「良い顔してるね、宮地君」
試合開始直後、まず印象に残ったのはそのことだった。
「ああ、そやな。コンディションはバッチリ文句なしやと思うで、ホンマ」
隣の高松君が同意してくれた。もちろん2人ともずっと目はモニターに釘付けのままだ。
「顔が良い」というのはもちろん顔の造形の話じゃあない(宮地君ははっきりした目鼻立ちをした少年漫画の主人公のようなルックスをしており、そちらの意味でも「顔は良い」のだが)。
表情から総合的なコンディションが何となく見える、という話だ。
充実した練習ができてバッチリのコンディションの時は自信に満ち溢れた表情をしているものだし、ギリギリの減量で最悪なコンディションで試合に臨まなければならない選手は、やはりそれも否応なく表情に出るものだ。
ましてやMMAはメンタルの要素がとても大きい。競った試合、同程度の実力の相手との勝敗を分けるのはやはり気持ちだ。そうした強い気持ちは厳しい練習を耐えてきたという自信でしか培うことができないものだ、と俺は実感している。
この試合のためにやってきた練習や当日のコンディションは、選手の表情を見てある程度判断できる、というのはMMAに関わっている人間なら全員が同意してくれることだと思う。
(ヘフナーはもちろん強くて実績のある選手だけど、今の宮地君が負けるわけがない……)
直近の試合に向けて宮地君と練習を重ねる中で、俺は彼の強さをよりはっきりと感じていた。
どんな試合を見せて久々のFIZINバンタム級の日本人チャンピオンになってくれるのか、それを俺は楽しみにしていた。さらに言えば宮地君の巻いたベルトを俺が奪うのだ、というところまで想像しているし、それは俺でなくてはならないとも密かに思っている。
宮地君は仲間ではあるが同時にライバルでもある。一度負けている以上いつかはリベンジしなければならない相手だ。
(そうだ。俺の試合の最後の場面、宮地君のレスリング力も俺を勝たせてくれた……)
ふと先ほど「今までの田村保とは別人と試合をしているみたいに感じたぜ?」という安平選手に言われた言葉が浮かんできた。
小仏さんの『
そんな諸々の感情を含めて、宮地君にはこの試合に何としても勝って欲しかった。
「2人ともレスラーやのに中々組みの展開にはならへんな……」
試合開始からすでに2分ほどが経過していた。
宮地君はいわずと知れたレスリング金メダリストだが、ヘフナーもアメリカのカレッジレスリングのチャンピオンで、いわば2人ともレスリングの頂点を極めたスペシャリストだ。
だが試合はここまで一度も組み合うことなく、打撃の展開に終始していた。
「MMAではよくあるんだよ。レスラー同士、柔術家同士の試合なのに打撃戦になるっていうパターンはね」
師範が解説してくれた。
相手のレベルもわかっている分、いくら自分の得意分野といえどそこで勝負するのは効率が悪いこと。またMMAはどうしてもスタンドの打撃から始まるということ。……極論すればどんな強いバックボーンがあろうとMMAはMMAという別競技だ、ということになる。
「あっと、ヘフナーのカーフキックだ! これは宮地選手、やや軸足が流れたか?」
「ヘフナーが前に出てプレッシャーを少し強めてきましたね」
それまではやや遠い距離からパンチが交錯してもすぐに離れる、という慎重な立ち上がりだった両者だが、1ラウンド中盤くらいからヘフナーが少しずつ距離を詰めてきた。
「おっと今度はジャブから左のボディストレートだ。ヘフナーは上下の打ち分けも的確ですね」
「ヘフナーは宮地選手よりも何年も先にMMAに転向していますからね。『この試合はレスリングではなくMMAの勝負だ』というヘフナーの意地が見えるような気がします」
解説の人の言う通り、ほんの少しだがヘフナーがスタンドの攻防で優勢になってきたのが見てとれる。
ヘフナーのボディストレートに対し宮地君は「効いてないよ?」という風に両手を挙げておどけるポーズをして見せた。たしかに屈強な身体を持つ宮地君がボディへの攻撃で沈むとは思えない。だが事実として一方的に打撃をヒットさせているのはヘフナーの方だった。
「……なあ? ヘフナーもレスリング強いのか知らんけど、流石に金メダル取った宮地君には敵わんやろ? 宮地君はテイクダウン取れんでも一発タックル行ってみるべきちゃうんか?」
高松君がややイラ立った声を上げると、師範が冷静に解説を付け加えてくれた。
「もちろん高松君が言う通り、一回くらい組みに行く姿勢を見せるのはあっても良いだろう。でも宮地君も組んで消耗することを恐れているんだと思う。打撃は一発でも良いのが入れば形勢が傾くことがあるけれど、自分と同レベルのレスラーと組んでテイクダウンするのはかなり骨の折れることだからね」
まだしばらく打撃の展開が続く様子は、師範の解説がなくとも何となく両者の雰囲気から見て取れた。
カーン!
そうこうしている内に1ラウンド終了のゴングが鳴った。
「まだ2人とも慎重だったね。ほとんど差はないけれど、敢えて判定を付けるとしたらヘフナーの方かもしれないね」
「は、紋次郎師範マジすか? あんなペチペチと芯の無い打撃でもポイントになるっちゅうんですか?」
師範が漏らした寸評に高松君が食ってかかる。
「まあまあ、FIZINはトータルジャッジだからさ。別にこれで1ラウンドをヘフナーが取ったってわけじゃないんだし」
それを横にいた大兼君が笑って窘める。
むろん高松君の師範への反論も一種のおふざけだ。高松君自身もプロ選手だから師範の言っていることは充分に理解しているだろう。
ちなみにトータルジャッジというのは、最終的に勝負が判定決着となった場合に試合全体を通して審判が判断するという方式である。これと対義するラウンドマストという採点方式はラウンド毎にどちらかに勝者を判定していくシステムのことだ。
「あら、保君はずいぶんと渋い顔ね? どっちにしろまだまだ互角だとは思うけど、ライバルの勝利を信じられないの?」
インターバル間もモニターを見つめていた俺の顔をすずが覗き込んでくる。
「いや、そういうわけじゃないけど……でもこのままじゃ徐々に押されていくかもしれない。変えていかなきゃいけないのは間違いなく宮地君の方だよ。本人が一番そう感じていると思う」
どれだけ映像を見て詳細に研究したって、ケージの中で向き合ってみるまでは相手の本当の強さというのはわからないものだ。
宮地君の表情には今までの試合とは異なったシリアスな雰囲気があるように見えた。それだけヘフナーの実力を肌で感じているのだろう。
(蹴りだよ、宮地君。蹴りで打開するんだ!)
試合前少しの期間だが練習を共にした光景が浮かんできて、俺は心の中で密かにそうエールを送った。俺と練習した蹴り技で宮地君が勝利してタイトル獲得! ……なんてことになれば、こんな激アツ展開はない。
そして、心知ったるこの空間の中でも俺がそれを口に出さなかったのは、現実はそんなラノベみたいに都合のいい展開にはならないことを知っているからだ。