仮にレンが誰かとキスをしたことがあって。
それがアイリとかリコさんとか。
もしくは、私の知らない誰かだったとしても。
でも、もう私には関係ない。
だって、レンとは距離を取るって決めたから。
自分で決めたことだから。
だから私は、こんなにも余裕を持っていられる。
逆にスッキリしたくらい!
ふふふっ。
「ユイぴょーん、なに一人で笑ってるのー?」
そんな私に、ミユが首を
「次は教室移動だよー」
「あ、うん! ……って、あれ? ユウトくんは?」
「準備があるからーって、先に行ったよー」
「そっかー。じゃ、更衣室行こっか」
私は軽く微笑むと、体操着の入ったバッグを持って立ち上がった。
どう?
この流れるような立ち振る舞い。
そう、私は余裕のあるオンナ。
そんな私の姿に、何かを感じたのだろうか。
ミユが、おずおずとした感じで口を開いた。
「えっと……ユイぴょん? 次の授業は生物だから、生物室なんだけどー」
「……んはっ!?」
慌てて周りのみんなに目を向ける。
確かに、誰一人として体操着を持っている人はいない!
「あ……あー、そっか! 5時限目の授業、体育から生物に変わったんだっけ!」
そうだった、そうだった、つい勘違いしてしまった。
余裕ある私でも、たまには間違えることもある。
だけど、ミユは首を横に振る。
「ううんー。2年生になったときからー、次の時間はいつも生物ー」
うっく……。
いつだって現実は厳しくて。
目の前に大きな壁となって立ち塞がる。
だけど、それに負けてなんかいられない。
私は真っ直ぐ前を見た。
「ミユ、行こう!」
私は足を踏み出す。
困難を乗り越える一歩だ。
見て!
余裕のある私は、ここでくるんとターンもできるの!
ミユに見せつけるように、瞳を閉じてターンを決める。
「わぁ、ユイぴょん」
口に手を当てたミユが、驚きの声を上げる。
「……前、危ないよー?」
え、前?
「——うべちゃ!」
その瞬間、私は顔を思いきり強打した。
硬くて冷たい頑丈なそれは……。
「教室の……扉!?」
そう、私は閉まっていた扉に勢いよくぶつかったのだった。
「み、ミユ! 扉が閉まってるなら、早く言ってよっ!」
「んー? オバケみたいにー、スーッと抜けられるようになったのかなーと思ってー」
「そんなワケないでしょっ!」
ううー、ぶつけた顔が痛い。
でも、それ以上に恥ずかしくて顔が熱いっ!
私は、逃げるように教室を飛び出した。
その後をミユが小走りでついてくる。
「どうしたの、ユイぴょーん? なーんか、お昼休みから変」
「え……!」
「もっと言うとー、ユッたんの雑誌を見てから変」
「えええ!?」
ユウトくんの雑誌。
それはもちろん、キス特集が組まれていた恋愛情報誌のこと。
「もしかしてー、何か意識しちゃってるー?」
「あ、あはは。そんなことないって! 私は、いつも通り!」
「ホントにー?」
「ホント、ホント!」
廊下を歩いていくと、やがて生物室が見えてきた。
扉は開いている。
これなら、さっきみたいな失敗はない。
「ねぇ、ユイぴょん」
そのとき、ミユが心配そうな声を出した。
「……レンレンのことで、なにかあったー?」
思わず胸がドキッと大きな音を立てた。
「な、な、な、なんでそう思うの?」
「んー? なーんか、ギクシャクしてるっていうか―。ユイぴょん、無理してるっていうかー」
くぅ……!
ミユが鋭い。
とても優しくて友達思いのミユ。
私を見つめるその瞳からは、本気で心配してくれているのが伝わってくる。
でも……。
私は、アイリのために身を引くって決めたから。
ただの幼馴染みに戻るって決めたから。
……正直、今はちょっと辛い。
胸の奥からズキン! という音が聞こえてくる。
だけど、この痛みにいつか慣れる日が来ると思うから。
だから……!
「そ、そんなことないよっ! 私は大丈夫!」
だから、無理やりに笑顔を作る。
これ以上、ミユに心配をかけないように。
「ホントに?」
「ホントだってば」
ミユを振り返り、そう答えながら生物室に入る。
そう、レンはもう、ただの幼馴染……。
——その瞬間!
「ユイぴょん、前!」
「えっ!?」
ミユの言葉で前を向くけど、時すでに遅し!
またもや何かにぶつかってしまった。
バランスを崩しそうになって、咄嗟にそれに抱きついてしまう。
それが人の形をしていると気付くのに、時間はかからなかった。
く……。
やっぱり、いくら思い込んでも現実は厳しくて。
私の注意力は散漫になっている。
しかも誰かにぶつかって、抱き締めて……。
って、ちょっと待って!
こういう展開って、マンガだと好きな人とぶつかっちゃうのが定番じゃない!?
ってことは……。
「日野原、何してんだ……?」
やっぱり聞こえたレンの声!
その声を聞くだけで、心がキューンと切なくなって。
思わず、抱き締める腕に力が入ってしまう。
……現実は本当に厳しい。
「なんで抱き締めてんだよ?」
少しイジワルな。
だけど、優しさも感じるその声。
後から聞こえてくる、その心落ち着く声に私は……。
……って、ん?
後から聞こえてくる……?
レンは後ろにいる!?
じゃあ、今、抱き締めてる人は……?
私は慌てて距離を取る。
それは、顔半分を赤く染めた……。
っていうか、半身を赤く染めた……。
っていうか、赤いそれは内臓で……!?!?!?
私が抱き締めていたもの、それは生物室の人体模型だった!!!!!
「ぎゃあああああっ!」
悲鳴を上げて飛びのく。
背中が誰かにぶつかった。
振り向くとそれは今度こそレンで……。
「日野原って、そういうのが好きだったんだな……」
あ、なんかちょっと引いた目をしてる!?
「ちがうから——————っっっ!!!!!!」
私の叫びが、校舎の中に響き渡った。
現実ってやつは相当にハードモードだ。
……ううっ。
放課後になった。
今日は委員会の集まりがある日だった。
そちらはなんとか無事に終わらせて。
私とレンが教室に戻ってくると、残っている人はもう誰もいなかった。
う……二人きりだ。
ちらりとレンを見る。
夕暮れどきの今、窓から入り込むオレンジ色の陽射しが鮮やかに彼を照らしている。
『高校生のキス事情! 30%がキス経験済み!?』
不意に雑誌の文字が頭の中に蘇り、ついつい視線がその唇に行ってしまう。
くうぅーっ、今日の私はダメすぎる!
こんな日は早く帰って、あたたかいお布団に潜り込もう。
カバンを手に取った私に、レンが口を開く。
「じゃ、帰るかー」
「……は?」
「は? じゃねーよ。一緒に帰ろうって言ってんの」
「なんで? 私、一人で帰るけど!」
私はレンの横をすり抜けて歩き出す。
一瞬、レンの目が私のカバンを見た気がした。
猫のキーホルダーを外したこと、気付かれた!?
あと少しで教室から出られる。
——というところで、後ろから手が伸びてきて、ピシャリと扉を閉められてしまった。
「ちょ……ちょっと何すんの! 開けてよ!」
「いーやーだ」
なにその子供っぽい言い方!
可愛く言われたって、私の心は揺らがないんだからっ!
「邪魔しないでよっ!」
「あのさ……」
後ろから、レンのため息が聞こえる。
「なんで俺のこと避けてんの?」
「別に、避けてなんか……」
「こっち向けよ!」
言葉を遮られる。
私は下唇を噛むと、覚悟を決めて振り返った。
そして、ハッとして思わず息を飲む。
私の顔の横には、扉を押さえたままのレンの腕。
じっと見つめてくる瞳の距離は近く、その息遣いすら感じられる。
——それは、予期せぬ〝壁ドン〟状態だった。
胸が、かつてないくらい高鳴っている。
例えるならば、夕立と花火とジェット機が一緒にやってきたみたいで。
私にはもう、
……沈黙。
急に静かになった教室で、私の耳には心臓の音だけが響いている。
その沈黙を破ったのはレンだった。
「俺のこと……避けんなよ」
寂しげなその声に、胸がチクリと痛む。
どんな顔してるのか想像がついて、私は体の横で手をキュッと握った。
俯いたまま口を開く。
「……レンのこと、好きな子がいるんだよ。その子は私にとって大切な人で。……だから私は、レンと一緒にはいられない」
絞り出す声。
今の私には、これが精一杯。
「なんだよそれ!」
「もう……決めたから」
「そこに俺の気持ちはあるのかよ!」
その瞬間、私の中で何かが切れた。
「何それ……」
私は顔を上げるとレンを
「何それ! それじゃまるで私のことが好きみたいじゃん!! どうせ、そんなつもりないクセに!!!」
本気で頭にきた。
私が、どんな気持ちでレンを諦めることを決意したかも知らないで!
私の苦しみも悲しみも、ぜんぜん知らないくせに!!!
「私のことが好きなら、黙ってキスくらいしてみればいいじゃ————」
——言葉は。
それ以上続けることができなかった。
——私の唇は。
レンの唇で塞がれていたから。