渡辺さんが学校に来なくなって、3日ほど経過していた。その理由については、大体わかっている。
あの日、絵里花が渡辺さんを校舎裏に呼び出して話を聞いたところ、彼女は因果律で決められた関係について不安を抱いていたらしい。私はそれを校舎の中から見守っていたけど、渡辺さんが急に走り去ったことで、おそらくは上手くいかなかったと悟る。
そして絵里花の元に駆けつけると彼女はとても悲しそうな顔で佇んでいて、私がなんて声をかけようか悩んでいたら、とても静かに「あいつにも警戒したほうがいいかもしれない」と口にしたのだ。
そのときの表情を、私は忘れない。絵里花はいつもニコニコしているようなタイプじゃなかったけれど、それでも渡辺さんと話すようになってからは私がそばにいないときでも多少笑うことが増えていて、そのことに対して思うところはあったとしても、やっぱり嬉しいという気持ちはあった。
大好きな人が笑顔になれたのだから、私だっていつまでも嫉妬ばかりはしてられない。それに『絵里花はきっと私のことを一番好きでいてくれる』なんていうわずかな傲慢さを含む自覚もあったから、絵里花を尾行してしまったあの日の誓いのように、せめて友達付き合いくらいは見守る器量を持とうと考えたのに。
…絵里花に、こんな顔をさせるなんて。
友達という存在を手に入れた絵里花はぬいぐるみを愛でるときのような柔らかい表情を浮かべることが増えたのに、渡辺さんが去ったあとはそのぬいぐるみを勝手に捨てられたかのような、世界に対して幻滅したかの如く顔を曇らせていて。
そして大切な人の笑顔を奪われたと判断した私は、絵里花の言葉通り渡辺さんを警戒して…でも心はそこから一歩先に進んでしまって、絵里花が危惧しているであろう『最悪の事態』に発展してしまった場合、ほかの誰でもない私の手で決着を付けようと勝手に決めた。
…私の絵里花を悲しませたこと、その代償は払ってもらう。
決して口にはできない、そんな誓いに黒い炎を灯して。
それでも口先では「大丈夫、もう少し様子を見よう」と伝えられたのは、狭量な私としては頑張れたのかもしれない。
*
「緊急…それも難易度が高い任務が舞い込んできました。以前から『因果律から逃れたがる人間を違法に海外へと脱出させている反社会組織』が活動していたのはご存じですね?」
「…はい」
「…ええ」
放課後、私と絵里花はCafe Mooncordeに呼び出されていて、いつも通り隠し部屋にて任務の概要について説明を受けていた。
普段は緊張を解くための軽妙な世間話を差し込んでくる美咲さんだけど、本日はその切り出し通り緊急性が高い任務であるようで、口調は穏やかであっても表情は珍しく引き締まっていた。
あまりに整いすぎた顔が真剣な表情を浮かべている場合、なるほど、女の子を引っかけるのが得意なのも頷ける気がする。私には絵里花がいるから大丈夫だけど。
「本日、この組織の用意した小型船舶が複数の港から出港、そのまま海の向こうに逃げる算段となっています。私たちは最寄りの港へ急行し、その船舶の一つを制圧、敵勢力と逃げようとした人間の捕縛を行います。これまでの報告から敵が強力な銃火器で武装している可能性もあるのですが、今回の作戦では複数の場所にエージェントを派遣すること、偵察用ドローンからの情報だと警備も小規模であることから、ひとまずは私たちだけで対応しないといけません…私たち三人はちょっと優秀すぎるから、これで十分だと思われたんでしょうね」
「はは、それは光栄なことで…任務了解、なるべく捕縛を優先するけれど、危険を感じたら『生存』を優先していいよね?」
美咲さんの説明はとてもなめらかで、事前に台本でも用意して練習したのではないかと思うくらいするすると私たちの中に入ってくる。この人の穏やかな声音が聴覚に優しく浸透しやすいのかもしれないけど、もしも仕事の話でなかった場合、あるいは手元にエスプレッソがなければウトウトとしそうになるだろう。
任務に挑む際は覚醒効果も期待して店長がコーヒーを運んできてくれるのだけど、今日みたいにエスプレッソを持ってきてくれるということはより強い目覚まし…要は長時間にわたる作戦になるかもしれないということで、苦みとカフェインを濃縮した味はちびりと飲んだだけですでに眠気が吹き飛ぶ気がした。
そして頭がはっきりとした私は押し黙る絵里花に変わって愛想笑いを浮かべ、それでも重要なことを確認する。
私たちエージェントは捕縛が最優先…だけど、今回のように生命の危機に発展しかねない場合、生存優先…有り体に言うと『殺傷』もある程度は許されていた。
エージェント用のパーカーやボディバッグには様々なツールが収納できるけれど、リフレクターガン以外にもナイフといった殺傷も狙える武器も入っていて、あるいは敵の強力な兵器とやらを現地調達して戦うための技術だって仕込まれていた。
そして私は絵里花…自分たちが生き残るためであれば、殺傷もやむを得ないと考えている。私一人だけならギリギリまで粘るかもしれないけれど、隣に絵里花がいるなら…私は多分、あんまり我慢強くなれない。
絵里花が負傷でもした場合、その原因となった敵は捕縛で済ませられるかどうか、甚だ疑問だった。
「ええ、もちろんです。それと今回はまず私が狙撃をしてから敵戦力を削りますので、お二人は船舶へ突入しての戦闘がメインになるでしょうから、遮蔽物を利用して敵に近づけばリフレクターガンだけでしのぎやすいでしょう。ですから…いつも伝えているように、『そういうの』は私に任せてください。激しい抵抗をする敵がいた場合、完全に無力化しますので」
「…すみません、助かります」
多分だけど、私の目は笑ってなかったと思う。なるべく空気を重くしすぎないよう、努めていつもの調子を保っていたのだけど…絵里花へ危害を加えようとする敵をちょっと想像しただけで、奥歯のあたりにぎゅうっと力が入る。
これからもエージェントなんてものを続けさせられるのなら、今日みたいな危険な作戦だってそれなりに起こりえるだろう。だから毎回歯を食いしばっていればそのうちエナメル質が欠けてしまうのでないかと不安になるけど、こればっかりは自分でのコントロールが難しかった。
そして美咲さんは、くすりと笑って見せた。それは私の力みを馬鹿にするものではなく。猛禽類がはるか上空から獲物を見つけて瞬時に捕らえるかのように、私の心配は無用だと伝えてきたのだ。
この人の狙撃技術はもう常人のそれでは比較にならないもので、仮にこれまで使っていたのが実弾のみであった場合、幾人もの敵を物理的に仕留めていただろう。だから彼女の『完全な無力化』というのは、おそらく普段の任務と何ら変わらない難易度なんだろう。
そしてこの人は、そういう任務を何度こなしてきたんだろう? そこに気づいたら、私の懸念なんて無用だった。
もちろん美咲さんは「お二人は突入させられるんですから、私にもこれくらいはさせてください」と悠々に微笑んでいた。
「それと念のため、今回そそのかされた人たちの情報をリストアップしておきます。彼らもまたリフレクターガンで拘束してもらいますが、敵と違って命は奪わないようにしてくださいね」
「はい、わかりました…あ」
テーブルに置かれたモニターには美咲さんの端末がつながれていて、画面上には作戦概要や決行時刻、そして今は敵の甘言にそそのかされたであろう人たちの情報も表示されたのだけど。
その中に一人。見知った顔があって。
「……渡辺」
その写真を見た絵里花は、これまで固く閉ざされた口を開き。
それでも必死に感情を押し殺して瞳の光を消そうとしている姿が、ただただ痛ましかった。
*
作戦開始時刻までまだ少しだけあるため、私と絵里花は隠し部屋の中で待機している。美咲さんは車を取りに行ったので、今は二人きりだった。
多分、気を使ってくれたのだろう。美咲さんも渡辺さんについてはすでに報告を受けていて、私たちも必要な情報はきちんと伝えている。その上で美咲さんは『私情に流されるな』とも『きっと大丈夫』とも言わず、ただ「私は全力でバックアップします」とだけ伝えてくれた。
…美咲さんが女たらしであっても許される理由、それが再びわからされた気がした。
「…絵里花。私、あなたを守るから。どんなことからも、あらゆる敵からも、絶対に傷つけさせはしない」
それに対して私の言葉は、なんと自分勝手であろうか。
大丈夫だと伝えるには根拠がなく。
絵里花とその友人ごと救う権力もなく。
かといって「あなたはなにもしなくてもいい」と伝えれば傷つける。
だから私は自分の気持ち…『絵里花だけは何があっても守る』ということしか優先できなくて、隣の椅子に座りながらうつろな目でリフレクターガンのメンテナンスをする彼女に対し、自分のエゴイズムを新たにした。
…多分私は渡辺さんがそそのかされたこと、そしてそんな彼女を捕まえることはどうでもよくて、ただ絵里花が苦しむという現実だけに感傷を刺激されているんだろうな。
「…ありがとう、円佳。でも大丈夫よ、あいつは」
けれども絵里花はそんな私の言葉に顔を上げ、ほの暗く赤い瞳を向けてくる。口の端はわずかにつり上がっていて、それは無理矢理自分の気持ちと言葉を引っ張っているような痛々しさがあった。
替わってあげたい、と思った。絵里花が受けるあらゆる苦痛、悲嘆、煩悩…そのすべてを私の心に投げ込んでくれたら、どれだけ苦しくとも私は我慢できた。
大切な人が悲しんでいる様子は、自分が泣くときよりもつらい。そんなことを理解できるタイミングが今だというのは、なんともやるせなかった。
私は…無力だ。
「…渡辺は、思ったよりもバカだっただけ。なら私は友達…元友人として、その間違いを正す。あいつの行動が『因果律が間違っている』ということにつながるのなら、私は絶対に認めない」
メンテナンスを終えた銃を握り、絵里花は音が聞こえるほど強く歯ぎしりをした。それは愚かな友人に対する憤りと言うには、あまりにも悲痛な音色を奏でている。
私は絵里花の声が好きだった。普段の少しぶっきらぼうな声も、私に甘えるときの控えめな声も、一緒にデートしたときの穏やかな声も、そのすべてが。
そして理不尽なことに、今の強がりが明白な声ですら…私は、好きだった。絵里花なら何でもいいのか、そんな嫌みを自分の心に投げつけてみたら、いともあっさりと肯定された。
「私は因果律を…あなたとの絆を信じてる。それを否定する連中は敵、だから倒して因果を守る。たとえそれが友達だった人間でも変わらないわ…私の一番大切な人は円佳、あなただもの」
「…ありがとう、絵里花。こんなときになんだけど、私…あなたのこと、好きだよ。あなたとの因果も、だから…それを守るため、私も戦うからね」
絵里花はいじっぱりだ。そのくせ本当はすごく面倒見がよくて、誰かを傷つけるのが嫌いで、大切な人たちをいつも守ろうとしていて…私にすら見えない場所で泣いている、そんな優しい女の子だった。
そんな女の子が今、私だけを見ている。他ならぬ私のために戦うと宣言してくれて、かつて渡辺さんに嫉妬していた私は浅ましくも嬉しくなって。
(…渡辺さん。あなたは絵里花の友達だった。あなたのおかげで絵里花は変われた。それには感謝してる…でも)
私は今度こそ自然に絵里花へ笑い返して、恋人同士の愛を囁きつつ、心の中にあった渡辺さんの写真を燃えさかる漆黒にくべた。
それは一瞬で炭化して、彼女がどんな顔をしていたのか、早くも忘れそうになる。けれど、それでいい。
私に感傷を抱かせる人は、絵里花だけで十分なのだから。それ以外は…邪魔だ。
…絵里花を傷つける人間は、邪魔だ!!
(私は絵里花を守る。身体だけじゃなくて、心も。そのために…せめて私の手で、あなたの業を払ってあげる)
この残酷だらけの世界において、絵里花はすぐに傷ついてしまう。それは彼女が弱いのではなく、絵里花を取り囲む世界が悪いのだ。
そんな世界で戦いを強要される絵里花は、誰かを傷つけるたびに自分も傷ついていく。それでも優しく誠実なあなたは、私といるために戦いをやめられない。
だから…絵里花は誰も傷つける必要なんてない。その必要があれば、全部私がしてあげる。
それがいつも私の隣にいてくれるあなたへできる、数少ないことの一つだろうから。
お互い武器のメンテナンスを終えたら残り少ない二人きりの時間を噛み締めるように、そっと手を握り合って指を絡めた。そこから伝わってくる絵里花の小さな震えに、私の心はますます倒すべき敵を燃やし尽くすように、愛する人以外のすべてを真っ黒に染め上げた。