好きな人の涙はできるだけ見たくはない、私も人並みにはそんな感傷を持っているのだけど…あの日絵里花が流した涙は、決して無意味ではなかった。
リビングで抱き合って散々泣きはらしたあと、くしゃみをした絵里花の髪を慌てて乾かし、私は絵里花のショーツ…お尻…とにかく下に移動しそうになる視線を振り切り、自分も汗を流しにいく。そしてお風呂から上がっても絵里花はまだリビングにいたので、私は早く休むように伝えたら。
『…円佳に髪、乾かしてもらったから。次は私が乾かしたい』
…なんて言われてしまったら、甘えるしかなかった。
絵里花が好きだと言ってくれたから伸ばしている髪は無軌道に長く、正直に言うと乾かす手間については面倒に感じることもある。それでもこの長さを維持したいと思うあたり、私の女としてのたしなみには絵里花の意見の影響力が大きすぎた。
同時に、こうして乾かしてもらえるとき…私は、言葉にするのが野暮な幸福感を覚えている。髪は女の命なんて言うように、女かどうか疑われることもある私ですらみだりに触らせたいとは思えないのに、絵里花に触れられていると…意識はトースターにかけられたバターのように、あっさりと融解していく。
絵里花の手先はバターナイフのような滑らかさで、私の髪から湿気を奪っていく。ドライヤーから放たれる熱風は旅人からマントを奪うように私の不安や焦燥を消し去って、その騒音に紛れた心臓はとことこ早めに鳴り響いていた。
髪を乾かし終えた直後、絵里花は私の後頭部に顔を埋めるように抱きついてきて、二度ほどゆっくりとした呼吸をしたら、雪を踏みしめるような声で囁く。
『…今日だけ、一緒に寝てもいい?』
寝る。それの意味するところは、ものすごく大きく分けると二つ。
一つは、私たちエージェントにも欠かせない睡眠。いつ任務が舞い込んでくるかわからない以上、常日頃から良質な睡眠を取ることは生存戦略の一つとも言えて、私も絵里花も理由のない夜更かしはまずしない。
もう一つは…まあ、うん。
美咲さんと結衣さんのような『一つのベッドを使って愛し合う』みたいな。肌を寄せ合うとか、情を交わすとか、愛情を確かめ合うみたいな…そういうの。
そして『女性は悲しいことがあると好きな相手に抱かれたくなる』なんてあてになるかどうかわからない情報も耳にしたことがある私は、あろうことか真っ先に後者の可能性を考慮してしまう。
いやなのかどうかで聞かれると、間違いなくいやじゃない。むしろ恋人相手にいやだと感じるのはそれはそれで不健全であるようにも感じて、ああ、私は健康的な女性なんだなと若干の現実逃避をしつつ振り向いて、渡すべき答えがないのに絵里花に向き合うと。
『……うん、そうしようか。私はずっとそばにいるから、安心してね』
としか、言えなかった。
私はどうやら自分が思っていたよりも『不純』な人間だったようで、一緒に寝るのさらにもう一つの意味、より健全でパートナーに求めるものとしては自然なものを考えられなかったのだ。
絵里花の願いは『心細いからずっと一緒にいて欲しい』というもので、それはこれまで通りではあるのだけど、もっと物理的に一緒にいることで…急激に地盤が沈下した心を支えてもらいたかったのだろう。
絵里花の心にできた喪失感、そこに隙間風が吹き込む心細さというのは…私には想像できないほどのものなのだろう。
渡辺さんという貴重な友人を失ったこと。
私にその処理を押しつけたという罪悪感。
自分はこれからも戦えるかどうかの不安。
絵里花の涙から感じ取れるはずだったそれは、彼女のしてくれた髪の手入れと一緒に溶けてしまったのかもしれない。
だから私は自身のふしだらな二者択一を恥じつつも、絵里花がそうした感情を隠さず甘えてくれる相手が自分であることを誇らしくも思いつつ、今も水のヴェールで潤む彼女の瞳に笑いかけて抱き寄せた。
絵里花はその体勢のままゆっくりと呼吸を繰り返し、私が背中をぽんぽんと叩くと残念そうに身体を離しながら、腕に抱きついてきて一緒に寝室に向かう。
こういう場合はどちらの部屋で眠るべきなのかと些細なことを考えていたら、絵里花の足は明らかに私の部屋へ向かうための引力を伴っていたので、私は物理の授業を受けるようにそれへ従う。
そして私の部屋にたどり着いたら絵里花はなにかを思い出したように自分の部屋に向かい、すぐに枕を持ってきてベッドへと置き、いそいそと寝転ぶ。枕に頭を置きつつもちらっと私へ向けてきた視線には、サンタを待つような少女の期待があって。
そして私はもう一度微笑み返し、絵里花の隣へ膝を置いて、そして──。
…
……
………
絵里花を抱きしめて、添い寝をした。それ以外に何があるのだろうか。
私はそれ以上は余計な声をかけず、努めて眠っているかのように弱々しい呼吸だけを続ける。すると程なくして絵里花の小刻みで呼吸音みたいな泣き声が聞こえてきて、私は眠るふりをしながら抱きしめる腕に力を込めた。多分、バレていた。
*
「目標を拘束完了、回収班の手配をお願いします」
『こちらアセロラ、了解しました。すぐに向かいます』
因果律の普及、監視社会化の加速、その他諸々により、元々よかった日本の治安はさらに改善を見せた。一時期は『来る者拒まず』といった勘違い系活動家などの意見を取り入れて善人も悪人も関係なく日本の土を踏んでいたけれど、その方針もほどほどの位置に落ち着いた結果、少なくとも悪化はストップしている…まあ、世界自由連合とその支持者は治安改善のデータを無視して、毎日文句を言っているけれど。
それでも私たちエージェントの仕事は定期的に必要とされるように、今日も今日とて因果律に背く悪人はいる。本日は『SNSを使って因果律に不満がある人を探し出して悪事をそそのかす人間』で、反社会勢力の下っ端ということもあり、最近懸念されている装備は拳銃程度のレベルだった。
本日の敵拠点は雑居ビルの地下、都会という人が多い場所でありながらも意外と目がつきにくいロケーションで、なるほど悪事を働く際の利便性もよさそうだ。
もっとも、それは私たちエージェントのアクセスも簡単であって、周辺の監視や封鎖も強化していたこともあり、仮に私がミスってもこいつは逃げ切れなかっただろう。
(だけど、逃がすわけにはいかない。私は…強くならないといけないのだから)
自分で言うのもなんだけど、最近の私は前よりも任務の成功率が高くなっている。そもそもチーム全体でいえば失敗したことがなかったのだけど、私個人の成績としてはあの日以来完全試合みたいなものだった。
突入、射撃、拘束。そのすべてをシームレスかつ完璧にこなしていて、絵里花も美咲さんもとくにやることはなかった…いや、この二人についてはいてくれるだけでも全然違っていて、万が一の場合も不安がないと思うだけで十分すぎたけど。
「…ベイグル、今日もすごかったわね。私、何もできなかったわ」
対する絵里花は、少し前の安定していた様子から打って変わって…リフレクターガンを持つ手は、明らかに震えていた。
私たちの使う銃は一般的な拳銃などと違って反動がほとんどないから、多少コンディションが悪くても狙いやすいと思う。でも、そばにいる私がわかる程度に震えていると考えた場合、本人の『何もできない』という言葉には反論を難しくする重みもあった。
だけどそれは、私の足を止められるほどのものでもない。
「そんなことない。今日は敵が少なかったし、装備もたいしたことないし、後ろをフロレンスとアセロラが守ってくれているから…私は前だけ向けるしね」
「…うん」
敵を制圧してパーカーを開いた絵里花はその愛らしい顔があらわになっていて、私もようやくファスナーを下ろす。そして感謝の気持ちを込めるように頬の緊張を解いて笑って見せたら、絵里花は自虐を引っ込めるようにぎこちなく頷いてくれた。
(…本当なら、しばらく任務なんて発生しなければいいのに。そうすれば絵里花だって休めるし、傷つかなくて済むのにな…)
寂しげに佇む絵里花を見つめながら、私は表には出さない憤りを奥歯で噛み締める。それは何の味もないはずなのに、甘みのないハッカみたいなピリピリとした刺激が口内に広がった。
その味に表情が歪みそうになって、意識を奪った敵に視線を移動させると、ピンク色のソフトモヒカンという目立つヘアスタイルの男がピクリともせずじっとしていた。
別に、ムカつく外見というわけじゃない。けれども、私の口内はこいつが視界に入ると逆に刺激が増して、ハッカに強炭酸水でも混ぜたような、ただ口の中を痛めつけるためだけのドリンクが勝手に分泌されたような気がした。
(…こんな奴がいるから、絵里花は戦わないといけない。どれだけ傷ついても、大切なものが奪われても、涙を流しても…こんな人間のせいで…!)
私たち学生エージェントの服装はぱっと見は普通の生徒と同じだけれど、ほぼすべての部位が戦闘に耐えうる特殊装備となっている。もちろん私と絵里花が履いているローファーも同じで、見た目は伝統的な学生用の靴であるにもかかわらず、その運動性能は『フルマラソンを走りきれる程度の運動性と耐久性』が確保されていた。
もちろんキックといった格闘技にも耐えられるため、私の絵里花を苦しめる男にストンピングの一つでもお見舞いしてやろうかと足の裏が熱を持つ。無論それはエージェントとしては不適格な行為で、訓練を受けた私たちなら命を奪うくらいのダメージだって狙えるから、恣意的な捕縛失敗として大目玉どころじゃ済まないだろう。
…そう考えた場合、わざと苦戦して『捕縛は不可能と判断して殺傷せざるを得なかった』と報告すればよかったのかもしれない。
「ベイグル、あの…」
「…ん? どうしたの?」
いやでも、一発くらいなら…と行き場のない憤りをリフティングしていたら、絵里花が私の袖を掴んでくいっと引っ張る。その可愛らしい感触はリフティングを失敗させて、落ちていった憤りは地面へと溶けて消えた。
絵里花の瞳は私が一人で出かけようとしているときみたいな、不安と寂しさに曇っていた。
「…私、ちゃんと戦えるから。だから、あなただけで背負おうとしないで…私は弱いけど、足は引っ張りたく…ないの」
「…うん、もちろんわかってるよ。前にフロレンスと話したこと、ちゃんと覚えているから」
でもね。私は曇りの予報を晴れにすべく、絵里花の太陽が見たくて慎重に言葉を選んだ。
以前はただ全部自分でやればいいと考えていて、絵里花には何もしなくていいと伝えて、それで失敗してしまったけど。正直に言うと、それに近い気持ちはずっと私の中にあるのだけど。
そうであっても私は恋人としての最善を尽くしたくて、右手を絵里花の頬にそっと伸ばし、親指でそこを撫でながら、残りの指は力を入れずに添える。
絵里花は声を出さずにピクッと身体を震わせて、私の手の甲に自分の手のひらを重ねてくれた。
「私、あなたの負担を減らしたいの。フロレンスは私がつらいときにいつも支えてくれるように、私も今はフロレンスを支えたい…そう思ってるよ」
そして願わくば、これからもずっと…私たちがエージェントでいる限り、私は絵里花が戦わなくていいよう、事前に負担を取り除いてあげたいよ。
そこまで言うとまた絵里花に反発されるかもしれないので、選んだ言葉の全部は口にしなかった。多分、これが正解だろう。
「…私は…うん…ありがとう、ベイグル…でも、だからこそ、あなたがつらいときは…すぐに言って欲しい…」
「…もちろんだよ。私、フロレンスには嘘をつきたくないから」
だからあなたにも、本当のことを言ってもらいたい。そう思っているのに。
どうしてあなたは、そんな顔をしているの?
嬉しそうにして欲しいとか、こういうときは笑って欲しいとか、そんな傲慢なことは言えるわけもないけど。
絵里花はまるで言選りをするかのように、私の手をきゅっと握ったけれど。
最後は悲しそうに目を揺らがせて、だけども無理がわかる笑顔を浮かべてくれた。それは反発とはほど遠い、まるで私を気遣ったような…あなたを支えているはずの私を、逆に支えるような。
(…ああ、そうか…絵里花も、同じなんだ…)
大切な人を傷つけたくない。これ以上距離を作りたくない。
だから人は、言葉を選ぶ。その行為は嘘だと断じるには難しい、あまりにも奥ゆかしい…愛情が、あったのだ。
絵里花は察してくれている。私が全部一人で済ませようとしていること、それは以前と変わらない自分勝手な行為であることも。
けれど、それしかできないことも理解してくれていた。絵里花の負担を減らせばこういうときくらいは気持ちが楽になるかもしれない、そんな私の浅薄な思いやりを…受け取って、くれたんだ。
(気持ちが伝わることは嬉しいこと、それなのに…どうして、私は)
絵里花は私の思いやりを受け取ってくれていて、私はそんな絵里花の気遣いに喜ばないといけないのに。
お互いが選んだ言葉を並べ立てる様子は、恋人と距離を取るための石垣を作ってしまったような気がした。
気づけば足の裏で燃え上がっていた熱は収まり、大量の発汗が体温を冷やしていることに気づく。それは焦っているときに感じる不快な冷たさと同じで、私は自分たちの関係が一歩後退してしまったような気がしていた。
それからの私はそんな事実を認めないように絵里花の頬を撫で続け、彼女もまた回収班が来るまでは甘んじてくれていた。