(…ん? ここは…)
夜中、ふと目を覚ます。いつもと異なる寝心地、そして匂いにつられてまぶたを開けると、間近に円佳の寝顔があった。
まぶたを閉じられていてもわかるほどくりくりとした目、あとからオーダーメイドをしたかのように完璧な位置に収まっている鼻と口元、最低限の手入れだけで真珠のように輝く唇…それは普段から見つめている私であってもドキドキしてしまうほど、黄金比のレベルで整ってしまっている端整な顔立ちだった。
私が昔から美術品の類いを見てもそんなに感動をしないのは、すぐ隣に『地上にあるすべての存在を凌駕した美しさを持つ存在』がいるからだろう…なんてことを覚醒とまどろみの中間にある頭で考えていた。
それは悲観するのであれば『これから先どんなに美しいものを見ても感動できない』という事実が私の人生に立ち塞がっていることを意味するのだけど、楽観するのなら『円佳との因果がある限り私の隣には何よりも美しいものがあり続ける』ということでもあって、ああ、私は彼女と因果律で結ばれた日から幸福を約束されたのだ…なんて思い、無意識にその頬を撫でそうになったら。
「だ、ダメだって…円佳ちゃんと絵里花ちゃん、起きちゃうっ…!」
「…大丈夫ですよ、今日のお二人は疲れていますから…結衣お姉さんが大きな声、出しそうになったら…私が塞ぎます。こんなふうに」
「ちょっ…んんぅ…」
背中から聞こえてくるくぐもった声に、私の心臓は一瞬で覚醒してしまうほどの大きな音を立てた。それこそ、すぐそばで…小さくきしみ始めたベッドの上にいる、二人に聞こえてしまうのではないかと思うくらいに。
(…え? う、嘘、冗談…よね…?)
秘めやかな声に掛け布団と衣類が擦れる音も混ざり始め、私は思わずすぐそばの大人たちの正気を疑った。
そうだ、美咲はともかく…結衣さんが、その、あんなこと…セッ…んんっ…ま、まあ、それをするのはいい。恋人同士であればそういう『営み』をするのはある種当然だし、そんな本能的な行為を不潔だと一蹴するほど私は潔癖症でもない。
けれど…今この空間には自分たちだけでなく、私たちもいるわけで。そして『よほど特殊な趣向』でもなければ誰かの前でそういうことをするはずがなかった。美咲ならやりかねないという悪い方面での信頼があったけど。
でも結衣さんならそんな美咲を叱り飛ばして、きっとまもなく夜の静寂が復活して
「み、美咲…もうちょっと、優しく…痛いわけじゃない、けどっ…声、我慢、できなくなるっ…!」
「うふふ…結衣お姉さん、『ここ』が本当に好きですよね…すぐに終わっちゃうのももったいないですし、いつもよりもっと優しくしますね…」
(…いや、なんでやめないのよ!?)
私の視界にあるのは円佳の顔だけなのに、意識は完全に背中、目がついていない方角への情報へと集約されていた。視覚が使えない分、聴覚はわずかな動きと声もきっちりと拾い、嗅覚までもがなにかを感じ取ろうとしたので、私はそこまではできないように呼吸を最小限に抑え、鼻だけは円佳の匂いに集中させた。
いつも通りの、円佳の匂い。それは洗濯洗剤のように清潔で、石けんのように甘く、花のように私を惑わせる。今日は結衣さんの家のシャンプーと石けんを使わせてもらったのでその匂いがするはずなのに、私の目の前の円佳からはやっぱり『円佳の匂い』が感じ取れた。
そうだ、私には円佳がいる…いつも私を夢中にさせて、心と体を支えてくれて、人生の道しるべ…生きる意味すべてになってくれる愛しい人が。
私は突如として始まった現実の過酷さに耐えるように、眠る円佳の顔だけでなく、その下、体つきなども眺めてみた。
円佳は…顔だけじゃなくて、体つきまでもが完璧だった。身長が極端に高かったり低かったりするわけじゃないけど──私より3cmだけ高い──、胸は同年代と比べて明らかに大きく、一方で腰回りは兵士のように引き締まっていて、けれどお尻にかけてまた女性らしさが主張する。そして足もしなやかで細く、とくにタイツを履いたときのシルエットはほかの人間に見せたくないほど、現実世界に存在しているのが信じられないほどシャープネスで無駄がなかった。
そんな人が目の前にいるのだから、私にほかのことを気にする余裕なんて
「んっ…はぁ…やだ、そんなところ、舐めないで…」
「おいしい…結衣お姉さん、料理だけじゃなくて『身体』もおいしいです…食べちゃいたいくらい…」
(…無理に決まってるでしょ!? な、何よあの音、声! 何をしてるってのよ!?)
これまで衣擦れがメインだった演奏会に、突如として『水っぽい音』や『なにかが吸い付く音』が混ざる。布が擦れる音であればギリギリで「もしかしたら寒くて身震いしているのかもしれない」という無知ゆえの清らかな勘違いができたけれど、残念ながら私はそこまできれいじゃなかった。経験があるという意味じゃない。
…その音が何をしているのか、大体想像ができる程度の知識はあったのだ。ましてや美咲と結衣さんの言葉はそういうビジョンを浮かべさせるのに十分な力を持っていて、私の脳内から円佳の美しさをたたえるための言葉が追い出され、『世話になっている大人二人の大人すぎる光景』が悶々と浮かび始めてしまった。
美咲と結衣さんがそういうことをしているというのは本人たち──といっても美咲が勝手にしゃべっているだけ──の口ぶりからもなんとなくわかっていたけれど、いざそれが現実に、そして背中一つを隔てた先で展開しているというのは、経験のない私でもイメージが容易になるほどの魔力を持つ。
さらに言うと、『女同士の行為』であることも大きすぎた。理由は…言うまでもない。
私の恋愛対象は女性…円佳であり、つまり私もそういうことをするなら女同士で身体を重ねることになるため、認めたくないし、考えてはならないことなのだけど。
あの二人の行為を盗み見る…のは難しくとも、盗み聞きすることは、私と円佳の『将来』に役立つのではないか、そんな言葉が脳の隅っこ、悪魔がうごめく物置あたりから聞こえてきた気がした。
「は…ぁん…美咲、みさ、き…!」
「…おねぇ、さぁん…!」
ぎしぎし、もぞもぞ、水っぽい音。
その『夜のライブ』に二人の甘いボーカルが乗ることで、盛り上がりも最高潮へと向かっているのだろう。
二人が始めてからどれくらいの時間が経過したのかはわからないけれど、私の極めて頼りない知識から考えると、フィナーレを迎えるには少し早いような、裏打ちされた基準もないことを判断しかける。
…こういうとき、経験がないという事実が恨めしい。いや、円佳以外と経験するだなんて絶対にいやだし、円佳と経験するにしたって拙速に及ぶのもいやだけど、未経験者であることは様々な疑念につながっていき、私はまるで風邪を引いたときに見る夢のような、わけがわからない光景の中で回されるコーヒーカップみたいな気分を味わっていた。
ぐるぐる。身じろぎ一つできない状況なのに、私の視界は回り続ける。動かなくとも三半規管が惑わされるだなんて、しかもそれをこんな状況で教え込まれるだなんて、思わなかった。
(…助けて、円佳…)
そしてこういうとき、私は円佳に助けを求めることが多かった。というよりも、ほかに頼れる人がいない。円佳以外頼れない人生というのはなんとも心細いように見えて、どんな状況でも冷静で、どんな言葉でも耳を傾けてくれて、どんな内容でも馬鹿にせず力を貸してくれるこの人は、あまりにも頼りがいがありすぎた。
…私が円佳以外の人間に関心が薄いように見えるのは、『円佳がいるだけで人生が完結してしまう』という生命を脅かさない──それどころか守られている──問題があってこそかもしれない。
「……」
今も繰り広げられる恋人同士のセッションから逃れるため、もう一度円佳に意識を集中させる。
美しさと可愛らしさと格好良さ、それ以外のすべての無駄をそぎ落とした顔。
性別を超越した魅力を持ちつつも、あまりにも女性的な体つき。
後付けの甘さだけでは消しきれない、私の本能に見えない幸福を訴える体臭。
先ほどまでは背中側から流れ込んでくる圧倒的な情報量に翻弄されて、円佳のほうから意識を奪われていたけれど。
桃のように甘ったるい色と形をした、けれども私の知らないもので構成されたバンド演奏を背景に彼女を意識したら。
(…円佳、本当にきれい…それに、いい匂い…こんな人が、私の恋人…)
円佳はあまりにも自分の魅力に無頓着だけど、彼女に好意を寄せる人間なんて数え切れないほどいるだろう。男性はもちろんだし、私を愛おしさで狂わせているのだから、女性からだってそういう目を向けられているはず。
私は他人の評価なんてどうでもいいと思う一方、そんな他人からの高評価を集め続けるこの人が恋人だと改めて認識したら。
この世界はおろか、過去、未来、そしてフィクションでしか見かけない異世界とやらを含めて、そのすべてに対する圧倒的な優越感を覚えてしまった。
(円佳は、ここにしか存在しない。しかも、私だけを恋人にしてくれている。あらゆる世界の頂点に立つ人が、私だけを)
私は酔っていた。一度目は美咲と結衣さんのあられもない宴の始まりによって。
そして二次会へと向かうように円佳へと意識を向けたら、アルコールの大量摂取をしたかの如く、さらなる酩酊へといざなわれてしまった。
円佳は普段から私の手を握り、抱きしめてくれて、なんなら今みたいに添い寝をしてくれることもある。だから彼女というアルコールにも耐性ができているはずなのに、今日はあまりにも刺激的で度数の高いお酒を飲まされたように、酔いが回るのが早くなってしまったのだろう。
だって。私は。
(…あの二人だって、楽しんでいるじゃない。なら、私たち、だって)
エージェントの訓練でならったように、音を立てず円佳に手を伸ばす。まずは肩、敏感ではなく反応も鈍いであろう、ふれあいとしては健全で安全に様子見をした。
「……」
円佳は起きない。彼女は優秀なエージェントなので緊急時であれば睡眠中でも警戒を怠らないのだろうけど、今日は訓練と任務で疲れているのか、さらには信頼できる人の家で休んでいることから、目を覚ます様子はなかった。
円佳の肩は、暖かい。お互いが同じマットレスで寝ているせいか、体温でもつながっているような気がして、多分私の身体もこれくらいには熱いのだろうと頷きそうになる。
普段はそのぬくもりにベビーベッドのような安心感すら覚えるのに、今日は…美咲や結衣さんと同じ場所が、熱くなった気がした。
「…円佳…」
その熱い場所から放たれた炎は下から上へ、私の全身へと燃え広がる。そして手は炎へと急かされるように、より柔らかで魅力的な、今の酔っ払った私が触れたがる場所へと伸びていった。
そこに触れる刹那、彼女の名前を呼ぶ。もしもこれで起きてくれたら、私は『それ』を知らずに済んだのに。
でも、円佳は起きなかった。だから、知ってしまった。
「……ん」
その柔らかさを。その鼓動を。
私は、円佳の左胸に…手を、置いていた…。
置いた瞬間円佳が小さく息を漏らしたけれど、起きる様子はなかった。その小さく無意識な反応に私の体は震えそうになって、でも起こさないために無駄な動きを抑えられた。
エージェントとしての訓練がこんなときでも役立つだなんて、思いたくなかった。
(……柔らかい……あったかい……気持ち、いい)
円佳の胸に触れた手は触覚だけに及ばず、あらゆる感覚でもって私に情報を伝えてきた。
その私とは比較にならない女性的膨らみは柔らかく、柔らかで、柔らかい。円佳も寝るときは下着を外すようで、寝間着だけでしか隔てられていない感触は布一枚があるとは思えないほど生々しかった。
同時に、美咲と結衣さんはこれ以上の生々しい感触を味わっていると思ったら、無性にうらやましくなって。
私は自分にも胸と思わしきものがついているにもかかわらず、この触れている感触が円佳のものであると知覚したら、服の中に手を入れて…同じ生々しさを、知りたくなった。
「みっ、美咲っ……あっ──」
「……お姉さんっ」
円佳のトップス、その裾に触れたとき。
ベッドの方角からひときわ高く、けれども必死に押し殺された、結衣さんの声が聞こえてきた。
それにハーモナイズするかのような美咲の声も聞こえ、一段高めの衣擦れの音が響いたかと思ったら…それからわずかに経過して、部屋の熱と空気が一気に弛緩した気がした。
「……美咲、覚えててね。しばらくは『こういうの』だけじゃなくて、添い寝も禁止だから」
「……え。結衣お姉さん、満足されたはずでは…?」
「それとこれは別。美咲は嫌がる女の子にはしないって信じていたけど、その信頼を裏切った罰」
「結衣お姉さん、嫌がってなかったじゃないですか…痛い痛い、痛いです…面目次第もございませんでした…」
演奏会が終わって背中から伝わる雰囲気もすっかり変わったようで、会話内容もそれに沿った…普段の二人のようなやりとりに変化して。
今度は私が叫びそうになって、それを押し殺すのにつま先から頭のてっぺんまで力を入れる羽目になった。
(……わ、私、なんてことをしようとしたの!?)
力を入れて数秒後、私の中にあった叫びは無事に声帯の向こう側で消化できた。けれども今度は頭を抱えて悶え転げそうになって、それをすれば円佳を起こすだけでなくあの二人に「聞こえてましたよ」と伝えることになるため、また全身に力を込めて小さく痙攣した。
円佳の肩に触れた。ここまでなら、まあいい。
円佳の胸に触れた。これは、ダメ。
円佳の服の中に手を入れようとした。これは…死にたい。
(…円佳を汚した…汚そうとした…)
ライブの熱狂というのは演奏を聞く側にも伝播するものだとは聞いていたけれど、あの淫靡な調べでもそれは同じようで、私は二人に背中を押されたと強弁するように円佳へ触れようとしたのだ…というか、触れた。
それは誰にも触れさせまいと宝箱に隠していた財宝へ自分の手垢を付けたような罪悪感を呼び起こし、ああ、今度こそ死んでしまいたいと懺悔する。
そうだ、美咲と結衣さんが眠ったら…このマンションの屋上に移動して、それで
「…うぅん…えりかぁ…」
きゃっ。そんな先ほどまでの汚らわしさを忘れたかのような、女の子みたいな悲鳴が出そうになる。
円佳はムニャムニャと口を動かしたかと思ったら私の名前を呼び、そして…両腕を伸ばし、ぎゅっと私の身体を抱きしめてきたのだ。
もちろん、彼女は眠っている。けれどもその言葉と動きから夢の中でも私を見ていてくれて…そして命を守ってくれたのだと思ったら、私は勝手に贖罪を終えたように感じて。
(……寝ましょう。眠れるかどうかは別として、明日もまた円佳と一緒にいるのだから)
多分眠れない、そんな現実が待ち受けているとしても。
円佳が離してくれない、そんな状況は私を甘ったれさせるのに十分すぎる力を持っていた。
そして私は目を閉じ、円佳の寝息を子守歌に夢の世界を手探りで探し始める。背中側から「…円佳ちゃん、起きてないよね?」とか「起きてたら性教育の開始ですかねぇ…」みたいなやりとりが聞こえたけれど、今度こそ完全に無視できた。