因果律研究所、そこは日本において最も先進技術が集まる場所の一つだった。
(ふむふむ…なるほど…)
この日、美咲は仕事の報告のために『主任研究室』へと訪れていた。監視社会のための技術が集約したような施設において、一定以上の権限を持つ研究者に与えられる個人オフィスではそれなりにプライバシーが守られており、そんな部屋の正面奥にある机の上でモニターを凝視し、優美な手先はキーボードやトラックパットの上で軽快に踊っていた。
(先日『矯正施設』に送られた個体番…いえ、『渡辺さん』への処置については、今のところは深刻なものではない…)
因果律研究所に置かれているコンソール、それは見た目こそ一般に普及しているパソコンと似ているものの、その実態は『因果律研究所の地下にある専用スパコンへのアクセス端末』であった。
因果律に特化したスパコン…『
特化領域は大規模な因果律シミュレーション、遺伝子データ解析、因果関係の予測モデル構築となっており、国内全人口における因果の相関関係の解析や現行の因果律が最適かを確認することなどに関していえば、世界中の英知を集めても太刀打ちはできないだろう。
設置場所は研究所地下の最深部、本体へのアクセスには多段階認証の突破が必須となっている。中でも『因果パターン認証』については容易に改ざんができないため、結果的に因果律は高度なセキュリティにも貢献していた。
無論監視システムも国内最高峰のものとなっており、あらゆるアクセスログはリアルタイムでチェックされ、主任研究者による定期的な監査も行われていた。不正アクセスがあったと判断されたら即時のロックダウンも行われるため、ここに手出しするということは日本の最深部へ侵攻すること…つまりは宣戦布告と同等に見なされるだろう。
エネルギー供給については資源不足に悩まされていた日本を救った核融合炉が用いられており、研究所専用の小型タイプであるとはいえ、施設全体の安定的な稼働を支えるには十分だ。地下深部という設置場所は地熱冷却を活かす意味でも最適で、膨大な負荷にも難なく耐えていた。
そして一介のエージェントである美咲がそんな場所への自由なアクセスを許されているはずがなく、本来であればこの国の暗部の一つである矯正施設…『因果律に反抗した人間を秘密裏に矯正する場所』での出来事を知るのは不可能だろう。
しかし美咲の両目には施設での進捗なども表示されており、そこには先日捕縛された『渡辺』の情報もあった。
(本当なら直接向かってその無事を確認して、手紙の一つでも書いてもらえたら一番ですが…さすがにそれはできませんしね)
矯正施設、それはときに『人道に反した処置』が行われることもあった。
音、光、時間の概念を完全に遮断して誘導音声を流し続け、心理的抵抗力を奪っての再教育。
反抗的な行為や因果への反発をした際に自動的に電流や薬剤を放出して身体を制御するナノデバイスを埋め込んでの、物理的な従属プログラム。
そして、最悪の場合…社会的に死亡したと偽装し、未公開の医療実験や新技術テストへの転用。
(…やめましょう、それ以上考えるのは。彼女のケースは『思春期にありがちな反抗』でしかなく、そこまでされるほどの違反者ではありません)
美咲は重度の違反者に対して行われる『矯正』を想像し、そしてそれを振り切るように首を振ってモニターから目線を逸らした。背伸びをするように上を向くと、研究所らしい白く無機質な天井が視界に飛び込んでくる。
それは決して見ていて面白いものではなかったが、同時に矯正施設で行われている光景に比べると、どこまでも清く美しいものであるようにすら感じた。
「美咲、紅茶を持ってきたわよ…あなた、まさか勝手に端末を使っていないでしょうね?」
「あらあら、そんなことはできませんよ…だってこの端末、主任がロックを解除しない限りは使えないでしょう? それこそ『ロックをかけ忘れて飲み物を取りに行った』みたいなことでもない限り、私にはとてもとても」
背後でドアが開く音が聞こえたと同時に、美咲は端末を操作してロックをかけておく。するとモニターは天井とは対照的な黒一色に染まり、アンチグレア処理が施された画面には美咲のシルエットが薄ぼんやり映るだけだった。
そして部屋に入ってきた清水主任の手には二つのカップが握られており、片方はブラックコーヒーが、もう片方には紅茶が注がれている。そんな彼女の表情には、重大なセキュリティ違反があったとは思えないほどの穏やかな苦笑が浮かんでいた。
美咲も紅茶を受け取りつつ、立ち上がって主任に席を譲る。その動きは昼寝場所を奪われた猫のようにゆっくりとしていて、同時にもっといいベッドを見つけたかのように上機嫌だった。
「ふう、まったく…あなたは本当に変わらないわね。エージェントとしての仕事は完璧なのに、それ以外は本当に奔放で…お屋敷で飼われていた猫みたいなのに、外に出たらあっという間に自由へ順応する」
「うふふ、私は結衣お姉さんのカワイイカワイイ『猫ちゃん』なので~…あ、結衣お姉さんのほうが『ネコ』っぽいかもしれませんが」
椅子に座った主任はコーヒーを一口飲み、変わらない香味に小さく息を吐く。美咲も同じように紅茶を含み、内心で「これ、茶葉の蒸らしが足りませんね」なんて思いつつも、自販機から出てくるものだし仕方ないと口元を緩めた。
そして主任はロック解除を『意図的に』忘れてしまうほど油断できる仲間に対し、わずかに責めるような言葉をどこかたたえるような声音で突きつける。無論美咲は飄々と恋人との関係を持ちだして、あっさりと「そういう意味じゃないわよ」と切り返されていた。
「…渡辺さん…絵里花さんのお友達ですが、この子にはひどいことはされませんよね?」
「美咲、それは機密よ…けれど、あなたの言うとおりだと思う。あの子の年齢、これまでの経歴、初期のカウンセリングで認められた反省…それらを踏まえた場合、むしろ社会復帰の機会を奪うことが日本の損失につながるでしょうね」
因果律による出会いの推奨により、日本の人口減少は食い止められた。それでも未だに伸び続ける平均寿命を鑑みた場合、若さゆえの暴走によって若年層の未来を奪うことは決して好ましくない。
なによりも『かつては因果律に逆らった人間が更生し、改めて因果を受け入れて幸せになった』というケースは、これから施設送りになる人間への教材として魅力的だ。結局のところ、違反者というのは軽度であれ重度であれ、なんらかの『使い道』があった。
美咲は『因果を捨てた人間』としてそうした人々への感傷を抱きつつも、抗うことが許された自分にそんな権利はないと考え、自然界に存在しているとしては整いすぎた顔には一切出さない。主任はそんな胸の内を理解しているのか、続く言葉…機密であるはずの情報を話す口に、迷いはなかった。
「その反省についても、絵里花の影響が大きいわね」
「…絵里花さんが?」
「ええ。どういうわけか、あの子…渡辺はあの日拘束に来たエージェントの正体に気づいていて、『自分勝手な行動で友達まで傷つけてしまった。いつかちゃんと謝って、また友達になってもらいたい』って矯正中に話していたわ」
「…ふふっ。本当に、絵里花さんには手を焼かされますね…」
突如として主任の口から飛び出した名前に、美咲はほろっと口を開き、事情を聞くことで…笑いの衝動を抑えきれず、手のかかる妹分への不満を漏らした。その顔は言葉に説得力を持たせられない程度には、楽しげに笑っている。
あの日、すべての対象を拘束したあと、絵里花はたまらず吠えてしまったのだが…思えばリフレクターガンは『対象の神経を麻痺させるものの意識は奪わない』という代物であって、それはエージェントたちの会話を聴覚が拾えるということでもある。
そして渡辺は友人である絵里花の声を忘れるはずがなくて、あの叫びから…パーカーの向こうにあった顔を察したのだろう。それは『エージェントの正体を知った人間』として今後も監視対象とされるのは確実であるのに…美咲はこの結末に対し、どうしても希望を感じざるを得なかった。
エージェントに相応しくない行動が、絵里花という優しい少女の未来にささやかな光をもたらしたのだ。クスクスと笑い続ける美咲に対し、主任もやがて苦笑ではない笑顔を浮かべた。
「何度も言うけれど、これは機密よ。間違ってもほかの人間…そうね、円佳や絵里花であっても教えてはいけない。知っていると思うけれど、私たちが使うメッセージツールは暗号化もされていてもここなら復号できるから…そんなログ、絶対に残しちゃダメよ」
「ええ、わかってますとも…でも、『記録が残らない方法』なら証拠にはなりませんよね? いくら監視の目が行き届いている日本でも犯罪者は生まれるように、私たちの全部だって見ることはできないんですから」
「…本当に、あなたって子は…あの子たちの監視役としては、どうしようもないくらい適任ね」
「お褒めにあずかり光栄です、主任」
主任研究員である以上、清水には情報漏洩を阻止する義務がある。そして彼女はこれまでその責務を怠ったことはなく、それは今後も変わらない。
しかし。美咲の言うとおり、人が人である以上は必ず監視の目をかいくぐることはできる。だからこそ世界自由連合といった犯罪者まがいの活動家たちも悪事を働けていて、同時に…円佳と絵里花に必要な『恋人たちの時間』も、そのプライバシーが守られているのだ。
美咲は監視役ではあるものの、円佳と絵里花のすべてを把握したいとは一度も思わなかった。それは『この二人なら絶対に悪いようにはならない』という信頼も多分にあるが、それだけではない。
私と結衣お姉さんには、因果がない…だからこそ、誰からの干渉もない愛を紡いでいきたい。そんな私があの二人の愛に下世話な視線を向けるなんて、許されることではないのです。
プライバシーという普遍の権利を求めるのであれば、誰かのプライバシーを認めるべきだ。それは美咲の中にある、とても公平な主張だった。
主任はそんな美咲が円佳と絵里花の監視役になったことへお世辞でもなんでもなく、純粋に賞賛を送る。美咲はまるで彼女に仕える執事のように恭しい一例を返して、携帯端末を取り出し絵里花にメッセージを作成した。
「…よしっと。これなら監視役として問題ありませんよね?」
「…ええ、そうね。もっとも、そこから先にどうするかはあなたに一任しないとだけど。信じてもいいのよね?」
「もちろんです。私は決して機密を『どこかに残る形では』漏洩しないことを再度誓います。万が一があった場合、全部私になすりつけていただいて大丈夫ですよ」
「そこまでするほど無責任ではないつもりよ。私だって主任を押しつけられてしまったのだから、いざというときは一緒に首を飛ばされてあげる…でも、できれば白髪増えないように配慮してもらいたいわね」
メッセージの作成後、美咲は見せる必要がないはずの端末を差し出し、主任の許可を仰ぐ。すると彼女はその文章を読んで頷き、実に主任研究員らしい、セキュリティを鑑みた念押しをした。
確かめるように返答を求める彼女の顔には、研究中のような神経質な表情は浮かんでいない。それはまるで長年の仲間に向けるような、安心しきった達観が宿っていた。
この子に任せておけば、あの二人は大丈夫。そう再確認するように。
もちろん美咲は自然な首の動きでこっくり頷き、そして「主任はおきれいなんですから、白髪染めをしてみてはどうですか?」と余計なお世話を口にして、送信ボタンを押した。
『ちょっとお説教があるので、指定場所まで来てください。円佳さんがいると全力でかばうので、絵里花さんだけでお願いしますね』