船に立てこもっての時間稼ぎは、結論から言うとあっさり成功した。その理由は言うまでもなく、美咲さんの狙撃技術のおかげだ。
甲板に飛び出した私と美咲さんは船内にあったコンテナなどを使って即興のバリケードを作り、彼女はスナイパーライフルを構えて敵を待ち、私は暗視機能もある双眼鏡を使っていっちょ前に観測手を務める。そういう訓練も受けていたものの、実戦は初めてだった。
なお、観測手は狙撃手を守るために『敵に近づかれた際に迎撃するための武器』を携行することが多いので、敵が使うはずだった銃器を調達しようとしたところ、「近距離戦ならリフレクターガンで十分ですよ」と笑われた。その目はやっぱり、愛憐に満ちていた。
…冷静に考えると、近距離戦ならリフレクターガンのほうが取り回しもいいし、捕縛だって当然ながらしやすい。そもそも銃火器が必要になる距離や威力を求められたら、美咲さんが随時弾倉を交換して対応するだろう。
つまり、あのときの私は…絵里花の心を傷つけた敵全員が憎くてしょうがなくて、不要な殺傷をすることで心の渇きを潤そうとしていたのかもしれない。そして美咲さんがそれを望むはずもなく、笑顔で制してくれたのはやっぱり監視役としてではなくて、私たちの『姉貴分』としての立ち振る舞いあってこそだった。
そんな美咲さんの活躍は、観測手として隣にいると頼り甲斐よりも恐怖を覚えるほどの次元だった。
夜間、わずかに揺れる船の上、倉庫やプレハブなどの遮蔽物が多いロケーション…どれも狙撃にはマイナスに働くはずなのに、美咲さんには何の足かせにもなっていないように見える。
私が敵の発見を伝えるとその直後には引き金を引き、双眼鏡の向こうにいた敵はばったりと倒れ伏す。もちろん直撃しないこともあったけれど、敵が侵攻を躊躇するほどの位置に突き刺さる銃弾は時間稼ぎには申し分ない精度で、タラップ前まで到達できる人間はいなかった。
それから程なくして私たちの援軍が到着、逃げ場所を失った敵は早々に捕縛され、寂れた港はそれに相応しい静寂を取り戻す。安全が確保されたら回収班も訪れて、敵と…愚かにも因果律に逆らおうとした一般人たちも粛々と運ばれていった。
無論、その運ばれていく人間の中には渡辺さんもいたけれど。絵里花はそれに目を向けるだけで、余計な言葉は一切吐かなかった──。
*
事後処理が終わった私たちは自宅に戻り、時刻は深夜を迎えていた。エージェントの仕事はこの時間までかかることが珍しくないため、そこまで疲れているわけじゃない。そして店長が入れてくれたエスプレッソは未だに覚醒効果を保っているのか、私はそんなに眠くはなかった。
だから絵里花には先に汗を流すように伝え、彼女はそれに無言で頷くとふらふら浴室へ向かう。私はその幽霊のようにおぼつかない足取りに「心配だし、私が洗おうか?」なんて言いかけて、気の使い方がおかしいことを自覚して口をつぐんだ。
(…絵里花は強い子だから。大丈夫、だよね)
絵里花が浴室に向かうまでのあいだ、私はさりげなくその行動…たとえば『刃物などを持ち込んでいないか』をチェックしていたけれど、それらしいことはしていない。無論武器の類いも持っていってなくて、『最悪の結末』に至る心配はないと信じたかった。
…いや、わかってる。私の考えはあまりにも過剰で、過保護で、ともすれば『絵里花は弱い』という評価をしているのではないか、そんな次元の思考であることくらいは。
だけど、仕方ないんだ。絵里花の命が失われるということは、私に与えられた幸福も消えてしまうことを意味している。研究所の心ない連中は『より優秀なパートナー』をあてがおうと画策するのかもしれないけれど、そんなのは認めない。
私の因果律の相手は絵里花だけで、その絵里花がいなくなってしまうということは、私の因果そのものが永遠に失われるのだ。研究所は『因果の相手を失ってしまった場合の補填策』も進化させようとしているらしいけれど、常日頃から『因果律に従うことが幸福につながる』と言っているのなら、どうしてそれを失った私が幸せになれるのだろうか?
因果が与えられるのなんて、一度だけで十分。その一度が絵里花であったことは、私にかけがえのない祝福を与えてくれたのだ…二度目も同じくらい幸せになれるなんて、そんな保証はどこにもない。
(…なんで私、こんなに絵里花が大切なんだろうね…)
一度きりの幸せを失いたくないと考えているさなか、ふと当たり前の、そして決まり切った答えしかない疑問を浮かべる。
絵里花が大切なのは、因果律で決められた相手だから。因果のある相手とは最上級の相性が約束されていて、それは相手を好きになれるのが当然であるとも言えた。
だからこそ、『作られた関係』へ抵抗感にもならない、指に一つだけ生まれた逆むけ程度の疑問があるのだろうか? 放っておいても支障はなく、むしろ触れずに治るのを待ったほうがいいのに、ついつい引っ張ってしまいたくなる存在感。
家事を積極的にこなす絵里花のほうがこういう逆むけは多そうだけど、実際は私が定期的に手入れをしているため、むしろ私のほうがこういう肌荒れが目立つのかもしれない。
(…もしも自然に因果が発現して、その相手が絵里花だったなら…)
別々の場所で育ち、それぞれの生活の中で人間性が形成され、そして因果律システムによって自然──システムで選ばれることが自然かどうかはさておき──に導かれて出会っていたら、あるいは。
私は自分の気持ちに対して、疑問を持たずに済んだのではないのか?
(…違う。私の気持ちは、私のものだ…)
私は絵里花が大切。それはあの日初めて出会ったときから続く気持ちで、すでに手が加えられていたとしても、今は…もっと、大切。
それは間違いなく私たちが積み上げてきたもので、これを疑うということは今までの絵里花との日々まで否定しているような気がして、私はソファにぐったりと背を預けながら…任務のせいでかき乱された心のパレットをきれいにすべく、余計な色を吐き出すように深呼吸をした。
「…もしも因果が与えられなかったら、そもそも絵里花とも出会えてなかったかもしれない…」
その呼吸のさなか、私はやっと一番大事なことを引き出せた。
因果律が操作されてなかった場合も絵里花と出会えていたかどうかなんて誰にもわからなくて、それこそ私が普段危惧していること…因果が与えられなかった場合、私の隣にいたのは絵里花以外かもしれなかった。
そこを確認すると夏休みも近いというのにぶるりと身が震えて、両手は寒くもないのに自分の腕を抱き、春を待つように身を縮めてしまった。狭くなった視界と身体はもっと余計なことを引き出すように、最悪の光景を一瞬だけ紙芝居のようにチラ見せしてくる。
…絵里花に私との因果が与えられなければ、今頃は。私以外の人間が、彼女の隣にいたかもしれない。私以外と手をつないで、ハグをして、キス、を。身体、…を。
「……絵里花」
大切な人を奪われないため、まるで呼ぶようにその名前を口にする。それは奇しくも彼女のお風呂上がりのタイミングにピタッとはまって、リビングへと揺らめくように姿を現した。
…髪を乾かさず、服もシャツ一枚、ショーツが隠れていないという、あられもない格好で。ちなみにショーツの色は水色だった。
「…絵里花? どうしたの、何かあったの?」
普段の彼女は下着姿はもちろんのこと、そもそも服が乱れた状態すら私には見せたがらなくて、先日一緒に入浴しかけたときは本当にギリギリまで耐えていたことが今になって申し訳なくなる。
だから絵里花がお風呂上がりとはいえこんな格好を私に晒すなんて信じられなくて、最低限のタオルドライしかしていない髪が身体に張り付くのって色っぽいなとか、ついつい目線は絵里花の下半身に向かってしまいそうになるとか、そういう警策で肩を叩かれそうなことは脳の奥に追いやった。
そして視線はショーツ…下着…ええと、下のほうに移動したりしながらも、濡れた髪の色みたいな表情の絵里花に釘付けになり、立ち上がって肩を掴みにいこうとしたら。
絵里花の赤い瞳が涙で潤み、マグマのような勢いで雫がこぼれ落ちながら、寄りかかるように私へ抱きついてきた。
「…ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ…! 私、また、円佳に…罪を、押しつけ、たぁ…!!」
「絵里、花」
絵里花の髪はいつものシャンプーの香りを放ちながらも、多分に湿気を含んでいた。それは今も流れ続ける涙の匂いであるようにも感じて、私は名前を呼びながら抱き留める。
罪。絵里花が、私に。
なんのだろう、と空気の抜けた頭で一瞬考えて、ほかにあるはずがないとすぐに思い至った。
「…大丈夫、私は罪を背負ったとか、そういうのは一切考えてないよ。私こそ、ごめん…今もわからないんだけど、もしかしたら、絵里花を泣かせずに済む方法…あったかもしれない」
そして何より、『私が嫌われずに済む方法』も。
絵里花に泣いて欲しくないのは間違いなくとも、自分勝手な私は多分、そっちのほうが重要だった。
渡辺さんをいい感じに処理できていれば、絵里花に嫌われるようなことをせずに済んだかもしれない。そんな方法があったのかどうかわからないし、実行できたかどうかも定かじゃないのだけど。
絵里花の大切な友達を撃たずに済んだのであれば、私は誰よりも大好きな人に嫌われずに済んだんだ。『絵里花を傷つける人間は許さない』と渡辺さんを撃ち抜いた私は、誰よりも何よりも、自分のことばかり考えていたんだ…。
「違う、ちがうっ…円佳が謝ることなんて、ない、のっ…私が、あいつを、説得、できていたら…あなたが撃つことなんて、なかった…私が撃てていれば、あなたを苦しめずに、済んだぁ…!」
「…絵里花は、悪くないっ」
私は自分勝手に決断して、自分勝手に行動して、自分勝手に…嫌われただけ。
それのどこに絵里花の比があるのだろう? 彼女は誰よりも傷ついてしまったというのに、どうして…私なんかに、謝るの。
絵里花は悪くない…絶対に、悪くない!!
私は苦しくなんてない。だから、私に全部の苦しみを押しつけて。それであなたが笑ってくれるのなら。
「私、何度も、一緒に背負うって言った…でも、結局、いつも大変なことは…あなたがしてくれた…私は、誰よりも優しいあなたを苦しめていただけ…!」
「違う、本当に…違うの! 私はただ、絵里花が…大切な人には笑っていてもらいたくて! 私と出会ってくれた、あなたの苦しみを取り除きたかった! だって私は、私の人生は、絵里花に支えられていたから…!」
絵里花は私と出会ったときから、ずっと背負ってくれていた。
私との因果、私の生きる意味を。先ほどまでは性懲りもなく猜疑心を刺激されたというのに、泣いている彼女を見ていると…そんなもの、心底どうでもよくなった。
絵里花が泣いている。大切な人が、私の自分勝手な苦しみを共有してくれていた。
私のことだけを考えてこんなにも涙を流してくれる人を、因果がなければ嫌いになってしまうのか?
…そんなわけあるか!!
もしも因果が与えられなかったとしても、お互い別々の因果の相手があてがわれたとしても、私たちはきっと惹かれ合う。
因果律によって結ばれた私たちは、その因果すら超えた絆があるはずなんだ。
根拠なんてない。でも絵里花の涙を見ていると、自分の因果、遺伝子の螺旋、その遙か向こう側…過去、ここではないどこかでも、彼女と巡り会えると信じられた。
だから、お願い。
「…私のこと、嫌いにならないで…絵里花のことを傷つけてしまった、私を…これからも好きでいてっ…!!」
「…嫌いになれるわけ、ないでしょっ!! こんなにも、優しすぎる人…もっと、あなたが、好きになっちゃう、わよぉ…!!」
螺旋の向こうに願った言霊は、絵里花との因果として結びつき、そして届いた。
絵里花はエージェントらしい力加減で私の身体を抱きしめて、それは骨がきしむようなダメージを感じそうになったけれど、どうしようもなく『好き』が伝わってきた。
こんなにも自分勝手な願いを、絵里花は聞き入れてくれた。重くて醜い、いろんな感情を袋に詰めていびつな形になってしまった愛情だけれど、彼女はそれすらも抱きしめてくれたのだ。
こんなにも嬉しいことなんて、ない。愛する人の涙にもらい泣きするくらい、幸せだった。
「…私、もっと強くなる…それで絵里花を支えて、もう苦しまなくていいように…頑張るから…だから、私以外を好きにならないで…」
「…無理に、決まってるでしょ…あなたを知ったら、ほかの人を好きになる、なんて…絶対、絶対、無理っ…なんだからぁ…!」
この形状もわからない幸せを、失いたくない。誰にも奪われたくない。
絵里花には、一生…私たちの因果を受け継いだ生まれ変わりになったとしても、私だけを好きでいてもらいたい。
そのためには…強くならないといけなかった。絵里花が苦しまないのではなく、苦しみ自体が近づけないほどに、強く、強く、強く。
絵里花が手を出す必要がないくらい、完璧なエージェントにならないと。
今も私の身体を締め上げる絵里花の抱擁を噛み締めながら、これまで興味もなかったことを決意する。私はエージェントの仕事が好きじゃないけれど、好きな人のためならなんだってしてやろう。
これは絵里花が不要という意味じゃない。絵里花が必要だからこそ、彼女の心を守らないといけないんだ。誰の手も必要ないほど強くなれたのなら、私の隣にいるのは『私が望む人』を選べるだろうから。
(…私は選ぶ。絵里花が隣にいてくれること、あなたが苦しまないこと)
だから涙を流すのは、今日が最後だ。絵里花を支えるのなら、私は強くないといけないのだから。
シャツ一枚しか来ていない絵里花の体温を感じながら流す涙は、海を思わせるしょっぱさがあった。