「…ごめん、何でもない」
一瞬で、私の表情の変化を読み取ったらしい。
でも…気づいてしまった。
吉良とのハジメテは、あのアパートの、シングルベッドで。
それまでされていたような、優しいキスじゃなかった。
耐えられないように、キスが深くなって、吉良から漏れる吐息が激しくなって…
早急に求める手が、唇が、愛の深さだと信じて身を任せた。
一晩中…抱きしめられて、下着を着けることも許してもらえなかった。
体中を這う舌を、切ない吐息を。愛してるって言われた低い声を。
ハジメテの…あの夜のことを、私はとても大切にしていたの。
…あのベッドでも、金沢さんと過ごしたこと、あったんだね。
いつもは鈍感なのに、吉良に関しては少しだけ鋭くなってしまう自分が嫌だ。
「…モネ」
泣きそうな私を抱き寄せる吉良。
「これで、全部。俺がたどってきた過去…」
吉良は私を少し離して、目を見て言った。
「居酒屋で金沢さんに会ったとき、ごまかしてごめんな。それから…俺から言えなくて、悪かった」
あの日、私を鬼龍さんに連れ出してもらったあと、勝手に隣に座った金沢さんにもう一度伝えたという。
「とっくに終わっている関係だと。しかも初めから愛のない関係だとキッパリ言ったんだ」
その後吉良は、一足先に店を出たらしい。
「帰ったら、隣に座ってただけなのに彼女の香水がスーツに移ってて…」
翌日見つけた、紙袋に入ってたスーツのことだ。
「捨てたよ。…俺には、それほど消したい過去で、勝手ながら…彼女にも2度と会いたくなかった」
吉良は自分の過ちを認めながら、正直な気持ちを打ち明けてくれたのだと思う。
隠していたこと、自分から言えなかったことを、本当に申し訳ないと…真摯に謝ってくれた。
…次は私の番だと思った。
「私は…それでも吉良が好きだよ。
過去は確かに、間違いが多かったかもしれない。でも家庭環境的にも仕方なかったと思う。だから…」
許すとか、許さないとかそういう問題じゃない。
私が受け入れるか受け入れないか。
もちろん、私は…受け入れる。
「金沢さんに偶然会って、詰め寄られて…怖かった。でも、話を聞こうと決めたのは私なの。内容は、聞いたことをすぐに後悔するほどショックなことだった。金沢さんが、そういう言い方をするからだけど…でも、吉良のやっていたことは、ショックじゃないとは言えない」
「モネ…苦しめて…ごめん」
「大丈夫。大丈夫なの…吉良を好きだからツラいの…」
…ハジメテのあのベッドで…かつて金沢さんとも寝てた………
そのベッドは、このマンションに越してくるまで、吉良の部屋にあった。
ここに越してくるタイミングで、どうしても買い替えると言ってたのは、そういう理由があったからなんだね……………
「それから、私も吉良に言わなくちゃいけないことがあるの」
「モネが…?」
少し意外そうに首をかしげて、私を見下ろす吉良。
眉間にシワを寄せた…苦しそうな表情。
「昨日、憂さんの行きつけの会員制バーで飲みすぎちゃって…帰り、鬼龍さんにここまで送ってもらったみたいなの」
「…みたい?」
「寝ちゃってたみたいで、意識を失ってて…。気付いたらこのソファに寝かされてて、お腹にバスタオルがかかってた」
「お腹に…バスタオル…」
「ごめんなさい。すぐに言えなくて…」
吉良は急に横を向いて、指先を口元に持っていった。
しばらくそんな格好で何も言ってくれなくて…私はもう一度「ごめん」を届けた。
「…責められないよ。俺だってずっと隠し事してたし」
急にソファから立ち上がった吉良。
ベランダに出て…しばらくすると、ほんのりタバコの匂いがした。
吉良がタバコを吸うなんて…
そんな姿、見たことない。
私はそっと窓に寄って、紫煙をくゆらせる吉良を見つめた。
…その姿がなんだか寂しそうで、私もベランダに出てみることにする。
わずかな軋みの音と共に開く窓に気づいて、振り返った吉良は、火のついたタバコを咥えていた。
立ち上る煙を邪魔そうに目を細めて、唇の端のタバコを吸い込む。
ふぅ…と吐き出す煙は、顔を背けて私にかからないように…
その仕草は初めて見るもので…なんだか胸が高鳴って困った。
「タバコ…吸うんだね…」
「うん。中学の頃からな」
「たまに、吸ってたの?」
…私の知らないところで…
「いや、出張先で久しぶりに買った」
吉良がタバコを吸っている姿はカッコいいしときめいちゃうけど…知らない人みたいでちょっと寂しい。
「…煙いから、中に入ってな」
2人でベランダに出ると、いつも私を後ろから抱きしめてくれた吉良。
今日もそうしてくれるかなって思ったけど…火のついたタバコを持ってるから、私に触れないんだよね?
「うん…」
言われるまま素直に…部屋に入った。
すっかり冷えたお茶を流しに持っていって洗っていると…
「もう1回シャワーするわ。なんかタバコ臭いな」
振り返って笑顔を返しながら…
本当は、タバコの匂いの吉良に抱きしめて欲しかったと思う。
タバコの匂いを移すようなキスをしてほしかったと思う。
それが、私の知らない吉良だからこそ、わからせてほしかった。
出会った時を巻き戻すのは絶対無理で、私の知らない吉良がいたのは消せない事実。
大切なのは過去じゃなくて未来だと皆言うけど、それでも好きな人の過去を少しでも知りたい。理解したいよ、私。
昔はずっと…タバコの煙に包まれていたんでしょ。
だったら、あの頃と同じ匂いを感じさせてよ。私にも移してよ…
バカみたいだと思いながら…私は手を泡だらけにして、少しだけ…泣いた。