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8章…第2話

「降りなさい…!」


車が止められたのは、2階建ての古びたアパート。

1階の一番奥の部屋まで連れて行かれた。


ドアが開くと、埃っぽいような、甘ったるいような…独特の匂いがする。



「ここは…?」


「私の住まい。…キャリアウーマンなんて言った話を信じた甘チャンには、ショックだったかしら?」


部屋は6畳ほどの広さの部屋とキッチン。


使われていない様子のキッチンには、ところ狭しと化粧品が置かれている。


雑多なものが溢れるテーブルの片隅に、目覚まし時計のような物が置かれていて…今の時刻が20時過ぎだとわかった。

…正確な時間かどうか怪しいけど。


金沢さんは奥の和室らしい部屋に置かれたソファに座り、タバコを咥えた。


真っ赤なレザーのソファ。

黒い模様のないカーペットには、脱ぎ捨てられた服が散らばっている。


私はどうしたらいいか、立ちすくみながら…奥の和室にいる彼女より、玄関ドアに近い場所に自分がいることに気づいた。



今だ…と思った。



考えるより早く部屋を飛び出し、同じアパートの人に助けを求めるか、通りに出るか迷って…


すぐ隣の部屋のチャイムを鳴らした。


そしてすぐ隣のチャイムも…


ピーンポーン…とは鳴るものの、誰か出てくる気配のない隣室。

それはその隣の部屋も、さらに隣も、同じだった。



「…ま、まさか…」


全部…空室?


とっさにアパート前の道路を見て愕然とする。


人の気配がない、暗い小さな小道。

見渡す限り、畑…


大通りは確か、少し先だった。


闇雲に走っても良かった。

でも…足がすくんでしまった。


いつの間にか私の背後に回った金沢さんが…後ろから私の喉元を絞めたから…



「や…めてください…かな…ざわ…」


「話をしたいって言ってるのに!なんで逃げるのよっ!」


ギリ…っと食い込む細い指。


あまりの恐怖に、私は逃げる気力を完全になくしてしまった…




「おとなしくしてれば、別に何もしないのに…」


私の肩を抱いて部屋に戻り、金沢さんは玄関を入ってすぐのキッチンに置いてある椅子に掛けるよう言う。


さっき首を絞められた恐怖が蘇って、私は素直にその椅子に腰掛けた。


「言っておくけど、今日会ったのは偶然よ?」


座る私の正面に立ち、金沢さんは半笑いの笑顔で、腕組みをしてみせる。


「…確かにもう一度あなたに接触したいとは思ってたけど…まさかあんなところで助けられるなんて。…本当にあなたも運の悪い人ね?」


自分に会ったことを『運が悪い』と言えてしまうということは…私に危害を加える気があることを推測させた。



そして…どこからか見慣れないものを持ってきたので、目を見張ってしまう。


手錠と足枷…

こんなものをつけられたら…



「1度逃げたからね。…縛らせてもらうわよ?」


弧を描く口元が恐ろしい…


成す術もなく、椅子に縛り付けられた。


「…お茶は飲ませてあげる。はい、口開けて…」


冷蔵庫から取り出したペットボトルのお茶…多分すでにキャップが空いてる。


いつのものかわからないものを飲むなんてできない。


いらない…と言っても無理やり口に注ぎ込まれ、とっさに飲んでしまったものの、その大半はこぼれて…服をビシャビシャに濡らした。



……………………

      ………………………


…どれくらい時間が過ぎただろう。



金沢さんは赤いソファに座って、椅子に縛りつけて手錠と足枷をつけた私に向かって…ずっと話していた。


それは、吉良との出会い、吉良との交わり、吉良への思い…吉良と会えなくなった悲しみ。



「愛してた…吉良を買うために、昼間の仕事を辞めて、夜の商売に切り替えた。…それでも足りなくて、風俗に堕ちようと思った…そんな時、吉良がいなくなったの。かき消すみたいに…私の前から姿を消したの…」


どこを見て話しているのか…焦点の定まらない視線。


怖いと思うのに、いつの間にか私は…話を聞きながら同じように泣いていた。


それは、金沢さんへの同情でも同調でもなく、人を愛して狂っていく様が悲しすぎて。



『誰も悪くない…』

鬼龍さんが言ってた話を思い出す。


鬼龍さんの恋人は吉良を好きになって隠しきれずに…鬼龍さんはそれを知って体に異変をきたした。  


金沢さんを見ていると思う。


人を愛する…人に惹かれる…

それはもしかしたら、狂気と隣り合わせの、危険すら孕んでいる感情なのかもしれないと。



愛と執着もまた、表裏一体で…私自身吉良に強く執着していると感じることがある。


…だからこそ。

私は大人になりたくて。


感情と愛と執着を、自分なりに整理整頓して生きていきたいから。


金沢さんも、そこに気づければ、こんなに苦しまなくてすむのに。



「金沢…さ」

「…あんたはいいわよ…」


声をかけようとした私の声の上に、金沢さんのどす黒い声が重なる。



「吉良に愛されて、結婚する…?一生あの男をモノにするなんて…あの、美しい男を…」


ソファから立ち上がった金沢さんが、私の前までやって来た。



「悔しい…悔しい…!」


体を動かしたわけでもないのに、金沢さんの肩が激しく上下している。



「…あ、の…」


「…ぶっ壊してやる…あんたなんか…」



瞬間、感じたことのない痛みが、頬に走った。


今度は逆側の頬に、そして耳に…。空気を切り裂くヒュッという音と共に、平手打ちをされる衝撃…


勢いがついて…椅子ごと倒れてしまい、肩を強打した。



「…いた…っい…」


あまりの痛みに声が漏れる。


次は何をされるのか…

ジンジンと痛む頬をかばう事もできず、ただ金沢さんを見上げた…




「…別れるって言いなさい。吉良と別れるって…私に返すって…」


床に横たわった私の足を、ギリギリと踏みつける。


…嘘を言うことはできなかった。


吉良と別れるなんて、できるはずない。そんなことしたら私だっておかしくなる…



「あなたがっ!吉良を幸せにできるんですか?」


気づいたら、そんなことを叫んでいた。



「うるさい女…っ!」


金沢さんは心底うっとおしそうに、私に猿ぐつわをかませる。

…これで、声をあげることもできなくなった…



「…私の客でね、若い女を自由にしたいってヨダレ垂らしてる男がいるのよ。…さっきそいつ呼んだから、」


金沢さんの目は…焦点すら定まってないように見えた。



「そろそろ来るかなぁ…」


金沢さんは…とっくに善悪の判断ができなくなっているのかもしれない。


でも…そんな変な人が本当に来たら、私はどうなるの?


身動き1つできないこの状況で…




…その時、玄関のドアが激しくノックされた。


ドアノブをガチャガチャ回され、金沢さんは私を見下ろして、ニヤリと笑う…



「…来た!」


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