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第31話

 切れた糸は距離感の絶妙な相手に対してでも未練を残す。破り合った約束を思い出しながら、モカは涙の痕を頬に街を闊歩していた。


 目的もなく、家に帰るのもなんだか億劫で、けれど静流が放った一言が頭を彷徨い続け、叶うなら再び話がしたい。この徘徊には切実な願いも綯い交ぜになっていたかも知れない。


 夕焼けの太陽が建物の隙間から浮かない顔の彼女を照らす。オレンジ色の燈火のような色合いがあの時の消えかかった闘志に重なる。


 敵だから、戦うしかないのか。いや私は敵じゃない。でも、


 回り続ける頭が目線を俯かせていると、耳に流れる一つの声に気づく。雑踏の中でも、銀鈴のような声音だけは確かに拾えた。


「湯河原さ」


 瞳を瞬かせ、じろりとモカを睨むように一瞥した彼女は、看板の奥に一礼して走り去ってしまう。モカもそれを追おうと足を踏み出すも、その足は遠のき、頽れてしゃがみ込んだ。


「私は……私は!」


 中途半端な思いだけが燻る。理由もわからない、伝えられない苦しみに心が抉れそうになる。


 嗚咽するモカ、再び視界が霧掛かろうとした。そのとき、そんな苦悶の声を聞き、お辞儀を見届けた看板の影にいた一人の男が、彼女の元へ歩いてきて、手を差し伸べる。


「立てるか?」


 顎に髭を蓄えた初老の男。茶色い枯草色のエプロンを羽織ったその男は落ち着いた声調で、眼から零れそうだった涙を両手で拭って、片手を取る。


 力強く引き揚げられたモカは、足に力を込めて自立した。男は振り返り、静流の足跡を追うように眼を泳がせた後、何かを察して尋ねる。


「君は、静流ちゃんの?」


 コクリと黙ってモカが頷く。


「何か飲むかい? 喫茶の時間は閉店だが、物は出せる。ちょっと忙しなくなるけど」


「……あの」

「ん?」


 何かを訊こうとして、言い淀む。


「湯河原さんのこと……その」


 控え目に問うと、男は鼻を鳴らして答えた。


「ここでバイトして貰ってるんだ。彼女の親父さんとは長い付き合い、腐れ縁って奴でね」

「あの、聞かせてくれませんか。湯河原さんの事」

「……何かあったみたいだね」


 訝る男は扉に立て掛けた表札をクローズの面に翻して、モカを店の中へと手招く。俯いて手招きに応じて、開かれた扉を潜った。


 朗らかなジャズのラッパと焙じたコーヒー豆の香りが漂う店内。木組みのカウンターテーブルとその奥に陳列された多彩な洋酒の瓶。色白でくすみないカップに紅茶を注いで、モカへ出した。


「どうぞ」

「あの、お代は」

「私の奢りだ。飲む前から金のことを気にしていたら味覚も痺れるし、喉が詰まるだろう?」

「……すいません。いただきます」

「別に、謝る必要なんかないんだがな」

「すいません」

「そういう時はありがとうだ」

「……はい。ありがとうございます」


 凍り付いたような声音に男は小さく嘆息する。そして、ガサゴソとカウンターの下から皿に乗せたタルトもおまけに紅茶へ添える。


「残り物だ。どうせ捨てるんなら、胃袋に入れてしまった方がいい。味と健康は保証する」


 黙ってフォークを取って、モカは口に運ぶ。ほのかな檸檬クリームの酸味と水分をタルトの甘さが相成って紅茶とも合う。癖になるような組み合わせに手が止まらなくなっていた。


「慌てなくてもいい。食べながら話そうっと、自己紹介が遅れた。工藤 佐助だ。この店『コンタクト』のマスターをやってる」

「三浦……モカです」

「それで、静流ちゃんの何が聞きたい?」

「……今日、彼女と喧嘩したんです。それで、私の事を敵って言って。きっかけはお互い知らず知らずにゲームの中で、その、撃ち合いをしてたっていうか、やられてやり返してって言うか」


 言い籠るモカに佐助は訝る。彼女の話はバイトのとき、静流が口走っていたのを断片的には聞いていた。するとこの子がその。


「それでここにやってきた、と?」

「いえ、通り掛かったのはたまたまで」


 真実である。モカは目まぐるしく回っていた思考に必死で迷っていただけで、つけてきたわけではない。


「偶然か……なんにせよ、ここに来られたのが幸いとも言うべきかな」

「幸い?」

「静流ちゃんのこと、どう思ってるのか聞かせてくれないか?」

「ど、どうって。突然屋上に呼び出して冗談めかしく話すちょっと変わった人だなって」

「変わった人か。その、敵と言われたのもそのうちに入るかい?」


 探りを入れられるようだったが、モカはこの際、嘘をつく理由が見当たらず、素直に答える。


「ゲームの中ではそうなのかも知れないけど、私達はクラスメイトだし、まるで戦争をしているような言い草だったんです。本当に戦争をしているわじゃないのに」

「本当に、君達がそうお互いに思っているのかい?」

「……どういう意味でしょうか?」


 佐助をじろりと睨んだ。眼を見張り、その言葉の動向に集中する。


「君が戦争をしているつもりがなくとも、向こうはそう思っていないのかも知れないぞってことだ」

「馬鹿げてます。あなたの言ってること」

「そうだろうね。でもお互い戦争なんてしていないし、撃って撃ち返しては切磋琢磨していますと言い切れるかい? それが例えゲームでも」


 反論の余地がなかった。静流はあのとき宣戦布告と確かに宣誓していた。口を紡ぎ、黙って佐助の話に耳を傾ける。


「ただ、静流ちゃんの場合は極端すぎる。まぁこれもすべて彼女の経験則なんだがな」

「経験……則?」


 戸惑うように眼を泳がせた佐助だったが、躊躇いを払って静かに語り出す。モカは閉口を忘れ、その凄惨な過去を心に刻んでしまった。


 同時に身体が動き出す。バックから紙とペンを出すと走り書きで数字を刻み、机に置く。そして彼女は店の扉を蹴破った。最後に「ごちそうさまでした!」と律義に挨拶までして、忘れていた何かを思い出したように飛び出して行ってしまった。


「そそっかしいな。あいつに似て」


 昔を懐かしむように天井へ目線を仰いだ佐助。ふと思い出したように彼らの顔が目の前にうっすらと浮かび、口を走らせる。


「亡霊が二人の手を引き合わせたのかな。趣味が悪いぜ相変わらず」



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