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4章…第6話

聞き覚えのある男性の声。

いや、そんなレベルじゃない。


いつでも、どんなときでも、ドキン…と胸が高鳴ってしまう声の主なんて1人しかいない。


パッと振り返ると、そこにはスラリとした立ち姿の吉良。


「…え」


それにしても意図しないところで会うと…一瞬固まってしまう。

本当に一緒に暮らしてるのか…?ってレベル。


毎日一緒に寝てるのに、急に現れた人に頬を染めてしまう自分を殴りたい…

もう少しシレッと、すました笑顔でも浮かべられないものかなぁ…私。


それなのに吉良は、爽やかな笑顔で近づいてくると、スッと右手を出してきた。


「さっきの店で、忘れてましたよ?」


手のひらの上には…私の携帯。


「えぇっ!!」


驚いてさらに固まる私に、笑って携帯を差し出す吉良。


「ありがとう、ございます」


「…どういたしまして!」


爽やかな笑顔のまま添島先輩と少し言葉をかわして、万里奈にも軽く頭を下げて、来た道を戻っていった。


その後ろ姿は、悠然と…余裕のある…大人の男性で…

許されるなら、ずっと見ていていいですか…。


熱い視線を送りながら、吉良は何も言わなかった…匂わせもしなかったと気づいた。


添島先輩にも万里奈にも、あくまでも「取引先の人」って距離感で、私が1人で上がったり下がったりオタオタしてるだけ。


多分吉良は、私を恋人だなんて会社の人には打ち明けていない。


ちゃんとONとOFFの切り替えができてて、涼しい笑顔を見せてて。

いつだって余裕。


私なんて、ちょっと吉良に触る女の人がいれば気になって気になって冷静じゃいられないのに。


あぁ…追いつきたいと思う。

ちゃんと社会人として、ちゃんと大人になって、キレる女に…私はなりたい。


……………


「はじめまして。桜木と申します。添島に変わり、本日より私が御社の担当となりました。今後ともよろしくお願いいたします」


「…添島くんからいきなりこんな若い子に変わっちゃうの?…大丈夫かな?」


午後になり、朝イチで伝えられていた初の担当取引先、エムズファイナンスへ、添島先輩と一緒にご挨拶に来た。


担当の方は佐川さんという年配のベテラン社員。

言われるかもしれないと思っていたことを本当に言われて、少しドキドキした。


「大丈夫ですよ!僕もサポートしますし!」


添島先輩が明るく胸を叩くので、佐川さんも安心してくれたらしい。


しばらく打ち合わせをして、この日は一旦帰ることになる。




「桜木さんね、まずは一社担当してもらうけど…1つ約束してほしい事がある」


社用車を運転する添島先輩が、妙に真面目な声を出すので何ごとかと思う。


「はい。なんでしょうか」


「取引先の人と、簡単に外で会わないように」


はい…と言いながら、どういう意味かと思う。


「もし親睦をはかりたいとか交流会とかの話があったら、まずは僕に言って。必ず数人で伺うようにするから」


「それってつまり…」


「うん。残念ながら、若い女子社員は、女の子って見られちゃうんだよね」


その話を聞いて、吉良が私を社会人にさせる前に結婚したいと言った本当の意味がわかった気がする。

こちらにそんな気はなくても、この広い社会では、思いがけない目で見られることがあるということだ。


…大人になるって、大変だな。

今までみたいに、ぼんやりしていられない。


同時に、ランチの時…吉良との本当の関係を皆に言いたいと思ったことを反省した。


プライベートと仕事はきっちり分けなきゃ。

吉良だって携帯を届けに追いかけてきてくれた時、ちゃんとよその会社の人…ってスタンスだったし。


「わかりました。私…比較的ぼんやりしてる方なんですけど、これからはしっかり気を引き締めて仕事をしていきます!」


「ふふ…頼もしいね。その調子だよ!」


添島先輩に言われて私は改めて頑張ろうと思っていた。



………………


「ただいま…」


暗い部屋なのに、つい声をかけてしまう。

私のほうが先に家に着いたみたいだ。今日も吉良は遅いのかな。


スーツを脱いで部屋着に着替え、エプロンをして夕食の支度をしようとキッチンに行った。


…その前にお風呂の用意をして、冷蔵庫を覗いたところで、玄関から物音がして吉良が帰ったことを告げる。



「…ただいま」


ネクタイを緩めながらリビングに入ってきた吉良。


「おかえりなさい!」


今日のランチで見たのと同じスーツ。…って当たり前だけど。

なんだかドキドキしちゃうのはなぜでしょう…


吉良は私のエプロンを奪って、食事の支度に取りかかった。


「…たまには、私が作ろうか?」


「いいよ。簡単に和食でも作るから」


簡単に和食を作れちゃう吉良がすごい…と思って口を挟めずにいると「ん?」と視線をよこす。


「いや…吉良はすごいなぁって思って…」


カッコよくて料理もできて仕事もできて大人で余裕もあって…

今日、皆の前で携帯を返しに来てくれた時のことが浮かぶ。


「全然…!それより、どうした?」


少し、自信をなくしてしまった。

こんなに素敵な吉良が、私を愛してくれるなんて、ウソみたいだなって。


「ううん…なんでもないよ」


ほんの少し、心が揺れただけ。

そんなこといちいち吉良に言ってたら、それはただの愚痴になっちゃう。


吉良のそばに歩み寄って、私に何か手伝えることはないかと申し出る。


「モネは風呂と明日の準備だな」



…そうでした。

新入社員、余裕をもって準備しとかないと、思いがけない失敗につながるって…添島先輩も言ってた。

明日着ていくスーツをチェックして靴を磨いて、添島先輩に渡された担当企業の資料にも目を通さなくちゃ。



食事もお風呂も済ませてベッドに横になれば…吉良とのおだやかで幸せな時間は、明日の仕事への活力にほかならないと実感する。


「…仕事、少し慣れたか?」


向き合って、吉良が優しく問いかけてくれた。


「うん…今日、担当する取引先にご挨拶に行ったの」


「添島さんと?」


「うん…」


そうか…と言いながら、私の首の下に腕を通して、私を胸に抱き寄せる吉良。

…何か言いたそうだけど、いいのかな。


「あの、私達のことは、何も言わなくていいよね」


「ん?」


「…携帯、届けに来てくれたとき、そう思って…」


改めてありがとうと言った。


「うん、まぁ…仕事の関係者には…な」


吉良はそれだけ言うと、おやすみ…とおでこにキスをくれたので、話は終わりだと察して私も目を閉じた。


まさか…この時吉良が、複雑な思いを抱えていたなんて、睡魔と手をつないだ私に想像なんてできなかった。



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