私たちに割り当てられた場所、それは車でのアクセスも容易なやや小さめの港だった。入り口を抜けるといくつかの倉庫やプレハブが設置されていて、とくに賑わっていた頃は漁業や交易にて利益を得ていたことが伝わってくる。
一方で現在は個人所有の小型船舶が間借りするときなどに使われているようで、偵察ドローンからの情報によるといくつかのクルーザーなどが見受けられる。そしてそのうちの一つが敵勢力が所有するもので、ここに渡辺さんを含めた海外脱出を希望する人たちが乗せられているのだろう。
『こちらアセロラ、狙撃地点の確保に成功。ドローンからの映像を見る限り、事前情報通り警備はさほど多くありません。現在外に出ているのは3人、目標と思わしき船のタラップ前に立っています。大柄な火器は見当たりませんが、船内の敵が所有している可能性も考慮してください』
無線機能を内蔵したワイヤレスイヤホンから、美咲さんの声がクリアに聞こえる。同じエージェント専用イヤホン同士でしか通信できないだけあって混線の心配はなく、高精度な外音取り込み機能も搭載しており、任務の邪魔になることはなかった。さらには敵が音波兵器を持っていた場合に備えて聴覚保護機能もあり、こうした装備からも向こうとの戦力差が窺える。
一方で美咲さんの報告通り、船内までは偵察ができない。それは船の中にアサルトライフルなどが収納されている可能性を示唆していて、そこまで考えた私の肌には刺すような熱がピリピリと湧いてきた。
「こちらベイグル、船に一番近い倉庫の陰まで移動完了。スモークグレネードの準備もよし、万が一混戦になった場合は現場判断で使用、その場合は前線支援を」
『了解、まずは狙撃で外にいる敵を無力化しますので、それと同時に突入してください』
倉庫とプレハブの合間を縫うように進み、私と絵里花は限界まで船舶に近づく。個人所有の名目で停泊した船は全長およそ12メートルほどのモーターヨットで、幅は4メートルくらいか。ややサビの目立つ白と淡い青色でカラーリングされていて、操舵室の窓は小さい。貨物用のハッチも設けられていて、ぱっと見は趣味や観光用のものにしか見えず、寂れた港の風景に溶け込んでいた。
「見た目は普通のヨットだけど、甲板付近には武器が入りそうなサイズの箱が置かれている。それに夜間航行用の装備も追加されているし、テロリストが手を加えている可能性が高い…油断しないで」
「わかってる…あなたこそ、絶対に怪我をしないで」
ドローンからの空撮画像だけでなく自分の目で見てみると、やはりいくつかの不審な点も目立つ。それは私たちエージェントならではの視点だからこそだろうけど、逆に言えばエージェントたちに怪しまれたのがあいつらの運の尽きだろう。
私と絵里花は狙撃が開始される瞬間、突入開始の合図を待ちながら、息を潜めつつ最低限の意思疎通をしておく。こうした情報も事前の打ち合わせで理解していたけれど、私は言葉を交わすことで絵里花のコンディションの確認がしたいのだろう。
そして絵里花はそんな私の意図なんて見透かしていたのか、同じく声は小さいものの、はっきりと聞こえるように強めの意思を込めて返事をしてくれる。お互い今はパーカーで顔を隠していたけれど、唯一露出されていた絵里花の瞳にはいつもの暗い赤色が揺らめいていて、夜目に慣れた私の視界でくっきりと存在を主張していた。
私は大丈夫。だから、あなたも死なないで。
私たちはアイコンタクトで最も大切なことを伝え合って、その瞬間を見届けた。
『アセロラ、目標を狙い撃ちます』
その無線はいつも通りの穏やかさにピアノ線を一本張ったような、標的を貫くわずかな鋭さを含む合図だった。
それと同時に警備をしていた敵の一人が力なく倒れ、いきなり意識を失った仲間に手を伸ばした二人目の敵も程なくしてその上に倒れ伏す。
そこでようやく三人目の男が無線機になにかを報告して周囲の警戒を始めるけれど、そのアクションは美咲さんという天性のスナイパーに隙を晒しただけだった。トランキライザー弾は無慈悲な精度でその大柄な身体に突き刺さり、慈悲深い眠りをもたらす。
かくして船の外に出ていた敵はすべて狙撃され、私と絵里花は姿勢を低く保ちつつも素早く駆け出し、攻撃を受けることなくタラップ前まで到着する。
トランキライザー弾で撃たれた敵はしばらくは動けないだろうけど、念のために拘束モードにしておいたリフレクターガンを放ち、完全に抵抗力を奪っておいた。
『こちらアセロラ、通常弾頭に換装して操舵室を撃ち抜きます。これで足止めはできると思いますが、可能な限り迅速な制圧をお願いします』
「了解。ベイグルおよびフロレンス、船内への突入を開始します」
船の前に到着すると美咲さんから無線が入り、その直後には操舵室の窓が音を立てて割れる。どうやらそこは防弾仕様にはしていなかったらしく、立て続き銃弾が突き刺さることで船内からは悲鳴や怒号が聞こえ始めた。
声の数や性質からおそらく戦闘要員はそこまで残っていないことが予想され、これなら応援を呼ばずとも私たちでなんとかなりそうだ。絵里花もおびえている様子はなくて、私たちはアイコンタクトだけ済ませたらタラップを駆け上がる。
「敵を発見…武器コンテナへ向かう気か! フロレンスは操舵室へ! 私はあいつを仕留める!」
「了解!」
私たちが甲板に到達する刹那、船室から出てきた敵がいかにも怪しかった箱へと向かおうとするのが見える。その様子から箱の中身は武器だと断定した私は絵里花に操舵室の制圧を任せ、武器を手に取る前に仕留めようと駆けた。
(…この距離なら当たる。リフレクターガン、発射)
男は箱を開けてその中身に手を伸ばしたものの、甲板を跳ねるように駆けて接近した私は必中の距離まで詰めており、余計なことは考えずに引き金を引く。
銃口から放たれた青白い電磁パルスは群雲に覆われた夜を切り裂き、光の波が敵を包み込む。すると男は箱に手を突っ込んだままかくんと動かなくなり、数少ないであろう戦闘要員をまた一人無力化した。
もちろん片手で素早く拘束モードに切り替えてナノケーブルを発射し、抵抗力は徹底して奪っておく。その間も私は絵里花が攻撃を受けていないかを判断するため、近くから銃声は聞こえないかどうか耳を澄ませていた。
(…激しい戦闘を思わせる音は聞こえない。絵里花、すぐに行くから…!)
幸いなことに血液が冷えるような音は聞こえず、それは絵里花が何らかのダメージを負っていないことを物語っていた。無論、聴覚だけの情報で安心できるほど楽天家ではない私は考えるよりも先に立ち上がり、再び幅跳びのような速度で甲板を駆ける。
『こちらフロレンス、操舵室にいた敵の無力化に成功。これより人がいると思わしき船室に突入……あ』
まずは絵里花が向かった操舵室へ…と思っていたら、無線がその無事を告げて私も行き先を変更する。絵里花が次に目的地に選んだのは操舵室の近くにある船室への扉だと考え、私もそちらへ行こうとしたとき。
絵里花からの無線に息を飲むような音が混ざり、一瞬様々な事態が頭の中を駆け巡る。それは私の足を止める理由にはならなかったけれど、けれども彼女の反応から決して好ましい状態ではないと察し、呼吸も忘れて走った。
(…絵里花、大丈夫…大丈夫だから)
無線には載せられない、なんの慰めにもならない呪文を唱えながら、私はただ『絵里花が傷ついていないこと』を願っていた。
傷つく、というのにも種類がある。こういう仕事をしていると『敵から攻撃を受けて負傷する』というのが一番の懸念だけど、絵里花の場合はそれだけじゃない。
そして残念なことに、船室の中には…心を傷つけられた、絵里花がいた。
(…いた。人数は4名、事前情報通り全員が揃っている…渡辺さんも)
船室の入り口から数歩先の場所で、絵里花はリフレクターガンを向けながら固まっていた。その銃口の先には、男女が2人ずつ。いずれも銃──非殺傷銃だけど──を持つ私たちを見ておびえていて、口々に言い訳や謝罪を繰り返していたけど。
そんな言葉は聞く価値がない。今の私の意識、それは…悲しげに揺らめく絵里花の目元、そこだけに注がれていた。
「……」
声は発さず、パーカーで顔も隠している私たちは、きっと正体はバレていない。仮にバレていたのだとしたら渡辺さんはそれについてなにかを言うだろうし、絵里花もその言葉を受け取ってしまったら、本当の意味で撃てなくなるかもしれない。
絵里花が銃を撃てなくなること、それ自体は別にいい。やっぱり私は絵里花には戦って欲しくなくて、これからはエージェントの仕事をせずにただ恋人としてそばにいてもらって、少しでも心穏やかに過ごしてもらえるのなら…文句はない。
だけどそれは私の自己満足でしかなくて、本当に絵里花が戦えなくなってしまった場合、一緒にいることすらできなくなるかもしれない。それは絵里花もわかっているからこそ、彼女は銃を構えているのに。
そこに渡辺さんがいることで、絵里花に余計な傷を負わせたのだ。
…私の絵里花に!!
『こちらアセロラ。偵察ドローンからの報告によると、ここへ敵の増援が向かってきます。私もそちらに向かいますので、それまでに制圧を終えてください。合流後、拘束した対象を守りつつ応戦、こちらの援軍が来るまで持ちこたえましょう』
絵里花を傷つける『敵』への憎悪を燃やしていたら、美咲さんからの焦りを感じられない緊急の無線が飛んでくる。そしてそれはもちろん絵里花にも届いてて、彼女はまるで自分が責められたかのようにびくりと一瞬身を跳ねさせたら、覚悟を決めたように震える銃口を拘束対象に向けて。
「……え?」
それが放たれるかどうかを見届けるまでもなく、私は素早く引き金を四度引いた。
船室の隅で固まっていた四人は当然ながら回避できるわけもなく、それぞれががくりと倒れ伏す。一歩前に進んだ私の耳には絵里花の吐息のような声が後ろから聞こえてきて、それは無駄に長い私の後ろ髪を力一杯引っ張ったけれど。
私は振り向くことなく拘束モードに切り替えて、訓練のときよりも早く全員をナノケーブルで縛った。
任務完了。もしかしたらこれから過酷な銃撃戦が始まるのかもしれないけれど、もう終わりだ。
(…絵里花のために手を汚すと決めていたけれど。これで嫌われたな…はは、つらい、なぁ)
こうするしかなかった。覚悟も決めていた。
それなのに絵里花との積み重ねてきた関係、あるいは信頼、もしくは愛情…それが一つの終わりを迎えたのではないかと思うと、銃に撃たれたほうがマシだと錯覚するほど痛かった。
振り向き、呆然と立ち尽くして捕縛した人間…渡辺さんを見つめる絵里花と目が合う。その瞳は普段よりも暗く、そして泣いてしまったように赤かった。そこに私に対する蔑みも憤りもなく、実際は涙も流してはいなかったけど。
震えるように潤って見えたのは、私の目が湿気っているからだろうか?
「お待たせしました…お見事です、お二人とも。これから応援が来るまで時間稼ぎをします。なるべく私が狙撃して敵を減らしますが、近づかれたらお二人に頼ることになるでしょう…そのときはすみません」
「…ううん、大丈夫。それと、ごめん…フロレンスは戦えないかもしれない。その分私がなんとかするから、どうか怒らないであげて」
「……大丈夫、私は大丈夫……」
幸いにも私の両目の湿気は流れ落ちることはなく、音もなく船内に到着した美咲さんの、あまりにもいつもどおりな声に支えられた。
そして私はリフレクターガンを握り直し、これから訪れるであろう戦いを前にして、怒られるのを覚悟しつつもはっきりと伝える。絵里花はリフレクターガンを持った右腕をだらんと下げ、左手でそれを抱えるようにしながらうわごとのように強がっていたけれど、まともに戦える精神状態ではないだろう。
それはエージェント失格とも言えそうだし、監視役である美咲さんからすればお荷物の烙印を押しても不思議ではない。普段の付き合いの中で忘れそうになっていたけれど、この人は研究所所属の優秀なエージェントで、あくまでも『CMCの適切な監視』が最重要事項だった。
パーカーのフードから覗くホワイトパープルの瞳は絵里花を、私を、そして拘束済の対象を見る。そこに普段の軽薄さはまったくなくて、冷たくはなくとも何ら感情の揺らぎがなかった。
(…もしも美咲さんが絵里花を見捨てたのなら、私は…)
美咲さんは大切な人だ。感謝もしているし、尊敬…まあ、うん、敬っているとも思う。
だけどもしも絵里花ではなく研究所の意向を優先した場合、私はきっと敵対しなければいけない。この人の狙撃技術を目の当たりにした直後だと絶望的な気分にはなるけれど、絵里花を連れて逃げることも辞さない。
無理だとか、無駄だとか、そういう結論や事実はどうでもいい。ただ絵里花のために抗う、それだけが私の中の真実だった。
だから、お願いします。私たちを、どうか。引き離さないで。
「…私の指示ミスです。お二人には戦闘要員だけを無力化してもらって、一般人は私が拘束すべきでした。つらい思いをさせてしまい、すみません」
「…そんな、アセロラは悪くない。私がもっと、うまくやれば」
「…違う! 私が! 私がしないといけなかった!」
そんな願いは、易々と聞き届けられた。いや、それどころか…私は監視役とは思えないほどの善良さを持ち続けている人を、疑ってしまった。
美咲さんは私たちに深々と頭を下げ、それが上がったとき、その瞳に灯っていたのは事情を知る人間の愛憐だった。
だから、これは私への罰なのだろう。この人を疑わなければ、いいや、もっと早い段階で渡辺さんをマークしてこういう行動を取る前に『処理』できていたら、これほどまでの罪悪感を覚えなくてよかったのだから。
絵里花を救うことができず、美咲さんへの負い目まで作って。私は…私こそが、エージェント失格じゃないのか?
なんて思っていたら、絵里花の叫びが船内に炸裂した。
「なにが『絶対認めない』!? なにが『あなたとの絆を信じてる』!? その結果がこれ!? 私は、私はっ…!」
「そこまで。前に伝えたかもしれませんが…そういう汚れ役はね、私に押しつけていいんですよ。年がら年中あなたたちを監視している、研究所の手下にやらせればいいんです。それを責める人間なんていませんし、いたら私が許しません…これが私にできる、数少ないあなたたちへの恩返しなのですから」
「っ…ごめんなさい、ごめん、なさい…!」
自分への怨嗟を吐き出そうとした絵里花の肩に手を置き、美咲さんはやっぱりいつもと変わらない、この人が奏でるフルートみたいな清らかな声で私たちを包んでくれた。
そして絵里花は耐えきれなくなったように声を震わせ、うつむいた彼女の顔から雫が数滴こぼれ落ちた。それを見ていたら私も同じようにこぼしそうになったけれど、堪える。
私には…今泣いてあげる権利なんて、多分ないだろうから。
(…私にできることは、絵里花と美咲さんを狙う敵を叩き潰すことだけ…それが誰も救えず猜疑心に揺らいだ私への、罰…)
私が研究所の言う『血も涙もない優秀なエージェント』であるのなら、今だけはそうなってやろう。
エージェントになりきれない、あまりにも優しすぎる私の恋人、絵里花。
監視役には向いていない、あまりにも面倒見がよすぎる私の仲間、美咲さん。
この二人だけは…守り抜く。敵がここまで押し寄せてきたのなら、私はこの身体をバリケードにしてでも二人を傷つけさせはしない。
そうだ…さっき敵が使おうとした『武器』もあるのだ。それを使えばリフレクターガンよりも遠くの敵を、より確実に『無力化』できるかもしれない。
…私の大切な人を奪おうとするのなら。先にお前らの命を奪ってやる…!
そんな決意を胸に武器を取りに行こうとしたら「ベイグルさんとフロレンスさんはこの人たちを守ってください。私が呼ぶまではここで待機してていいですよ」なんて美咲さんに言われたので、私は視界を奪っていた両目の黒い炎を慌てて消し、せめて少しでもこの人の力になるべく「観測手くらいはさせてください」と伝えた。
絵里花はずっと渡辺さんのほうを見ていたけれど、美咲さんが敵を発見したらすぐに警戒態勢に戻り、私はそれを確認してから観測手を務めた。