3度目のダウンを喫した俺だったが、まだレフェリーからは何の指示も出ていない。
猪木アリ状態(片方の選手はスタンド、もう片方の選手がグラウンド状態で向かい合っていること)のまま俺は手を付いて近付いてゆき、オーソドックスに立っている安平選手の前足に自分の右足の甲の辺りを引っかけた。
(……いける!)
足が掛かった感触を覚え俺の身体は一気に加速した。
引っ掛かった足の甲をテコのように利用しさらに奥に進みながら、安平選手の左足を右手で押さえる。
そこから安平選手の腰の辺りを左足で押し、軸足である右足を俺の右足で刈るように手前に引いた。
「あっと、これは田村選手! 一瞬の虚を突くようにテイクダウンに成功したか!?」
またスタンドでの試合再開になるだろうという、一瞬の油断が安平選手にあった。
それはもしかしたら長年戦ってきたキックの試合での癖がほんの少し出たのかもしれない。
(死んでも放すな!)
「……ち!」
尻餅を突いて安平選手が後ろに倒れるのが見えた。
やっと巡ってきた千載一遇のチャンスだ。ここで仕留めるしか俺の勝ち筋はない。
俺は背中をマットに付けたままさらに進み、掴んでいた安平選手の右足首を捻りヒールホールドを掛けにいった。
だが俺が足首を捻ったタイミングで安平選手も身体を大きく捻り回避してきた。足関節への対応もそれなりに染み付いているようだ。やはりグラウンドの戦いに自信がないのではなく、今回はスタンドで俺をKOすることに固執していたという師範の言葉は本当のように思えた。
身体を大きく捻りマットに顔を付けるような体勢になった安平選手に対し、俺はその瞬間足関節を極めることを断念し上のポジションを取ることにした。
「あっと、ポジションはバックマウントに移行した! これは安平選手一気に苦しくなりましたね!」
「そうですね! 田村選手は後ろから極めも打撃もできるのに対し、安平選手は後ろ側には攻撃できませんからね。安平選手は防戦一方ということになるでしょう。ここは何としても動いてポジションを崩したいところです」
バックマウントとはその名の通り、背後から馬乗りになっている状態のことだ。マウントを取っている側にかなり有利な体勢と言っていいだろう。だが注意点もある。
後頭部への打撃はもちろんFIZINでも禁止されているからパウンドは打てない(ただし側頭部への打撃は反則ではない)というのが一点。
もう一点は相手の攻撃に集中するあまり重心を前に掛けすぎると、相手選手によって前に落とされてしまう危険性があるという点だ。
(今だ!)
何度かコツコツと側頭部に打撃を加え、嫌がった安平選手がガードのために腕を上げた瞬間、俺はバックチョークのために左腕を安平選手の首の下に差し入れた。
バックからの攻防で一番狙い目となるのは首を狙った絞め技だ。最もポピュラーであり威力を発揮するサブミッションだと言っていいだろう。
「安平選手、何とかここは左手を差し入れて首を取られることは免れました! だが防戦一方の展開です!」
だが当然向こうも俺の狙いはわかっている。俺の左腕が首の下に巻き付く瞬間に安平選手も片手を入れてきた。首の間に手が入っているとチョークは基本的には極まらない。
左腕で首を狙いながら、右手ではコツコツと顔面に打撃を入れてゆく。当然密着した状態では決定打となるような強い打撃は打てないが、これを嫌がって向こうが焦れて動いた瞬間に本命の首を狙うのがセオリーだ。そしてそれは当然安平選手も理解している。
(くそ、ブレイクを宣告されたら厳しい……)
状態が膠着して動きが無い、とレフェリーが判断したらスタンドでの試合再開となる。スタンドに戻されてしまったら今の俺にとって勝利はほぼ絶望的だ。
そんな焦りが動きつつある体勢への察知を一瞬遅らせた。
にゅるり。
試合も3ラウンド中盤となり俺も安平選手も身体は汗まみれだ。汗で滑った安平選手の身体が俺の左腕の中で回転して正対した。
そしてその瞬間、安平選手の身体を4の字にロックしていた足のフックも外れ、尻の辺りを下から蹴られたような衝撃を受け腰が大きく跳ねる。
「あっと、安平選手もここで動いた! ポジションが入れ替わるか!?」
「安平選手のブリッジは相当強いという話は聞いていたんですがね……けれど田村選手もバランスが非常に良いですね。普通だったらマウント崩されているところですよ!」
予想外の反撃に戸惑いはしたものの、一瞬マットに手を付いただけで俺はマウントを維持していた。
正対したマウントでは当然のことながら顔面に打撃を打てる。
だが強いパウンドを打とうと上体を起こすと、下からの力で崩されるリスクも上がる。安平選手のことだから下からのパンチや蹴り上げを放ってくる可能性も考えられる。
バランスを崩されないように注意しながら俺は上からパウンドを徐々に強く打っていった。
「……ふ~、ふ~……」
安平選手の荒い呼吸が場内にも響いているような気がした。
パウンドを打った手首を掴まれると、俺はむしろそれを待っていたかのように腕を曲げて、肘を落としていった。
「あ~っと、肘だ。これは効きますよ!」
安平選手の目の下辺りから血がさらに溢れてきた。
MMAは一応スポーツではあるが、本質的には凄惨で残酷なものだ。鼻や眼窩底を骨折することも当然あり得る。それを承知の上で俺たちはこのケージの中に入って戦うことを選んでいるのだ。
(今だ!)
肘がモロに入った瞬間、一瞬安平選手が手を伸ばしたまま動きが止まったように思えた。
その瞬間俺はマウントポジションを捨てて、両足を安平選手の顔の横辺りに付くと、その腕を取り思い切り寝転がった。
腕ひしぎ十字固め。アームバーとも呼ばれる、ポピュラーな極め技の一つだ。
(……極まってくれ!)
祈るような気持ちだった。
腕十字は少しポイントがズレているだけで極まらない場合もある。それにこの3ラウンド目、俺の掴んでいる手が先ほどと同じように汗で滑って解けてしまう可能性もある。俺に残された腕の筋力もかなりギリギリだった。マウントポジションを捨ててしまっている以上、この腕十字が外れたら俺の優位性はほぼ無くなる。
「……極まるか、極まるか……あ~っとタップだ! 安平潮、無念のタップ負けだ!」