて痛んでいたが、それよりも最後の攻防、テイクダウンに成功したにも関わらずあっさりと抜けられたことが何よりの心理的ダメージだった。
テイクダウンにさえ成功すればこっちのものだ……と錯覚していたが、どうも安平選手はかなり余力を残しているように思える。
「……なんで向こうは追撃に来ないんですかね? フィニッシュする力が無いわけでもないですよね?」
試合中ずっと浮かんでいた疑問を思わず師範に尋ねていた。
「……あのね、安平選手のSNSを見たら『ケルベロス・イフリートが敗れた相手だから、キック上がりの俺たちのリベンジとして今回は塩漬けにさせてもらいます』っていう風に呟いてたのよ。……打撃で塩漬けにする、そんなイメージなのかもしれないわね」
俺の疑問に応えたのは横にいた
MMAで「塩漬け」という言葉は時々使われる。レスリングで上を取るとそこからパスガードを狙うでもなく、極めを狙うでもなく、ひたすら抑え込むような戦い方のことを言う。大抵はつまらない試合を形容する場合に用いられる用語で、いい意味で使われることはあまりない。しょっぱい試合=塩という意味もそこには含まれているのだろう。
対して安平選手の「打撃の塩漬け」という言葉は今まで聞いたことがなかったが、言わんとしていることは理解できる。打撃で一方的に突き放して相手に何もさせずに勝つ……そんなイメージだろう。
キック出身の舎弟分2人との因縁も含めた俺との試合だから、今回はMMAで勝つというよりもキック的な戦い方を敢えて敢行して勝つ……ということなのだろう。
「……舐めてますよね……」
「え?」
俺が思わず漏らした言葉は師範に伝わらなかったようだが、そんな気持ちでこの戦いに向こうが臨んでいたのを知ると余計にぶっ飛ばしたくなる。これはMMAだ! そんな戦い方で勝てる相手だと俺は思われていたのか!
……だが、それが叶わないのは単純にMMAの実力に於いても向こうが俺を上回っているからに他ならない。
「にしても打撃の塩漬けとは中々恐ろしい作戦だな……良いか、保君。最終ラウンド、2ラウンドのように何度もダウンを喫するようならおじさんはタオルを投げるよ。これは保君を守るためだ」
突如放たれた師範の言葉の重さに思わず俺も顔をしかめる。
「……何言ってんですか、師範。そんなこと絶対にしないで下さい。死んでもボクはこの試合に勝ちたいんですよ!」
師範の言い分は理解できる。
キックやボクシングの場合は1ラウンドに2回や3回ダウンをするとその時点でKO負けになるルールもあるが、MMAの場合は何度ダウンをしてもそれで敗戦ということにはならない。まだ戦えるのならば立ち上がって戦うかは本人の意志に任せる、他者が勝敗に関与する要素をなるべく減らす……というのがMMAの理念だからかもしれない。
だがダウンを喫するほどの打撃を受ければ当然ダメージは溜まる。試合が終わらない分だけダメージの蓄積は酷くなる。セコンドがタオルを投げる(ギブアップする)というのは、選手の今後の身体のことを配慮した愛の上での判断ということになるだろう。
だが戦っているのは俺自身だ。勝てなくともせめて納得のいくまで試合をやらせて欲しい! 全力を出し尽くすまでは例え師範といえども介入して欲しくない! というのは当然のことだ。
「……ダメだ。例え保君に殺されたっておじさんはタオルを投げるよ。それがセコンドとしてのおじさんの務めだからね。それが出来ないんだったら、おじさんがここにいる意味がないんだよ」
師範がそう言ったところでレフェリーから3ラウンド開始の声が掛かった。
(……やべぇな)
そもそも1分間のインターバルでダメージが抜けるわけがない。全身が痛むとともに頭がかなりボーっとしていた。パンチを浴びた右目の視界も若干怪しい。
だが、だからといってヤケクソに突っ込んでいく特攻作戦はイチかバチかの勝負ですらない。それは勝負を投げて特攻する自分に酔った勝手な自爆だ。
残り少ない武器と体力でもってどう戦うか……客観的に見れば俺に勝機はほとんど無いように映っているかもしれないが、それでも俺はまだまだ戦いたかったし勝機が無いとも思っていなかった。
(……来る!)
一瞬の躊躇を見抜いたかのように安平選手が踏み込んで仕掛けてきた。
ジャブを出すかのようにほんの微かに左手を動かした瞬間に飛んできたのは、ノーモーションの右ストレートだった。
顔面にまともに被弾し、反射的に俺は倒れ掛かった体勢のまま強引に片足タックルに行ったが、肩の辺りを押されて実にあっさりと切られる。
再びスタンドに戻ると安平選手はスイッチして左ストレートを放ってきた。
だがそれはフェイントでガードを上げるのを見越していたように今度は脇腹を狙い左のミドルキックを放り込んでくる。安平選手の攻撃は予備動作がほとんどなく、前足を踏み込んだ時点ではどの攻撃が来るか非常に読みづらいのが厄介だ。となるとバックステップして距離で外すしかないが、それではこちらからの反撃も放棄することになってしまう。
(……2ラウンドともに圧倒的に取られている。多少のダメージ覚悟で行くしかないんだ!)
判定での勝利は恐らくもう無い。俺が勝つにはKOか一本勝ちするしかないのだ。俺は被弾覚悟でさらに距離を詰めていった。
逆に安平選手側から考えると、この3ラウンドは適当に流しても勝利は確実だろうに、きっちりと倒しにくる所には流石のプライドを感じさせられた。距離を取ってのアウトボクシングのような戦い方をする方が安平選手にとっても楽だったはずだ。
「……ぐ」
強引に前に出た俺を再び左のミドルキックが襲い息が詰まる。だがそれに被せるように俺も右ストレートを放つ。
リーチでは俺の方が勝っている。やや遠い距離からでもパンチを合わせられるのが俺に残された数少ない有利なポイントだ。
「あっと、安平選手も目の辺りをカットしたか!? これは激しい戦いになってきた!」
確かに実況の言う通り安平選手の顔からも出血があったがトータルのダメージでは比べるべくもない。
再び距離を取った安平選手の左ミドルが俺の脇腹を襲う。今度は右腕を下げてブロックすることができたが、ブロックの上からでも脅威を感じるほどの威力だった。まともに受ければ肋骨が折れるだろう。3ラウンドになってもこの威力を保っているところに安平選手の実力が表れている。
(いや、出てきてくれる分だけ俺にもチャンスが訪れるはずだ!)
防戦に追われている俺だったが、安平選手がこれだけ攻勢に出てきてくれることは俺の打撃が当たる可能性も増すし、どこかでテイクダウンにいけるチャンスも増えるということだ。
もちろん向こうもここで仕留め切れると踏んだから攻勢を強めてきているということでもあるのだが。
(ミドルか! ここでテイクダウンだ!)
右構えに戻していた安平選手が再びサウスポーにスイッチした。
そして左手を払うような基本に忠実なキックフォームに入っている安平選手が見えた。ミドルをブロックして、カウンターで軸足の右足に片足タックルを仕掛ける。ここは死んでも倒し切るんだ! とレスリングを教えてくれた宮地君の顔が一瞬浮かんだ気がする。
(……え)
だが次の瞬間、腕に受けるはずだった衝撃は無く、側頭部の辺りにバットで殴られたような衝撃を受けて思わず腰が落ちる。崩れ落ちるような倒れ方をしたらその時点でレフェリーストップが掛かるだろうし、そうでなくとも師範がタオルを投げるかもしれない……俺はなんとか気合で崩れ落ちるようなダウンは免れる。
だがふらつく視界に立っていられず、思わず片手をマットに付きそのまま寝転がる。
「これは! 左ハイキックだ! ここにきて田村選手またしてもダウンか!?」
「今のほとんど見えていなかったと思いますねぇ。さっきの左ミドル2発が布石になっていたんですよ。恐らく田村選手はまたミドルがくると思って反射的にガードを下げた……そこに全く同じフォームでハイキックを受けたんだから、これは効きますよ」
「あーっと、だがここでも
ダウンした俺に対して、再度手招きして立つように要請する安平選手が視界の端に映った。
(……ここだ! どうせ負けるならここで仕掛けてやろう!)
咄嗟に思い付いた作戦を俺は実行することにした。