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第100話 器の大きな人の前では調子に乗り過ぎないようにしましょう

「いやぁ、田村君。失礼ながら正直ここまで君が上がってくるとは思ってなかったよ。笹塚さんが最初君のことをピックアップしてきた時は、地味で真面目なだけが取り柄のどこのジムにでもよくいる若手だとしか思ってなかった。……ははは、悪い悪い! でも正直そうとしか私の目には映らなかったんだよ。それがハタチそこそこでバンタム級のトップ戦線にまで来るとはねぇ!」


井伊CEOは今一度俺の全身を値踏みするように見ると、ほっと一息吐いた。

ここはFIZINオフィスの一室。俺は師範とともに次戦の契約の打ち合わせに訪れ、井伊さんと小一時間ほどミーティングをした後のことだ。

次戦についての契約が概ねまとまった後に井伊さんが「田村君と少し2人で話したい」と言い出したので、師範には先に出てもらい俺は井伊さんと1対1で向かい合ったのだった。


「はい、まあ、そんな感じだろうなとは思ってました。……でも、当時の僕を見て井伊さんがそう判断するのは当然だと思います。僕がここまで来れたのは幸運だったんだと思いますよ」


正直に話してくれた井伊さんに対して、俺も本音を話す。

日本のMMA最高峰の団体の経営者である井伊CEOという存在は、今までケージの中で拳を交えてきたどの相手よりも緊張する相手……と身構えていたのだが、率直に話す井伊さんに対して俺も率直に話すことができた。やはり一流の経営者の人間的魅力はこういったところに表れるのだろうか。


「で、どう? 田村君はこれからはどうしていきたいの?」

「FIZINのチャンピオンになりたいです。宮地大地を倒して」


井伊さんの質問はとても漠然としていたが、俺はそれに対してノータイムで返答した。この数ヶ月間そのことしか頭になかったからそうした答えが出てくるのは当然だ。


「そうか。良い目をしてるな、田村君も!」


そう言うと井伊さんは俺の肩をパシパシと叩いた。それに対して俺はどう振る舞えば良いかわからず、軽く会釈を返すだけ……という陰キャらしい反応をしてしまった。


「あれ、そういえば田村君はこれからもずっと紋次郎師範の下でやっていくの?」

「……え、どういう意味ですか?」


井伊さんは先ほどと特に口調を変えたというわけでもなかった。本人にとってはごく自然な話の流れとして出した話題だったのだろう。だがその話は俺にとっては重大なもので、流石に返答には慎重にならぜるを得なかった。師範の元を離れどこか別のジムに移籍するなんて一ミリも考えたことがなかった。


「ああ、いや、別に深い他意はないんだ。紋次郎君の下でやっていくのが悪いとかそういう意図で言ったわけじゃない。誤解させたならごめんな。……ただ多くの選手はある程度キャリアを重ねると色々とジムを移籍したり、環境を変えることが多いのは田村君も知ってるだろ?」


「はい……そうですね。ただ自分の場合はまだまだ紋次郎師範に学ぶことが多いですし、それに出稽古なんかも毎週行ってますし、特に学ぶ環境が不足していると感じたことはないですね」


相変わらず小仏さんのジムには柔術とグラップリングを教わりに毎週行っていたし、最近では大兼君や高松君のジムにも定期的に出稽古に行っていた。それぞれのジムには様々な選手が俺と同じように出稽古に来ているから、毎週同じジムに行っても練習相手には毎回変化がある。

井伊さんの言う環境の変化が刺激となるという話も理解はできるが、俺は今の環境でも充分刺激的な練習ができているという実感があった。

単身アメリカに渡った宮地大地のような海外修行も刺激はあるかもしれないが、環境の変化のストレスで練習の質が落ちてしまっては本末転倒だろう。俺は確実に積み重ねていける今の環境が不足だとは全然思っていなかった。


「そうか。まあ次戦はよろしく頼むよ」


井伊さんはそう言って握手を求めてきた。これでミーティングは終わりということなのだろう。


「はい、ありがとうございました。良い試合見せられるよう全力を尽くします。見といて下さい」


次戦の俺の相手はジョアン・マチダ選手に決まったのだった。いよいよバンタム級トップ戦線の一員との対戦。そして「ここをクリアすれば宮地君とのタイトルマッチも考慮する」と井伊さんも明言してくれた。(そうは言ってもこれは契約を結んだわけではないので、状況によってどうなるかは分からない不確定要素であることは百も承知している。団体のトップの言葉というのはその程度の話半分で捉えなければならないことは俺も理解できるようになってきた。)


「あ、そうそう……今度面白い海外選手がバンタムに入ってくるんだよ」


握手をして席を立ち退出しかけた俺の背中に、井伊さんが軽く雑談めいた口調で言った。


「あ、そうなんですか。まあここ最近は上位陣が固定化しているような感じもありますからね、新しい風も必要ですよね。ちなみにどんな選手なんですか?」


「マクレ? ……カヌレ? ……えっと、ああ、そう。マヌルネコドフだ! 中央アジアのアフガニスタンっていう国の出身だ。ロシアの団体でランカー入りしてた選手で、まだ23歳なんだ。まだ12戦しかしていないけど全勝で、映像を見た限り結構強そうだぞ?」


「へ~、そうなんですね。楽しみです」


アフガニスタンという国、ロシアのMMA団体……いまいちその時はイメージが湧かなかった。

まあFIZINは日本の団体だが当然外国人選手も参戦しており、世界各国のMMAの情報を仕入れ目に付いた有望な選手がいればスカウトしてくる専門の部署もある。

ただ外国人選手は当たり外れの差が大きく、現在継続的に参戦してFIZINを盛り上げている選手たちのような存在は稀だ。ほとんどは1,2戦してすぐに離れていってしまう。

だから俺もこの時の井伊さんの話も特に気に留めはしなかった。大袈裟な触れ込みで入った外国人選手が契約体重を2~3キロオーバーして試合が成立しなかったり、真っ当に強くてもすぐ別の団体に行ってしまうなどはよくあることで、実際に参戦してみるまで判断のしようがないという風潮になっていたからだ。

そんなことよりも、3月のジョアン・マチダ選手との試合に向けて俺は集中しなければいけなかったのだ。




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