「やったな、田村君……」
控室に戻ると我が柔術の師匠小仏さんと抱擁を交わす。
本当に涙を流さんばかりに感動しているのが伝わってきて、俺自身の勝利というよりも小仏さんがそこまで喜んでくれていたことにもらい泣きしそうになる。
「……小仏さんのおかげです」
噓偽りない気持ちだった。
ここまで長期間に渡り、定期的に柔術・グラップリングの指導をしてくれた小仏さんは、俺にとって紋次郎師範と並ぶもう一人の師匠ともいうべき存在となっていた。
最後の場面で安平選手の腕を極めて勝ったのも、俺自身の力というよりは小仏さんからもらった『柔術鬼神』のスキルによるものなのかもしれない。
あの場面……グラウンド対スタンドの瞬間的局面で安平選手の脚に絡みついて引きずり倒し強引にグラウンドに持ち込むなんていう発想は、今までの俺の中にはないものだった。最後の極め自体は幾度となく練習してきたものだが、そこに至る過程を含めようやく『柔術鬼神』のスキルが開花したように思える。
「おい田村君、ナイスファイト!最高やったな! せやけどそろそろ宮地君のタイトルマッチやで! 前の試合が1ラウンドKO決着やったからな」
振り返ると大兼君と高松君が立っていた。
「マジ!?……超速でシャワー浴びてくる!」
宮地君とギルバート・ヘフナー選手のメインイベントはタイトルマッチだから、入場や試合前のイベントなどにも時間を掛けるはずだ。今からでも大急ぎでシャワーを浴びれば間に合うだろう。
(……静かだな。さっきまでとは別世界みたいだ)
タオルとパンツだけを掴んでシャワールームに入ると、さっきまでどこに行っても満ちていた狂騒と興奮が嘘のように静かだった。
……本当は、別にどうしてもこの時間に急いでシャワーを浴びなければいけないわけではない。別にTシャツだけ着替えても、なんなら汗まみれ上裸のまま観戦したって誰も文句は言わないだろう。
だが俺はほんの少しの時間1人になりたかった。奇跡に近い逆転勝利を収めた俺を見れば誰もが褒め称えてくれる。……暴力的な賞賛から逃れ自分1人で勝利の意味を噛みしめ、そして冷静に自分の成したことを見つめる時間が少しでも欲しかった。
「……ふう……」
シャワー室内の個室に入り、温かいシャワーを頭から浴びると自然と安堵の声が漏れた。
シャワー室の外に戻れば誰もが熱狂している。出場した選手や陣営の人間はもちろん自分たちの試合結果に悲喜こもごもだし、そうでないFIZINの運営関係者たちもこれから行われる宮地君のタイトルマッチを目前にして様々な感情に没入している。
さっきまで死闘をして1万人(配信で観ている観客を含めれば数万人!)の注目を浴びていた俺だけがその興奮の外にいるのは、とても奇妙で不思議なことのように思えた。
そして少し気持ちを切り替えられた感覚を覚え、早々に戻って宮地君の試合を観戦せねば……とシャワーを止めたタイミングだった。ガチャリ、と扉が開く音がして誰かが入ってくる気配がした。
「……ちっくしょう……くそぉ……何やってんだよ、クソバカ……ああああ、もう!!!」
(安平選手だ!)
その声を聞き俺の心臓は飛び上がらんばかりだった。
試合中、そしてそれ以前も動画やSNSで何度も聞いた
俺はちょうどシャワー室から出ようとしていたところだったが、反射的に個室内に引き返す。
「……ちっくしょう……何がカリスマだよ、何が『FIGHTING LABO』だよ、全部祭り上げられてきただけじゃねえかよ……」
それ以後は言葉にすらならず、嗚咽混じりのすすり泣く声が聞こえてきた。
(……俺はここまでの気持ちを持ってケージに入っていただろうか? これだけの覚悟を持って戦っていただろうか?)
気まずいとか、ここからどう出てゆこうかとか、そんな目前のことよりも俺が思ったのはそのことだった。
絶大な人気を誇り、時代の寵児、格闘技界のインフルエンサー的ポジションにいる安平潮という人間は、これだけ繊細な精神の持ち主だったのだ。それなのに試合前は散々に煽り、盛り上げ、世間を巻き込んで注目を集めた上で俺との戦いに臨んでいたのだ。
例えば本当の強者は試合に負けたってこんなに心が乱れはしないだろう。
落ち込んでいる時間が無駄。切り替えるスピードは早ければ早い方が良い。そう言うだろう。もしかしたら安平選手もメディア向きにはそういった発言をするかもしれない。
だが彼の本質は今シャワー室で泣き崩れている姿そのものだ。彼は生まれながらの強者ではない。むしろ繊細な精神を持っているがゆえに、世間から求められる安平潮像に人一倍応えようとしてきたのだろう。
「……安平選手……すいません、田村です……」
気付くと俺は安平潮に声を掛けていた。
このタイミングであえて声を掛ける必要はなかったかもしれない。向こうは俺がいることを認識していなかったのだから、少し待てば顔を合わせずに去ることもできたはずだ。
だが偶然とはいえ彼の心底に触れてしまった以上、俺がそれを見なかったことにして立ち去るのはとても卑怯な振る舞いのように思えたのだ。
試合を経て彼に勝利しても、その上でさらに俺は安平潮という人間に心酔していっているような感覚を覚えた。
「……田村君か……奇遇だな……こんな所で会うなんて」
呼吸を整えていたのだろう。ややあってからバツの悪そうな声色で安平選手は返事をしてくれた。
安平選手はシャワー室から出てこず顔を合わせることのないケージ外での再会だった。
「……カッコ悪いだろ? 外を出てSNSなんかでは新世代のカリスマみたいな顔をしてやってるけどよ、たった一回負けただけでこんなボロボロ女々しく泣いて……ダッセぇよな」
安平選手は自嘲して笑った。
「その……安平選手、本当に強かったです。オレ、途中までは絶対勝てないような気持ちで戦ってました。最後オレが一本取れたのはたまたまで……」
「……何いってんだよ。MMAに偶然の勝利なんか無いだろ? 勝った方が強い。それだけだ。……でもあの最後の寝技に持ち込まれた瞬間、俺に油断があったのは確かだ。けど、なんていうんだろうな……あの瞬間は今までの田村保とは違う人間と試合をしているみたいに感じたぜ?」
「……あ、はい……」
俺はなんて答えるべきかわからず、ただただ曖昧に返事をする。
それから少しの沈黙があった後、「おほん」とやや芝居じみた咳払いをして安平選手が声を掛けてくれた。顔は見えないけれど、にこやかな声だった。
「とにかくだ、田村君。……俺は絶対にリベンジする。だからそれまで勝ち続けろよ」
そう言うと安平選手は個室から右の拳だけを出してきた。
最初は意味が分からなかったが、すぐに理解して俺もそれに右拳を合わせ、改めて健闘をたたえ合う挨拶とした。
「遅かったわね。もうゴングが鳴るところよ?」
それから今度こそシャワー室を出て、濡れ髪のまま大急ぎで控室に戻りモニターの前に座る。
大兼君、高松君だけでなく、紋次郎師範や小仏さんそしてすずも含め全員が緊張の面持ちでモニターを凝視していた。
「さあ、始まりました、宮地大地選手のバンタム級タイトルマッチです!!」
カーン!
俺の盟友であり、ライバルである宮地君の大一番がいよいよ始まろうとしていた。