「はぁ、ヒマだな……」
年末の
安平戦後のマイクで俺は、ダンクラスタイトルマッチで負けた
本当ならすぐにでも試合に向けた練習を再開したい気持ちが強かったが、たしかに師範の言う通り安平選手による「打撃の塩漬け」のダメージは軽く見積もることのできないものであった。
MMAはスポーツだ。言うまでもなくケンカでも殺し合いでもない。だが格闘技は危険なものだ。相手を本気で殴り壊し合うスポーツだ。
俺も普段はそこに没頭しているから恐怖を感じたりはしないのだが、たまにふと我に返ると「ああ、俺たちのやっていることって恐ろしいことなんだよな……」思う時がある。
痛ましいことだが格闘技の練習や試合で命を落とす選手はごく僅かながら存在する。幸か不幸か他の格闘技に比べてMMAでの死亡事故はほとんど例がないのだが、危険な競技をしていることには変わりない。
俺が安平選手に食らった「打撃の塩漬け」は実はかなり危険な例だ。あれだけダウンさせられていたのだから、ルールが違えばKO負けを宣告されてもおかしくない状態だった。試合後には師範も「これ以上ダウンさせられるような打撃をもらえばタオルを投げるつもりだった」と言っていた。
重篤な事故には至らなくともダメージによって脳の機能が不可逆的に損なわれ、いわゆるパンチドランカーのような症状が出る可能性はどんな選手にもある。
俺はまだ20歳だから40歳近い選手に比べれば蓄積したダメージはそこまででもないだろうが、それでも慎重になるに越したことはない。脳のダメージを抜くには休養するしかないのだ。
「ふん、随分と腑抜けた顔をしておるな、小僧」
久しぶりに花田神社に来てみると氏神である
尊大な口調とは裏腹に俺の足元にピタリと寄り添っては背中を擦り付けてきていた。行動の意図を正確にはわからないが俺に対して愛着を抱いていることは間違いないだろう。可愛い。なんていうか……カワイイ。
「そりゃあ腑抜けもするっての……。大学も休みだからはっきり言って飯食って寝るだけだもの。まあ来週からはフィジカルトレーニングは再開して良い、って師範も言ってたから多少はマシになるけどさ」
俺にとって格闘技はもう生活の中心になっているものだ。飯を食ってスマホや端末の画面を観て過ごすような生活が楽しかったのは最初の3日間だけだった。安穏とした日々に心が安らぐのはほんのわずかな期間だけで、俺の身体はすぐにでも試合での強烈な刺激を求め始めていた。一度味わったらその刺激を求めずにはいられない……言ってしまえば格闘技も麻薬のようなものかもしれない。
「ふん、人間どもは何故にそうも生き急ぐのか、ワシにはまるで理解できぬがな」
「……そりゃあ何千年も生きるやまとみたいな氏神様とは違って、普通の人間の寿命は100年に満たないくらいだからね。人間は毎日必死で生きていかなきゃいけないもんなんだよ」
やまとの背中を撫でていた手をさらに下げお尻の辺りを軽くトントンと叩く、とやまとは「ミャーオ」とまるで猫のような声を出した。
(……ま、こうしてゆっくりしていられるのもほんの束の間で、すぐに練習で追い込まれてゆく時期が来るんだから、休息の時期は休息を楽しめば良いさ)
まだ正式決定ではないが、金松誠史郎選手との試合は大体半年後、7月ごろで決まりそうだ……と師範から言われている。こうして20歳の小僧である俺が国内最高峰のFIZINで継続的に試合ができるというのは非常に幸運なことだ。高いレベルで試合を続けた方が自分の成長できるスピードも断然違う、ということを俺は実感している。
「しかし、もう三が日も過ぎたってのに参拝客が多いなぁ」
今日は1月5日の土曜日。休日だから街中に人が多いのは理解できるが、どこにでもある地方都市のこのちっぽけな神社に参拝客の列が途切れないのは何故なのだろうか、不思議でならない。
普段はジムの経理だとか運営の仕事にあくせくしている
(あれ? なんか俺だけヒマなんじゃね?)
去年の大晦日から正月にかけては、ここ花田神社に同級生の吉田たちや平本さんたちジムの会員さんと集まってワイワイと騒いでいたことを思い出した。
あの時は大晦日というハレの舞台に出場出来ないことが俺自身とても悔しかったが、今思い返せば仲間たちに囲まれて過ごしたあの時間もあれはあれで幸せだった。
吉田たちもそれぞれ家庭を持ったりして今年は長い時間は集まれなかった。もちろん俺は大舞台で試合ができてさらに勝利を収められたのだから、これに勝る幸せなどないのだが、どこか一抹の淋しさを覚えるのも確かな気持ちだ。
「あ、あの……田村保選手ですよね!? 良かったら写真とかお願いできませんか!?」
神社の階段に腰掛けてボーっとしていたら、急に同年代くらいの女子2人組に声を掛けられてビックリした。
「あ、はい…………え、ボクですか?」
死角からの不意打ちパンチを食らったような感覚で、俺はあまりにお間抜けな反応しかできなかった。
だが頼んできた女子たちの目は緊張感と好意に満ちており、どうやら本気で「田村保」と写真を撮りたいのだというのが伝わってくる。
「ダメ、ですか? ……そうですよね、プライベートの時間ですもんね……」
「もちろん大丈夫ですよ! 写真でもサインでも握手でもボクにできることなら何でもしますよ!」
俺が急いで外向きの対応をすると2人組女子の顔が一気にパッと明るくなった。
女子2人組に写真とサインと握手のサービスをすると、その後も4、5組の人たちに声を掛けられた。その人たちに話を聞くと、どうやらこの花田神社がピンスタグラムという人気のSNSでバズっているようだ。なんでも、夕暮れ時の花田神社の境内から見る影山市街の眺望がエモい……ということだそうだ。
1月5日になっても未だ参拝客が途切れなかったのはそれが理由だったようだ。
しかもさらに調べてゆくと、バズったきっかけはどうやら安平潮選手のピンスタのようだった。俺との試合後、いつの間にかここを訪れて写真を撮っては投稿していたということだ。
(……ったく、キザなことするなぁ)
わざわざこんな
俺も自分のSNSには日常的な光景としてこの辺りの写真を以前から載せていたから、目敏い格闘技ファンの人が、ここは俺の地元であり所属ジムの所在地であることに気付いて訪ねてきた……という経緯らしい。
「はぁ……つかれたぁ……」
17時になり社務所を閉めるとすずがジム兼居住スペースの方に戻ってきた。
普段ジムでは人一倍活発なすずが、ここまで露骨に疲れた表情を見せるのは珍しい。巫女装束までも多少くすんで見えるのは流石に気のせいだろうが、肩を落として歩くすずの姿を見たのは初めてかもしれない。
「お疲れ、大変だったね」
すでに辺りは真っ暗となっていて、ジムの灯りがとても明るく映る。
「ふん、普段はくだらぬ俗世の生業にばかりかまけておるのじゃ。たまには巫女としての本分を果たすべきじゃろうて」
やまとが追い打ちを掛けるようにすずに憎まれ口を叩いたが、それでもやまとの口調はどこか楽し気であった。
後になってすずから話を聞いたのだが、やまとにとってこの花田神社への参拝客が大幅に増えたことは何より好ましい出来事だったようだ。単に自分を祀る神社が広く知られることが嬉しいというのもあるが、参拝客が増え人の『気』が集まることが氏神としてのエネルギーとなるとのことだ。
「まったく、やまともいい気なもんよね……こっちの身にもなりなさいよ、猫のクセに偉そうにしちゃってさ。ってかアンタ、安平選手が来てたんならちゃんとこっちにも報告してきなさいよ! わざわざ影山区にまで来てくれたのに挨拶もしないなんて失礼極まりないでしょ」
「……はて礼儀や挨拶が必要な関係性ならば、そもそもなぜお前たちはああも本気で殴り合っておったのだ? ワシにはとんと理解できぬが」
すずのお小言に答えるやまとは相変わらず上機嫌な様子だった。
不意に大きなあくびをしたやまとを見て俺は非常に大事なことを思い出した。というかこんなに大事なことを忘れていた自分の迂闊さが信じられないほどだった。
「ねえ、やまと!! 安平選手の能力のコピーってどうなってるの!?」
「……なんだ小僧、急に大きな声を出しよってからに。ふん、ワシに抜かりがあろうはずがないではないか! 小僧が『試合』とやらに勝ったのがきっかけで訪れる人間どもも何やら急激に増えたよってな。小僧の次の勝利のためにワシも一肌脱いでやったわ」
ぐふふ、と如何にも得意気にやまとは喉を鳴らした。
「え! え! 流石、やまと様! 素敵! 今日もおヒゲがカッコイイ! 早くその能力を伝授して下さいな!」
「……まったく、現金な小僧よのう。ほれほれ今後ともワシのために命を削って働き、この花田神社の存在を人々に広めるのじゃぞ?」
「はは~、やまと様の仰せのままに!」
そんな三文芝居を経て、やまとはしっかりと俺に安平選手のスキルを伝授してくれた。
人間たちの事情や格闘技などまるで興味のなさそうな口ぶりを貫いていたが、先日いつのまにか訪れた安平選手からスキルをコピーしてくれていたのだから、やまとはああ見えて相当俺たちのことを理解しているし協力的だ。
そんなわけでやまとによって安平選手からコピーしたのは『稲妻ジャブ』と『最短距離のストレート』だった。打撃……中でもパンチの得意な安平選手らしいスキルだ。
俺もストライカーだからこそ、この能力が如何に重要で難しいものかが理解できる。
MMAストライカーは純粋な打撃の面で、生粋の立ち技選手にやはり敵わない部分がある。立ち技で日本最強クラスにまで辿り着いた安平選手のスキルをコピーできるのならば、俺にとっては間違いなくプラスになる。
もちろん俺のMMAに組み込み、アレンジして、使いこなせるまでには時間も慣れも必要だろうが、何より自分の得意な武器がさらに磨かれてゆくというのは理屈抜きにワクワクするものだ。
ピンスタグラムの影響による花田神社への参拝客の増加はすぐに落ち着いてしまったが、街中で「田村選手ですか?」声を掛けられることも増えたし、俺自身への注目は間違いなく以前よりも増加していた。やはり安平選手というタレント力のある選手と試合をして、勝利を収めたというのが一番大きいのだろう。
花田神社への注目はほんの一時で過ぎ去ってしまったが、何より嬉しいのは我がジム『FIGHTING KITTEN』への入会希望者がかなり増えたことだ。
当然「あのFIZIN出場選手、田村保が所属しているジム」という注目のされ方もしているのだが、どうもやまとの氏神様としての神通力のようなものも関与しているようだ。ジムと花田神社も隣接しているのだから、会員さんが増えればそれだけ『気』の集まる量もそれだけ増える……ということにやまとも気付き、氏神様としての能力を今さら発揮し出したようだ。
……今までは単なる口うるさくて尊大で可愛いだけの黒猫だと思っていたが、どうも中々やまとはスゴイ存在なのかもしれない。