『どんな日であれ、誰かの誕生日で命日だ』
俺の好きなアーティストが、そんなような言葉を歌詞にした。
正に西暦20XX年某日、この日は地球上で俺が生命を終わらせた日だ。
そして俺が異世界で生命を得た、誕生の日だった。
「ただいま」
その日はとても平凡で代り映えのない日だった。
朝は
繰り返される毎日。
今思えば当たり前の幸福な日常に幕が下りたのは突然のことだった。
「よっこいせっと」
家は何の変哲もない、ペット化の集合住宅だ。
夕食後と風呂を済ませた後、自室の座椅子に腰かけて思わず出てしまう一言に、自分もおじさんになったものだと思う。
「猫に人間の食べ物はだーめ」
その視線を受け止めながらポットから淹れたての紅茶を注ぐ。
一口菓子パンを
仕事終わりの自分の時間。
(我ながらちと行儀が悪いな)
歳は34歳。職業は公務員。
父母や周囲の人にも恵まれ、当たり障りのないながらも幸福と言える人生。
ひとつ人と違うのは、心臓に持病があること。
帰宅して家族に迎えられ、母の用意してくれた夕食を食べて入浴を済ませて、寝るまで趣味を満喫する。
実家住まいの悠々自適な独身生活だが、正直周囲の友人たちの結婚や子育ての報告が羨ましかった。
自分も決してそう言った相手がいないわけじゃ無かったが、それを考えていた恋人とはすれ違いの末に別れ、それっきりだ。
自分には先天的に心臓に持病があるから無理だろうと、どこかで言い訳と諦めもあった。
何をするにも常に体に気を使う生活だ。
それでも自分は恵まれていた。
両親は自分に愛情を沢山注いでくれたし、過剰に心配するでもなく見守ってくれていた。
父と反りが合わないときはあるが、家族仲も家族旅行に時折出かけるくらいには良好だ。
学生時代だって少ないなりに友達にも恵まれていたし、幼馴染とはいまでも時々遊ぶ仲だ。
ただ、学業や仕事も、遊びや恋愛も、つねに心臓の病が呪いのようについて回ってくる。
思い切りなにかに取り組むことができないと諦め癖がついて、そんな自分自身をいつしか酷く
生まれつきの病に対しそんな感情を持っていることを表に出せば、両親を責めるようでそれもできない。
持病は厄介者だが、両親が悪いわけではないし、ましてや責めたいわけでもない。
だからせめて自分ができる範囲で割り切って生活するようにしていた。
それでも呪いは残酷に、唐突にその時を告げる。
「……っあ……!?」
何の前触れもなく、胸に引き絞られるような激痛が走る。
次に感じたのは恐怖だった。
痛みを訴えている場所が心臓だと感覚的にわかってしまったからだ。
叫びたくても思うように声は出ない。
幸い集合住宅なので家は広くない。
痛みに耐えながらほうぼうの体で部屋を抜け出し、持っていたスマートフォンを思い切り居間に投げつけた。
見事居間に放り込まれたスマホが音を立ててテーブルの角にぶつかり跳ね返る。
その音を聞いた母が何事かと
それを確認した途端、気が付いてもらえた事に対する安心感からか痛みにすべて意識が持っていかれた。
心臓をぞうきん絞りでもされたらこんな感覚だろうか。
驚きと焦りで顔から血の気の引いた両親が見える。
程なくして救急車に助けを求める声だけが、暗く歪んでいく視界の向こう側から聞こえていた。
そこからの感覚は酷く
自分自身の経験のはずなのにどこか他人事のような感覚。
体の感覚と意識は
すでに痛みは意識の外で、投げかけられる言葉も目の前に広がる光景も現実感がない。
死にたくないな。と思う自分と、ここで終わるのかと達観している自分がいる。
すでに高齢の父より先に逝ってしまうであろう事に申し訳なくなる。
滲む視界の中で母が懇願するようにこちらの手を握って泣いているのが分かった。
こんな母の顔を見るのは初めてだった。
これで自分が死んでしまえば二人はどうなるのだろうと考える。
早死にするとは思っていたが、せめて親を見送ってから死にたかった。
子供どころか何も残せず、誰にとっての一番にもなれずに死んでいくのかと思うと無念だ。
思えば自分は体の事で知らずに言い訳ばかりをして、何事も諦めを前提に構えていたかもしれない。
もう少し素直に頑張ってみればよかったかもしれない。
いや、今更後悔したところで後の祭りだ。
ただ引き延ばされていた意識や時間も、とうとう限界らしい。
巡っていた思考は雑音になり、やがて僅かに残っていた感覚すら失せていく。
そうして命の帳が落ちていく感覚の中最後に思う。
ここでなんだかんだと持ち直せないかな。
なんて一縷の希望にすがりながら、自分の人生を顧みて考えたのは、自分の生き方に対する後悔だった。
(やり直せるなら……もっと上手に生きたいなぁ……)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
自分は今、夢を観ている。
否、夢というよりは映像記録と言ったほうがいいかもしれない。
少なくとも自分は今第三者の視点でこの光景を見下ろしている。
自分が第三者だとわかるのは、眼下にいくつもの管に繋がれた自分がいるから。
医師や看護師が真剣な眼差しで管の先の機械をチェックし、はだけられた上半身に電気ショックが与えられる。
数回の試みの末、それでも機械の数値は変わらない。
手の届きそうな距離で両親が涙を流して祈るようにその光景を見ているのに、今の自分は声をかけることも、触れることもできないようだった。
せめて5分。いや一言だけでもいいから言葉を伝える時間が欲しい。
「先に逝きますごめんなさい」と伝えるだけの時間が。
(待て待て待て待て待ってくれっ!)
そんな願いもむなしく、目の前の光景を置き去りにするように眼下の身体は遠ざかっていく。
「ご臨終です」
医師のその一言だけが、妙にはっきりと聞こえてしまった。
(……あぁ、そんな)
ひょっとしたら、なんて意識を失う寸前に僅かに希望を抱いていた。
これはただの、意識を取り戻す寸前の自分が見た一種の臨死体験のようなものじゃないかと。
目を覚ましたらなんだかんだ病室の消毒液の匂いと硬いベッドの感触があって、「また点滴か不便だな」なんて思えるんじゃないかと。
これまでにも心臓の発作を起こしたり、あるいは感染症をこじらせたりして命の危機に瀕したことはあった。
それでもなんだかんだと死に瀕する苦しみと恐怖を乗り越えて、命を拾ってここまで生きてきたのだ。
(こんなにもあっさりと、何も生きた痕跡を残せずに俺は死ぬのか)
ぐらりと、目の前が歪む。
白く塗りつぶされた目の前の光景が輪郭を取り戻し、色を取り戻していく。
しかし目の前に現れたのは先ほどまでいた病院ではなく、別のどこかの光景だった。