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第41話「夏が来るその前に」

 美咲と結衣さんが『していた』のを目撃…あるいは見せつけられてからの数日間、私は思いのほか普通に過ごせていた。

 最大の理由、それは『円佳は一切気づいていないこと』だろう。円佳はあの二人の声や音、さらには私による『お触り』についてもまったく知らないみたいで、翌朝も普通に目覚めて「なんかさ、こういうのって旅行みたいだよね」と無邪気に笑っていて…それを見ていた私は自分の罪深さを自覚すると同時に、この大人びているのに無垢な少女にはできるだけ長くきれいなままでいてもらいたくて、おかげで『このことはできる限り墓まで持っていこう』と決意したのだ。

 円佳は周囲に対する関心が薄い一方、身近な相手に対しては驚異的なまでに察しがいい。そしてうぬぼれさせてもらえるのなら、とくに私に対しては…誰よりも早く変化に気づいて、そして寄り添ってくれる。そんなところが、たまらなく…大好き。

 ならば私にできることは決まっていて、とにかくあの日のことは悪い夢でも見たかの如く振る舞い、何食わぬ顔で生活するしかない。それが円佳の清らかさの持続性につながるのであれば、私だってエージェントだ…知らぬ存ぜぬで生きるくらい、やってみせる。

 もちろん目覚めた直後は円佳に「絵里花、寝不足? それと顔が赤いけど、大丈夫?」なんて心配されたし、結衣さんにも「ごめんね、マットレスだと寒かった?」なんて気遣われるくらいには隠し通せていなかったみたいだけど、二人にはぎこちなく笑って「私、枕が変わると寝付きが悪いのかもしれないわ」なんてうそぶいておいた。エージェントはある程度過酷な環境でも眠れるように訓練されているもの。

 …ただ、結衣さんにあらぬ事を迫った美咲だけは睨んでおいた。そんな美咲はつやつやの顔で「寝不足でつらいのはわかりますけど、スマ~イルですよ?」なんて笑いかけてきた…ぶっ飛ばしたいわ…。

 ともかく、それ以降の私は『甘ったるい声』や『水っぽい音』がフラッシュバックすることがあっても、そこまで表には出さなかった。最悪の場合、美咲と結衣さんの情事を見たのならバレてもいい…いや、よくはないけど。

 もしも『円佳の胸を触った』なんていうのがバレたら、私は生きていけない。さすがの円佳も眠っている最中に触られた──さらにそれ以上もしようかと考えていた──と知ったら、黄金色のひしゃくみたいに際限のない優しさをあふれさせる彼女であっても、私を軽蔑するかもしれない。されても仕方ない。

 だから私は最悪の未来を回避するためになんとか隠し通せていて、円佳とも変わらない日々を過ごせていた。改めて考えると、私って本当に自分のことしか考えていないわね…。

 また、もう一つ都合がいいこと…自分の意識を逸らせられる都合のいいイベントが、現実世界で展開していたのだ。


 *


「夏休みが近いとこんな空気になるんだね」

「ええ、そうね…私たちはこれまで長期休暇なんてなかったから、なんだか新鮮ね」

 学校、今日も私が作ったお弁当を二人で食べて、昼休みの喧噪に包まれる教室を眺めていたときのことだった。

 元々この時間は最も生徒たちがいきいきするタイミングだと表現してもよくて、そこかしこから楽しげな会話が聞こえてくる。私と円佳は基本的に二人で会話していることが多く、そういう喧噪からは距離を置いている…というよりも周りが『因果律で決められたカップルを邪魔してはいけない』なんて認識があるのか、二人でいるときは割って入られることもほとんどなかった。

 けれど、『夏休み目前』という環境下においては、そういうコミュニティの垣根を越える足も軽くなるのだろう。

「ねえねえ、三浦さんと辺見さんは夏休みの予定とかある? あるよね? デート三昧だよね?」

「いや、デート三昧ってほどじゃ…まあ、絵里花とはずっと一緒にいると思うけど」

「うんうん、それもいいよね! けどね…せっかくの夏休みだし、みんなで遊びに行こうよ! 二人が来てくれたら喜ぶ人も多いし!」

 いつも通り並んで座っている私たちに対し、クラスメイトの女子二人がしゅばっと軽やかに歩み寄ってくる。その動きはエージェントである私からしてもなかなか切れがあると感じられるスピード感で、もしかしたらこの二人もCMCなのだろうかとあり得ないことを考えてしまった。

 そしてこういう場合に対応してくれるのは大抵円佳…というか私が対応しても愛想がないので、彼女に任せるしかなかった。実際のところ、このクラスメイトたちも最初から円佳が応答するとわかっているのか、視線はすでにそちらを向いている。

「みんなで遊びに、か…楽しそうだね。私はいいけど…」

「心配しなくても、渡辺さんも来るから辺見さんも来てくれるよね? 二人ってさ、最近仲良しでしょ?」

「えっ…ああ、まあ…そうね」

 普段から言っているように、円佳も人付き合いが得意というほどでも、何より好きというほどでもない。けれど彼女の場合は優秀なCMCであるようにこうした人付き合いもそつなくこなせるため、クラスメイトからのお誘いにも小さく笑って首肯した。

 ただ、その直後には私にチラリと目線を送ってきて、その気遣わしげな瞳の輝きから「絵里花は大丈夫?」と言外に尋ねているのがわかる。

 …私の人当たり、そんなに悪いのかしら。うん、よくはないわね。

 でもクラスメイトとの良好な関係が任務に欠かせないことは理解していたので返事をしようとしたら、それを先取りするかのように…相手から渡辺の名前を持ちだしてきて、私はそれに対して曖昧に返事をするしかなかった。

 よく見ると渡辺もこの二人の後ろにいて、さらに観察すると知らないうちに人数も増えていた。私と円佳は予想していたよりも多くのクラスメイトたちに関心を持たれていたようで、研究員が向けるまなざしとは違った属性の好奇に顔を見合わせて、円佳は困ったように笑い、私は首をかしげるしかなかった。

「うんうん、最近の辺見さん、渡辺さんと話すことが多かったから…それを見てるとさ、私たちも仲良くなりたくなっちゃってぇ」

「だよねー。辺見さん、あんなふうに楽しそうにするんだなって思ったら、勇気を出して誘ってみようってなって。ね、渡辺さん」

「…あ、うん…辺見さん、すごくいい人だから」

 なるほど、私は渡辺と話すときは渡辺しか見ていなかったのだけど…どうやらその光景は多くのクラスメイトに監視、もとい見られていたようで、それは思わぬ効果を生んでいたようだ。

 同時にこれまでの自分への評価が『いつも円佳と一緒にいる話しかけにくい人』であることを理解させられたけれど、まあそれは自覚もあるのでいい。

(…渡辺、どうしたのかしら。浮かない顔をしているような)

 私という難物も問題がなさそうであることを理解したクラスメイトたちは、やいのやいのと一足早い夏休みの予定について話し始める。円佳は肩の力を抜いてそれらに対応してくれていて、彼女に任せておけば私にとって悪いようにはならないから、それもいい。

 けれど…私はそうしたクラスメイトたちのやや後ろにいる渡辺に意識を奪われていた。無論、変な意味ではない。

 渡辺はどんなグループともそこそこ話せているように、基本的には余計な感情…人付き合いの邪魔になりそうな仕草などは見せなかった。気性が安定しているのもそうだろうけど、渡辺は私と違って友人も多く、こういう場合は一緒に盛り上がっていそうなものなのに。

 今の彼女は心ここにあらず、たまに会話を振られたときにぼやっと頷くくらいで、こんなにわかりやすく『私は悩んでいます』という態度を取るとは思わなかった。

(…悩み、か)

 そして私は、その正体に見当を付けられる。というよりも実際に聞かされた人間なのだから、気づくなというほうが無理があった。それでもこれまでの私であれば、円佳以外の相手に過剰に世話を焼くなんて考えなかっただろうに。

 気づいたら携帯端末を取り出して、研究所関連以外の相手──そんな相手ほとんどいないのだけど──とやりとりするためのメッセージアプリを起動していた。円佳たちには「予定を確認している」なんて伝えつつ、私は渡辺向けにメッセージを作成、送信する。


『放課後、少し時間はある? 聞きたいことがあるの』


 渡辺もまた端末を取り出し、それを確認してからチラリと私を見て、戸惑いを見せながら頷く。それは遠慮しているようにも、なにかにおびえているようにも見えた。

 そんな顔、しないでよ。私とあんたは…友達じゃないの?

 そうした私には絶望的に似合わない言葉をかみ殺しながら、私はやや上の空のまま夏休みの予定とやらに耳を傾けていた。もちろん会話内容の2割くらいしか頭に入ってこなかった。


 *


「悪いわね、呼び出したりして」

「ううん、私も…ちょっとだけ話したかったから」

 授業を終えて放課後、私と渡辺は校舎裏にいた。未来的で開放的な校舎を持つ聖央だけど、旧来の学校施設のような裏庭も存在していて、ここは現代であっても内緒話をするにはぴったりな場所だった…まあAI監視カメラがどこかにあるのだろうけど。

 それでも今は人目がなく、すでに下校した生徒も多いことから、遠くから聞こえる喧噪とは裏腹にここは静かだった。

 …ちなみに円佳は「邪魔にならない場所で見守…待機してるよ」とのことで、おそらくは校舎内から私たちを見守ってくれているのだろう。まずないと思うけど、柄の悪い生徒が乱入でもすれば彼らの命運は尽きるのが確定していた。

「…ええと…その、元気…ない、わよね」

「…うん」

 会話があまりにも長引くと円佳が心配するため、私は早速切り出す…けれど、こういうケースに乏しかった私は自分の中にある言葉辞典をペラペラとめくり、それで見つけたのは客観的事実の指摘という、エージェントとしても人間としてもお粗末なものだった。

(…呼び出したのはいいけど、どんなふうに聞き出せばいいのかしら…無遠慮に踏み込むのもあれだし、もしも勘違いだったら気まずいし…)

 私は円佳相手の会話なら慣れている…というか、円佳以外の相手との会話能力に著しく欠けていた。

 円佳が好きで彼女とばかり話していたのはもちろんのこと、そもそも円佳は『口数は少なく当たり前のように気遣ってくれる』というできすぎた恋人だったから、私もそんなに話すことなく自分のことを思ってもらえてて、それに甘えっぱなしで…会話スキルをまったく磨いてこなかった。

 その結果、心配はしているもののそれをさりげなく伝え、そして悩みを聞き出すということもできない。正直なところ、渡辺を友人として認識し、ここに呼び出しただけでも私としては劇的な成長だった。

 …私、これから先…円佳なしでご近所付き合いとかできるのかしら…。

「…あのね、この前…因果律の相手と会ったの」

「…そうなのね。その様子だと…あまりよくはなかった、のかしら?」

「…どうなんだろう…」

 しん、という静寂の音が生まれ、それから二呼吸くらい置いて、渡辺から事情を話してくれる。

 彼女の『私も話したかった』という言葉は真実みたいで、もしかしたら話せる相手を探していたのかもしれない。

 そして私がその相手の一人、あるいは唯一だとしたら。こんな状況に相応しくない、充足のような満たされた感触が胸に広がりかけた。

 それを振り切るように渡辺の言葉に意識を集中させ、彼女の手探りの言葉を待ってみる。

「前も言ったとおり、やっぱり悪い人じゃなかったよ。いやらしい感じもしないし、私が学校を卒業するまでは健全に交流したいって言ってくれて…」

「そうね、ここまでだと悪い奴じゃないのは伝わってくる。でも…あんたの好みのタイプでもない、のよね?」

「あはは、覚えててくれたんだ…ありがと」

 因果律による巡り合わせは年齢をはじめとした立場もまばらで、渡辺のように高校生になって因果が発現し、それが年上の相手とつながることもある。

 無論、いくら因果律によるお墨付きがあっても『手を出してはならない年齢』というルールは存在し、顔合わせの際にもそれは徹底的に注意される。仮にこれを破った場合、エージェントによる拘束もあり得た。

 だから心配はない…と言いたいけれど、私も渡辺の言葉は覚えていた。そして、それがどうにもならないものだとも。

「おかしいよね、因果律のすごさは普段から聞いているのに…こんなにしっくりこないことがあるだなんて驚いてる。私、どうすればいいのかな?」

「…そうよね。因果があるといっても少し前までは見ず知らずの他人だったのだから、いきなり会わせられても困惑するかもしれない。でも、その…仲良くなるまでに時間がかかるのは、どんな相手でも同じだから」

 こんなことしか言えないの、私は?

 でも、それが事実でもある。

 友人としての自分、そしてCMCとしての自分が相反するように、心の中でみっともない言い合いをしていた。

 因果律によって選ばれた相手とは相性がいいものの、初対面という要素はどうしてもお互いに距離を生み出す。

 けれど、それは時間が解決するのを待つしかないのも事実で、結局のところ【因果】は信頼できるきっかけであっても、その後の良好な関係には双方の努力が必要なのだ。

 私だって、同じ。円佳は理想すら超えた唯一無二の相手だけど、今も私たちは時間を必要としていた。

 …時間をかけないと、あの夜のような過ちに発展しそうで、怖い。いくら因果で結ばれた相手であっても、傷つけてまで前に進みたいわけがなかった。

「…辺見さんはいいよね、小さな頃から三浦さんと因果があって、それでずっと一緒にいたんでしょ?」

「…え?」

 もしかしなくても、私は。

 間違ったのだろうか?

 うつむきがちだった渡辺はゆらっと顔を上げ、私に対して一足早い梅雨を告げるような、じっとりとした視線を向けてきた。

「時間がかかるって言うけどさ、辺見さんの場合は子供のときから三浦さんと出会って、それで仲良く過ごしてそのまま付き合い始めたんだよね? そんなの、ずるいよ…子供の頃から一緒にいた相手が運命の人だなんて、時間だっていくらでもかけられて…」

「…ちょっと落ち着きなさい。たしかに私は特別なケースだけど、それでも最初は…」

 最初は、円佳に対して抵抗感があった?

 …いいや、私は円佳を拒否したいだなんて思ってもみなかった。

 出会った直後の私は人見知りをしたはずだけど、それでも無邪気に引っ付いてくる彼女に対して、私は…笑っていた。

 その幸せな記憶は今、私から気遣うための言葉を奪ってしまった。

「三浦さんみたいな素敵な人と因果があって、ずっと一緒にいてくれた辺見さんにはわかんないよ! 私だって! たっくんとずっと一緒にいたのに! お婿さんにするって約束もしたのに! なんで! 因果がないだけで! 離れないといけないの!」

 たっくん。その初めて聞く名前は、この子の好きな相手なのだろうか?

 因果律が普及してからも自由恋愛は尊重されているけれど、それでもせいぜいが『因果の相手が見つかるまでの予行演習』みたいな感じになっていて、今は『因果律が相手を紹介するまでの恋愛は時間の無駄』なんて意見すらある。

 それでも…恋というのは、因果の有無に関係なく芽生えてしまうことがあるのだろう。

(…そうか。私、渡辺に対して…何も言えない…)

 私の初恋。それはあの日、因果律によって定められた人だった。

 私の恋人。それはあの日からずっと一緒にいてくれた、日に日に好きになるほど素敵な人だった。

 私の因果は与えられたものであったとしても…それを拒否する理由がないほど素晴らしいもので。

 渡辺の気持ちが理解できるはずも、なかったんだ。

「…こんなに苦しいのなら、辺見さんのことなんて知りたくなかった! 私はっ…!」

「…ごめんなさい…」

 多分私は、悪くない。

 友達に誘ってきたのはこの子で、最初に相談してきたのもこの子。

 言ってしまえば私は巻き込まれただけで、これはおそらくナーバスになった彼女の八つ当たりなのだろう。そして私の性格の悪さを考えれば、きつい言葉で突き返してやればいいのに。

 そんな言葉を堪えるように右手で左腕を握り、目を逸らしながらも謝っていた。

 それは、もしかすると。

 初めてできた友達への、最後の気遣いかもしれなかった。

「…ごめんなさいっ…」

「…渡辺!」

 そんな私の気遣いが伝わったのかどうか定かじゃないけれど、渡辺は一瞬息を飲んで背を向け、そして走り去っていった。

 その速度は一般的な女子生徒と同じで、仮にもエージェントである私なら簡単に追いつける。

 でも、今の私には…ただの『渡辺の友人だった絵里花』には、それができなかった。

「…お願い、早まらないで…」

 孤独が訪れた校舎裏で、私は友達だった少女へ餞別を渡すように口にした。

 どうか、最悪の事態にはなりませんように。

 それから私は円佳が来てくれるまでは動けず、ただ渡辺が去って行った方角を見つめていた。

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