――――地獄。
形容するとすればそう、その言葉が相応しい――――。
――――平和だった時世に突如魔王が復活し、我が帝国領土に大挙して押し寄せる魔物の軍勢を、この最前線で食い止め続けてきた。
この数ヶ月間、連日多くの犠牲を出しながらも戦い続けた。
必死の攻防を繰り広げ、一つ、また一つと防衛の要たる砦を落とされ後退しつつも潰走することなく踏みとどまった。
防衛の拠点を変え、徐々に領土が魔物によって侵攻され、たとえ皇帝陛下の命も果たせぬ敗軍の将と蔑まれようとも、帝国に住まう民を守る為忸怩たる思いで戦い続けたのだ。
そして最前線で防衛線を維持する最後の砦へと追いやられた我々の元に援軍が到着する。
帝国の英雄として君臨する帝国軍の最強の剣士が率いる部隊だ。
英雄の到着に兵達は沸き立ち、疲弊して下がりきった士気も改善した。
英雄は言った。『討って出る、我に続け』と。
常勝無敗を誇った英雄が高らかに出陣を宣言する。
皆、彼の背に希望を見出し、反撃の気運はやがて死中に活を求める声へと変わる。
私もまたその一人だった。
英雄が率いる帝国軍は、砦に僅かな守備兵を残して全軍出撃した。
我らは一矢が如くの突撃軍。英雄と共に駆ければ勝利を掴めると信じて疑わなかった。
総勢2000名余の突撃軍は魔物の軍勢とぶつかった。
英雄の戦斧の刃が煌めく度に魔物が飛び散り塵へと還る。
その英雄に付き従ってきた黒き鎧の戦列破壊兵達もまた猛攻を繰り出し魔物の軍列を押し出した。
我らの士気は最高潮に達し、戦場を勇猛果敢に突き進んでいく。
私も絶え間なく剣を振り幾多の魔物を屠ったが、不思議と疲労の色は見えなかった。
――戦いの趨勢はこちらが優位かと思われた。
このまま行けば失った領土を奪還できる。
誰もがそう信じて疑わなかったその時、アイツは現れた。
勢いのまま進撃する英雄に導かれし我ら突撃軍。
その前に、ある魔族が立ちはだかったのだ。
その魔族は魔物共になにやら指示を飛ばすと、魔物の軍勢は攻撃の手を止め、その魔族が最前列にくるように後退した。
我らが英雄もまた意気揚々と前に出て、魔族と対峙する。
英雄と魔族の一騎打ちの場が設けられると、『ここで一番強いのは貴様か?』と魔族が人間の言葉を流暢に言い放ったのだ。
その言葉に英雄は名乗りを上げる。『我こそは常勝無敗、今歴最強の勇者なり』と。
勝利を疑わない兵士達の声援が戦場を轟かせる。
魔物共の下品極まりない笑い声が飛び交う。
英雄は戦斧を振り上げ不敵に笑い、魔族は澄ました表情のまま小さく笑っていた。
笑っていられるのも今のうちだ。今すぐにでもお前の首は英雄殿の戦斧によって吹き飛ぶ……の……だ…………?
――一瞬何が起きたのか理解できなかった。
轟々と雄たけびを上げて猛進した英雄が魔族を間合いに捉え、戦斧が項を描きながら煌めいて、微動だにも出来ない魔族をすれ違い様に――。
英雄の首が消えていた。
魔族を通り過ぎた後、ドシャリ……と音を立てて英雄だったものの胴体が崩れ落ちる。
そして現実に理解が追いついてきた者から兵は恐慌状態に陥ったのだ。
……今何をしたのだ? 何も見えなかったではないか!
ただすれ違っただけに見えたその瞬間には英雄の首から上は消え失せていた!
希望が希望でなくなる時、人はあまりにも脆い。恐怖に蝕まれた兵らはこれが夢であれと願っただろう。
微笑したまま表情を変えずの魔族は、腕を振り下ろし魔物の軍勢に指示していた。
まるで鎖から解き放たれたかのように魔物が一斉に襲い掛かった。
……そこからは阿鼻叫喚の渦の中、一方的な蹂躙にもはや戦場とは言えぬ有様だった――――
魔物に食い散らかされ死屍累々の様相の血に染まった地で、私は魔物に取り囲まれ、傷だらけの体で力なく跪かされていた。
もはや何も考えられない、虚ろな目で辺りを見渡す。
もう誰も生き残ってはいない。突撃軍は私を除いて全滅してしまった。
私の傍に足音が止まる。
見上げると、あの魔族が私を無感情なまま見下ろしていた。
深淵のような暗い瞳からはなんの感情も読み取れない。
その魔族は興味なさげに呟いた。
「よし、コイツでいいだろう」
そういうと私から数歩下がり、突然どういうわけか私に向かって敬意を示しながら跪いて項垂れたのだ。
どういうことか理解できないでいた私の前に突然、黒い渦が空中に現れ、中から黒い何かが出てきた。
その闇の渦から覗かせた存在の黒い手を目にした瞬間、私に僅かに残っていた生への渇望が警鐘を鳴らし、その存在から急いで目を逸らした……!
「――魔王様、贄はこちらでよろしいかと存じます」
「……ああ」
ああ、おぞましい。なんとおぞましい声だろうか。
たった一言でこの耳に伝わるその声は私の心を掻き乱し、呼吸を荒くさせた。
あの魔族は私に跪いたのではない。この闇より這い出た魔王に敬意を示したのだ。
一刻も早くこの場から立ち去りたい! この国などどうでもいい! ここから少しでも離れられるのならどこでもいい!
私は声一つで誇りを捨て去った。
だが、離れたくとも体は言う事を聞かず、ただ目を逸らすことでしか抵抗する術はなかった。
「魔力は大した量ではないが、ここらを染めるには足りるだろう。……オイ虫ケラ。我の役に立てる事を光栄に思うがいいぞ。クカカ!」
「ひぃっ!」
やめてくれ、その恐ろしい声を私に向けないでくれ! 頭がどうにかなってしまいそうだッ!
私は懸命に地面に目を逸らしながら生にしがみつく。絶対に魔王を見てはならないと、直感が私に叫んでいた。
「……つまらんな。玩具にすらなれぬとはクソ虫以下よ……。――――グッ……ォォォオオオッ!」
興が冷めたように言葉を零した魔王が、突然苦痛の声を出す。
一体何が起きているのか、確認したくとも見てはならないという意識が勝り、私はただ一心に地面を睨みつけるばかり。
「…………フゥゥ。ではさっさと済ませるか」
地面を凝視する私の視界の端に、丸太のような大きさのどす黒い杭のような物がチラリを写り込む。
魔王の視線がこちらを向いている気がする。鳥肌が立ち汗が止まらない。
恐ろしい…………――――。
「待たせたな。死ね」
その声と同時に私の背中から腹を貫通したどす黒い杭に貫かれ、地面に突き刺さった!
私は夥しい血を吐き叫び声すら上げられないまま何かが私を、内部から蝕んでいくような感覚で支配し、意識が霧散していく。
最期に写った視界には、赤く染まる地面と、まるで魔物のように黒く変色した変わり果てた私の手だった――――
「――周辺の侵食を確認しました。魔王様、お見事でございます」
「……贄を用いても消耗は避けられんのが歯痒いな。――回復に時を要す。それまでに戦線を押し上げ、支配地を選定しておけ」
「お任せを」
魔王様にのみ許されたお力が大地を穿つ。贄と共に大地を貫いた黒き杭から瘴気が広がり、辺りは真っ黒い大地へと侵食し、自然に瘴気が立ち込め始めた。
瘴気に包まれた人間共の躯から新たな同胞が生まれ、人類を根絶やしにする為の行進に加わるのだ。
これでここ一帯は魔王様のものとなった。
大地の侵食を行使なされた魔王様の疲労は尋常ではない。
だからこそ今回は贄を用いて負担軽減に繋がればと、人間を一人生かしたが……。あの人間では気休めにもならん。役立たずめ。
魔王様は疲労を回復する為、本拠へ戻られた。
私にできるのは、精々人間を皆殺しにし、次の侵食の場所を選定することくらいか。
侵食を繰り返し、いずれ世界全土を瘴気で包む。それが魔王様の宿願。
それを邪魔する者は私が全て消し去ってくれよう。
「進め! 全てを飲み込んでしまえ!」
檄を飛ばすと眷属の軍勢が人間領土に行進を開始した。
魔王様がお休みの間、私が人類を滅してくれよう。
魔王様より名を授かりし魔王軍幹部たるこの『ハーゲンティ』が。