1. プロローグ - 異世界への入り口
夜の静寂に包まれた街を、アリサは一人歩いていた。終電を逃した後の道は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、路面を照らす街灯の明かりが頼りなく彼女の影を映し出している。
アリサは疲れ果てた表情を浮かべながら、ため息をついた。長時間の残業が続き、体も心も限界を迎えていた。「いつまでこんな生活が続くのだろうか」と彼女は思うが、それでも翌日にはまた同じオフィスに戻り、同じ仕事を繰り返さなければならない現実がそこにあった。
彼女はふと立ち止まり、頭上を見上げた。夜空には満月が浮かんでいて、驚くほど大きく美しい光を放っていた。普段、夜空を見上げることなんて滅多にないのに、この瞬間だけは自然と目を奪われたのだ。月の光が静かに彼女の肌を撫で、冷たい風が頬をかすめる。その感覚が妙に心地よく、しばらくの間、何も考えずに月を見つめていた。
「こんな人生でいいのかな……」
つぶやいた言葉は、夜の静寂に溶け込んでいく。日々の疲れが重なり、夢も希望も見えなくなっている自分に、ふと疑問を感じた。何か違う道があるのなら、どこか遠くの場所で新しい自分を見つけることができるなら――そんな漠然とした思いが心に浮かぶ。
その時、突然、視界がかすんだ。最初は疲れ目かと思ったが、次の瞬間、月の光が一段と強く輝き、彼女の視界全体が白い光に包まれた。まるで光が彼女を誘うように広がり、やがて何も見えなくなる。
「……え?」
目の前が白く染まり、体の感覚がふわりと宙に浮かぶような感覚に襲われた。立っていたはずの地面がなくなり、無重力の中を漂っているような気分だ。恐怖と驚きが混じり合い、心臓が早鐘を打つ。彼女は目を閉じ、何が起こっているのか理解できないまま、その場に身を任せるしかなかった。
どれほどの時間が経っただろうか。やがて、ふわりとした感覚が消え、足元にひんやりとした硬い感触が戻ってきた。アリサは恐る恐る目を開けると、そこにはまるで別世界のような光景が広がっていた。
目の前には広がる湖。水面には月の光が反射して、まるで一面に星が浮かんでいるかのように煌めいている。周囲には自然が豊かで、空気は澄んでおり、遠くには森のような影が見える。
「ここ……どこ?」
現実とは思えないほど美しい景色に、アリサはただ呆然と立ち尽くす。足元に目をやると、自分の履いていたスニーカーや服装が、今までの日本での生活とは異質に感じられるほど浮いているように見えた。これは夢だろうか? それとも、何かの間違いなのだろうか?
しかし、冷たい夜風や草の匂いがリアルに感じられ、夢とは思えない現実感が彼女を包んでいる。
アリサが何とか状況を理解しようとするその時、突然、背後から柔らかな光が差し込んだ。振り返ると、月光をまとった一人の老人がそこに立っていた。髪も髭も真っ白で、柔らかな笑みを浮かべている。
「ようこそ、ルミナリアへ。」
老人の声は、優しくも力強く響き、彼女の心に不思議と安心感を与えた。だが、その言葉が意味するものを考えた瞬間、再び不安が胸をよぎる。
「えっと……ルミナリア?ここは……どこなんですか?」
アリサは恐る恐る尋ねると、老人は静かに微笑んで頷いた。
「ここは、お前がいた世界とは違う場所。この世界の名前はルミナリアだ。そして、我々はお前を歓迎しているのだよ。」
彼の言葉にアリサは唖然とする。異世界――そんなファンタジーのような話が現実に起こりうるなど、信じられるはずがない。しかし、老人の穏やかな笑顔や、この場のリアルな感触が否応なく彼女に現実を突きつけていた。
「……どうして、私がここに?」
戸惑う彼女に、老人は一歩近づき、手を差し伸べると優しく告げた。
「お前には特別な加護がある。月の加護を授けよう。この世界でお前が必要とする力だ。」
老人の手がアリサに触れた瞬間、温かな光が彼女の体を包み込む。月の加護――それが何を意味するのか分からないまま、アリサはただその光に身を委ねた。
そして、彼女の運命は大きく変わり始めるのであった。