「あの頃のあたしは、多分遅くきた反抗期ってやつだったんだろうね。勉強なんてしたくないのに、親には大学に行けってうるさくて。面倒になって家を飛び出して彷徨いてたら、近くのキャンプ場で今の旦那に会ったんだ」
旧姓、
指差した先では、このキャンプ場の木之元オーナーが、お客相手に酒を注いで、キャンプ話で盛り上がっている。
「あの頃の旦那は卒業間近の大学生で、卒業旅行として1人でキャンプ場をまわっていたらしいの。そんな旦那に一目惚れしちゃったあたしは、それから何日か旦那のテントに泊まり込んでたの」
遠い目をした弥生は、三角座りの膝に両肘を突いて、頬に手を当てながら過去を振り返る。
「今になって思えば、もしそいつが変なやつだったら危ないわけだし、親だって心配かけて申し訳ないって思ってるよ。だから今となってはほんと完全に黒歴史なんだけどさ、あの頃のあたしは馬鹿だったから。しばらく旦那と過ごして、再会の約束をして家に帰ったら、大騒ぎになってて驚いたよー」
しみじみと弥生は語る。
「で、でも、ネットの記事では行方不明になったって事しか書いてない‥‥生きて見つかったとか、そんな事はどこにも‥‥」
「そうなんだ。きっと見つかって良かったーってなって、記事の更新を忘れちゃったんじゃない? よくわからないけど。田舎なんてそんな適当なもんだよー」
「適当って」
「それで、あたしについて何を知りたかったの?」
「いや、ううん、特に何を知りたいってわけじゃないんだけど、趣味でキャンプ場にまつわる事件を調べてて、それで、その」
取り繕う言葉を並べ立てようとして、言い淀む。
たてはは嘘をつく事への罪悪感がどんどん薄れていく自分に気付いた。嘘をついて他人のプライベートに入り込み、更に嘘を重ねてお茶を濁す。
自分が最も軽蔑するような人間に、自分自身がなってしまっている。
そして、そんな軽蔑すべき人間にまで自分を堕としたにも関わらず、その結果得られたものなんて何一つない。
「いやー、恥ずかしい過去だからあんまり触れて欲しくないなー。でも、旦那との馴れ初めの話なら全然おっけーだよ」
弥生は恥ずかしそうに笑う。
この女性は、本当にいい人間なんだろう。自分の気持ちに正直で、他人に対しても正直でいようとしている。
そんな彼女と比較した時、自分自身の浅ましい人間性が合わせ鏡に映し出されたような気がして、たてはは奥歯を噛み締める。
例え浅ましい人間だとしても、大事な後輩のため、あるいはかわいい妹分のために、有益な情報を得られたのであればまだ救いがある。
しかし今の自分はなんだ。
縋ってきた仮説が崩れ去った今、何も考えられずにただ相手の笑顔に作り物の笑顔で返すだけだ。
「あ、お姉さんの悩みって、もしかして恋愛系? 男心の話だったら、色々相談にのれるかもー」
『恋愛』という言葉が、宗助とるりの姿を連想させる。るりと喜びを共有するために、不器用な優しさを振り絞る健気な後輩。
結局自分は、あの2人のために何もしてやれていない。
作られた笑顔の仮面に開いた二つの穴から、突然涙が溢れてきた。
そしてその涙を呼水にして、今まで必死に堪えてきた感情が溢れ出す。不安、恐怖、無力感、そして儚く小さな願い。
もう、笑顔の仮面を被ることは不可能だった。
無言で、顔をぐしゃぐしゃにしながら、ただ涙を流すことしかできなかった。
「あの、お姉さん、あたし何か傷つく事を言っちゃったかな‥‥。ごめんね」
急に泣き出したたてはに臆すことなく、弥生はそっとたてはの背中に手を当てる。
他人の手の温かさが、今のたてはにはとても優しく感じられた。
「失恋、したの?」
「ちがう、ちがうの、ただ、自分は本当に無力だなって‥‥、情けなくて、嫌な人間で、たいせつな人たちの力にすら、なってあげられなくて、ほんとうにダメで、辛くて‥‥」
「そっか」
弥生は何も言わなかった。
たてはの背中に手を当てたまま、ただ遠くで揺れる焚き火を眺めていた。
火を見つめれば、どんな心の傷や綻びだってきっと癒してくれると、そう信じて疑わないように。
膝を抱え顔を伏せて、涙を流していたたてはだったが、そんな弥生の様子に気付き、顔を上げる。
涙でぼやけた赤い光が、視界全体を染めていた。
「お姉さん、明日の6時に、ここ集合ねー。いいもの見せてあげる」
「え?」
服の袖で涙を拭ったたてはは、キョトンとした目で弥生を見る。
「何の事かは、明日になってからのお楽しみだよー」
弥生はたてはの背中を2回撫でると、立ち上がった。
△
昨晩は久しぶりによく眠れた気がした。
結局のところ何一つ進展せず、振り出しに戻ったような状態なのだが、心は妙に軽かった。
ずっと抱えていた不安や恐怖を、涙と共に外へと押し出したことで、感情に余白が生まれたのだろう。たてはの頭は澄み切り、どんな事態も受け入れられるような気がしていた。
炊事場で歯磨きをしてから、バーナーでお湯を沸かしてコーヒーを入れる。時刻は5時30分、辺りはまだ薄暗く、テントを出て歩き回っているキャンパーは皆無だ。
虫が鳴き止み、鳥が鳴き始める前のこの貴重な一瞬は、全ての音が消えてしまったかのような感覚を覚える。
コーヒーから立ち上る湯気にすら、何らかの音を感じ取れそうな気がする。
6時5分前に管理棟へと向かうと、昨日2人が座っていた段差のところに弥生が立っていた。
昨日よりも眉毛が薄く、目も小さくなったその顔からは、年相応の大人の落ち着きが感じられる。
「あー、来てくれたんだー、よかったー」
「昨日は、ちょっと取り乱してしまってごめんなさい」
「いーのいーの。美味しい料理とお酒で、心が解放されたんでしょー? たまにはそんな日がないと。せっかくのキャンプなんだから、もっと自分を解放してもいいくらい」
「うん」
たてはは頷く。
きっと重ねての謝罪や遠慮の言葉は、この女性に対しては無意味なのだろう。こちらが頭を下げた分だけ、何度でも慰めの言葉を返してくるタイプだ。
「じゃあ、ちょっと歩くよー」
立ち上がって、さっさと歩き出す弥生の後ろを、たてはが着いて歩く。
昨日歩いた遊歩道の、小山を登る側の道に入る。
「歩くの10分くらいだから、安心してねー」
「あ、うん」
しばらく歩くと、視界が開けた。
遊歩道脇の雑木林が途切れ、小高い草原が広がっている。
そしてその視界の先を遮るかのように、薄霧に覆われて佇む山。
綺麗な三角錐の形をしたその山は、上りかけの朝日を背にして、薄明かりの星空を突いている。
「綺麗な山でしょ。あの山の麓あたりに、あたしの住んでた村があったんだー」
「すごく、綺麗」
たてはの口からは、そんな月並みな言葉しか出てこない。
自分の語彙力のなさもあるけれども、人間が言葉に落とし込んでしまうとちんけな物に成り下がってしまう、そんな神々しさをたてはは感じていた。
それでも言葉を繋ごうとして、口を突いて出た一言。
「なんだか、テントみたい」
そのたてはの一言に、弥生は破顔する。
「あはは、なんていうか、すごくキャンパーらしい感想だー」
「そうでしょ。だって私、キャンプ用品店で働いている生粋のキャンプ大好きお姉さんだもん」
「あ、ほら、ここからが見どころだから」
弥生が山の頂上を指し示す。
背後に隠れていた朝日が、ゆっくりと山の頂上に到達し、そして空へと昇っていく。
まるで新しい命が生み出されるような、神秘的な光景に、たてはは息を呑んだ。
徐々に空が白んでいく。
星空は、薄雲が流れる快晴の秋空へと変わっていく。
「えーっと、これを見せたかったわけだけど」
山の方に視線を向けていた弥生が、たてはの方に向き直る。
「つまり、えっと、色々と不安や遠回りもあると思うけど、登っていこうという意思さえ持ち続ければ、あの太陽みたいにきっと頂上まで辿り着けるってこと」
「うん」
「人生だって、きっと三角形なんだよ。今どこにいようと、上昇あるのみ。そうすれば自ずと自分の頂点に辿り着ける」
「そうだね」
「あーん、なんかツッコんでくれないと、今のセリフはちょっと恥ずかしいよー」
「ごめんね。でも慰めてくれて、嬉しかったよ。ありがとう」
たてははクスリと笑う。
弥生も照れ笑いを浮かべ、再び山の方に視線を移した。
「あ、あそこ見て」
弥生が指差した先に、たてはも視線を移した。山肌が削れ茶色い土が露出している。
「あそこの近くに、キャンプ場があったんだ。白錐山キャンプ場ってところ。でも、近くで土砂崩れがあって潰れちゃった」
そのキャンプ場は知っている。たてはも一度行ったこともあるし、
ただキャンプ場が潰れていたから、たてはの訪問リストからは省かれていた。
「最近多いんだよー。ああいう小さな災害が。今年はあの山での山菜収穫も激減しているし、動物達も畑を荒らすわで落ち着きなくてさ。お父さんも苦労してるんだってー」
「それは大変だね」
「ミヤマシロヒメが、怒っちゃったのかも」
「え?」
聞きなれない言葉に、たてはは聞き返す。
「今、なんて言ったの?」
「あー、ミヤマシロヒメ? あの山の神様っていうか。うちの実家の方に色々と言い伝えがあるらしいんしいんだよー。ほら、田舎ってなんかそういう言い伝えあるじゃん?」
「ミヤマ‥シロ‥‥」
「実家の方ではよくいうんだよ。何か山に良くないことが起こると、『ミヤマシロヒメ様がお怒りだ』って」
「ミヤ‥‥マ‥‥」
「なんでも、若い女の子の姿をした山神様なんだって。なんか可愛いよねー。ちょっと会ってみたいかもーなんて」
気が付くと、たてはが弥生を見ていた。
その鬼気迫る表情に、弥生は後ずさる。
「その話、もっと聞かせて」
「え?」
「その『ミヤマシロヒメ様』について!」
たてはは頭の中で、新たな仮説が構築されていく音を聞いた。