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第29話 まだ続く夜の時に心を惑わせる

 ぽすっと音を立ててベッドに体を横たえ、小さくため息をつく。

 さらさらのシーツから、優しく甘い香りが立ち上がった。これはラベンダーの香油だろうか。とても心地が良く、身体がベッドに沈んでいくように感じた。


 眠りに誘われるようにして目蓋を下ろし、このまま寝てしまおうかと思ったとき、はたと気付いた。


 ちょっと待って!

 すっかり忘れてたけど、ヴィンセント様とすごす今夜をどう乗りきったらいいかの、答えが出てなかったじゃない。


 全身からどっと汗が噴き出すのを感じ、飛び起きた私は無意識のうちに口元をひきつらせていた。

 男性と夜をすごすなんて、もちろん、初めてのことよ。

 ベッドは一つしかない。

 汗が滝のように溢れ、背中が濡れていく。


 落ち着いて、ヴェルヘルミーナ。

 そもそも、ヴィンセント様が私に懸想することがないかもしれないじゃない。そうよ、女嫌いって噂だってあったわ。初婚のとき、お子様だってお作りにならなかったと、ダリアも言っていたし。


 ぐるぐると考えていた私は、脳裏に浮かんだヴィンセント様の微笑みに、全身が熱くなるのを感じた。


 私のことを嫌ってるなら、あんなお顔をされないのではないか。愛していると言われたわけではないけど、少なくとも好意は感じる。


 そんな彼は、私の初恋の人。


 何も起きないだろうとは思うけど、どうして冷静でいられると言うの?


 考えれば考えるほど全身が熱くなり、汗が滴り落ちた。

 待って、待って。

 こんなに汗をかいてしまって、匂いは大丈夫かしら。ヴィンセント様が不快に思わないかしら。汗を流した方がいいかしら。でも、そんな二度も湯浴ゆあみをしたら、それこそといってるようじゃない?


 せめて、タオルで汗を拭うくらいは──おろおろするばかりだった私は、はたと気付く。

 これじゃ、期待しているみたいじゃない。


 よく考えなさい、ヴェルヘルミーナ。

 ヴィンセント様と初めて出会ったのは、私が十歳に満たない頃よ。彼が私に恋心を抱く訳なんてないわ。妹とか身内の子ども程度にしか思っていなかったでしょう。どんなに、遠い恋心を蘇らせたって、これが政略結婚であることに変わりはないのよ。


 早鐘を打つ胸の前で手を握りしめて思う。トキメキが苦しいものだなんて、どの本にも書いていなかったと。


 俯いたその時、ドアがノックされた。


 ダリアが戻ってきたのだと思ってほっと胸を撫で下ろし、「どうぞ」と声をかけたのは、失敗だったかもしれない。そう思ったのは、迎え入れてしまった彼の顔を見た瞬間だった。


「ヴェルヘルミーナ、まだ起きていてよかった」

「は、はひぃ!?」


 現れたヴィンセント様に思いっきり動揺してしまい、声がひっくり返った。


 部屋に入ってきたヴィンセント様は、手に持っているトレーをベッド横のナイトテーブルに下ろした。


「そこで侍女殿に会ってな。ハーブ水を預かった」

「えぇ!? そ、そんな、ヴィンセント様自らだなんて」

「ははっ、侍女殿にも言われたよ」


 グラスにハーブ水を注いだヴィンセント様は、私の横に腰を下ろすと、それを差し出して微笑んだ。


「二人でゆっくり話したかったんだ。起きていてくれて良かった。眠くはないかい?」

「えっ、あ、あ、はい……」


 そう言われて、寝たふりをしていれば良かったのかと気づいた。だけど、もうどうすることも出来ない。

 グラスを受け取り、もじもじと俯いていると「ハーブ水は苦手か?」と尋ねられた。


「いいえっ。いただきます」


 慌ててグラスを傾けたけど、香りなんてちっとも分からないわ。ドキドキと緊張していると、ヴィンセント様が「今日は驚いただろう?」と静かに問いかけてきた。

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