最終である第3ラウンドのゴングが鳴った。
「……そうだよ! いけよ、宮地君!」
3ラウンド開始直後、まだ両者が交錯する前だったが俺は思わず声を出す。
突如大きな声を出した俺を周囲は不思議そうな目で見ていたが、俺には宮地君の構えの微妙な変化が見て取れたのだ。完全な前重心でとにかく自分から突っ込む姿勢だった宮地君の構えが、若干後ろ重心になったのだ。
「おっと、ここで宮地選手左のミドルキックを出してきました。この試合初めてではないでしょうか?」
「データに無かったのか、ヘフナーも若干驚いていましたね。しかしもう第3ラウンドですからね……試合開始直後から蹴っていれば試合の展開も変わっていたかもしれませんが」
そうだ。俺は宮地君の重心の微妙な変化から蹴りを出そうとしているのが見えたのだ。
だがもちろんミドルキック一発で仕留められるわけもなく、突如の攻撃にもかかわらずヘフナーはきちんとブロックしていた。
(……いや、まだまだ蹴りの種類はあるんだ!)
解説の人の言う通り、これが試合の序盤ならば展開はさらに違ったものになっていただろう。
宮地君にはミドルキックだけでなく何種類かの蹴りを伝授していたが、3ラウンドになってからローキックで相手の脚を削っても遅すぎるのは確かだ。
それでも宮地君の蹴り自体はしっかりと走っていた。ヘフナーのアウトボクシングで削られていても、一発良いタイミングでヒットすれば勝負を変える可能性はまだまだある。
「おっと、しかしヘフナーのプレッシャーが少し弱まりましたか? 第2ラウンド終盤に比べて手数が減っているのはヘフナーも疲れてきているのでしょうか?」
「いや、ヘフナーにスタミナ切れは無いでしょう。さきほどの蹴りで少し間合いに入るのを躊躇しているかもしれませんね。もちろん2ラウンドまでの優勢で判定になれば間違ないなく勝てるという計算もあるでしょうがね」
ほんの少し見合う時間が生じた。
「……行けって! 今行かないでどうするんだよ!」
気付くと再び俺は大きな声を出していた。
勝負はこうした機微が何より大事だ。相手がほんの少しでも怯んだ隙に前に出て攻勢を仕掛ける……強い選手はそうした判断が本能的に優れているものだ。
「お、行った!」
俺の声が通じたかのようなタイミングで宮地君が前に出た。
再びミドルキックを放つかのような大きなモーションを見せて、今度は左のストレートを放つとヘフナーは一歩後ろに下がった。
先ほどのミドルキック一発で展開が変わりつつあるのは確かだった。解説の人の言う通り、序盤からこの攻防ができていれば試合全体の展開も違ったものになっていただろう。
だがもちろん、そうすれば宮地君が勝利していたと言えるほど勝負は単純ではない。様々なリスクを考えた上で宮地君陣営は今の戦い方を選択したわけで、外部の人間が無責任に考えるよりも遥かに深く当事者は考えているものだ。
(まだ接近しての膝もある。そっちが本命だろ!)
俺が宮地君に伝授した打撃は他にも幾つかあったが、一発でKOできる破壊力を秘めているのはやはり接近しての膝や肘での攻撃だった。宮地君は体幹の力が鬼のように強いから、首相撲で組み合った状態での打撃を逃れられる選手が同じバンタム級でいるとは考えられなかった。
「あっと、今度は右のフックです。ここにきてプレッシャーを掛けているのは宮地選手の方です!」
「宮地選手がここまで戦い方を変えられるとはやや意外でした。あくまでレスリングという圧倒的なバックボーンを生かした戦い方を今まではしてきていましたからね」
3ラウンドに入って変わり始めた展開に控室でモニターを凝視している俺たちも、そして宮地大地を応援している会場も雰囲気が変わり始めていた。
「……おい、このままいけるんちゃうか!?」
「うん! どっかで一発当たれば……」
高松君の興奮に俺も思わず身を乗り出す。
……しかしこの展開に1人冷静だったのは、やはり師範だった。
「いや、ヘフナーはむしろ蹴りを誘っているように見えるね。この距離の攻防にも自信があるんだと思うよ」
たしかに師範の言う通りだった。
ヘフナーが慌てているならば、今までの優勢貯金による判定勝ちを狙ってさらに逃げ回るか、逆にクリンチして組み合う展開に持ち込むはずだ。それなのに距離感は3ラウンド最初に宮地君がミドルキックを放った時と変わらないままだった。
「あっと、ここで再び宮地選手鋭い左のミドルキックだ! 今度はヒットしたか!?」
「いや……これは、キャッチされていますね」
宮地君の左ミドルがヘフナーの脇腹に今度こそ突き刺さったかに見えたが、ヘフナーはその左足をキャッチして抱えていた。
そして……
「あっと、ヘフナーが軸足を払ってテイクダウンだ!」
この試合初めてのきちんとしたグラウンドの展開だった。
宮地君にグラウンド勝負を挑むなんて無謀な……俺は一瞬思ったが、それこそが的外れな見解だったことに俺はすぐに気付かされる。上になったヘフナーがポジションを譲ることはなく、宮地君もそれを返すことが出来なかったのである。
「おい、どうなっとんねん! 何で宮地君が立てへんねん、金メダリストやぞ!」
高松君のツッコミは悲痛な響きを帯びていた。
「それくらいか、それ以上に、ヘフナーの抑え込む力、ポジションキープの力が強いってことだ。もちろん宮地君の方がスタミナを消耗しているのもたしかだけどね……」
師範の解説に俺たちも黙り込まざるを得なかった。
「ジャッジ松室、赤ヘフナー! ジャッジ風間、赤ヘフナー! ジャッジ吉田、赤ヘフナー! 以上3-0の判定を持ちまして現チャンピオン、ギルバート・ヘフナー選手の勝利となります!!!」
展開はその後も大きく変わることなく、ヘフナーが勝ち切った。
グラウンドの展開でフィニッシュすることはなかったが、スタンドに戻っても当初のようにヘフナーがパンチを一方的に当て続ける展開だった。
勝敗は判定までもつれ込んだが、それでも両者の実力には差があった……というのが正直な俺の感想だ。判定までいったから伯仲したギリギリの勝負、KOで決まったから実力に差があった、と見るのは素人の見方だ。
宮地君のことは全霊で応援していたがその差は認めざるを得ないだろう。全局面で圧倒されたような試合を見て、これで「惜しかった、もうちょっとだった」なんて声を掛けることの方が宮地君に失礼だろう。
「くそ、井伊さんめっちゃ笑顔引き攣っとるやないか……」
「ホントだ……」
試合後のベルト授受のセレモニーとなり、俺がFIZINのデビュー戦で椛島俊太選手に勝った時と全く同じ笑顔が井伊CEOの顔には貼り付いていた。FIZINのプロモーターとしてはやはり日本人である宮地君にチャンピオンになって欲しかったという思惑は自然ではあるが……団体の主催者である以上建前だけでもどの選手にも平等な態度を示しておけよ、とは正直思う。
「いやぁ、負けた負けた! 完全にやられたよ!」
顔に青々としたアザと傷を作り、足を引きずりながら宮地君が戻ってきた。だがその声と表情は晴れ晴れとしていた。
「みんなも応援ありがとね。情けない姿を見せてごめんね!」
俺たちに向かって宮地君は大きく一礼すると、すぐに去って行った。
この日のメインイベンターである彼は各所に挨拶に行かなければならないし、多くのインタビューにも応えなければならないのだろう。
しかも宮地君のそうした行動は求められる仕事を果たすのがアスリートとして当然……という意識があるように見えた。やはり幼少期からその道で育ってきた人間は意識が違う。
(強いな、宮地君は……)
負けたとしても落ち込むことすら許されないのか、という気が一瞬したが、宮地君にはそんな発想すらないのかもしれない。どうも彼の表情や振る舞いを見ているとそんな気がした。
ふと宮地君の試合前、シャワー室で目にしてしまった安平選手の姿がチラついた。
敗戦後に弱さをさらけ出した(俺が偶然目にしてしまっただけだが)安平選手。負けてもすぐに切り替えて、求められる「宮地大地」を振舞ってゆく宮地君。
対称的に見えるかもしれないが本質的には両者とも同じなのだと思う。プロの格闘家をとしてやってゆくとはそういうことなのだろう。
(……俺もすぐに次だ!)
俺自身は安平選手に番狂わせと言っていい金星を収めた日だが、それよりも考えさせられることの方が多かった1日だった。