渡辺さんを拘束し、そして絵里花が涙を流しながら私を好き──ここは重要だ──と言ってくれてから、随分とギクシャクしていた。
…理由はまあ、言うまでもない。私が絵里花にできることが『自分一人で仕事を済ませられるほど強くなる』というものだけで、さらにはそれをされても絵里花はさほど嬉しそうにはしていないこと、そんなことがわかっていてもほかにしてあげられることがないという、私の不甲斐なさに起因していた。
こういうのは時間が解決するという意見もあるし、実際に日数が経過していくほど絵里花が普段通りの生活に戻っているような実感もある。
だけど、やっぱり私の望む結果にはほど遠かった。絵里花は笑ってくれることもあるのだけど、それは以前のような綿飴にみたいにふわふわとして甘いものではなくて、握りしめ続けた雪玉のように固く冷たい、どこか硬質なものに見える。
私のために必死に力を込めて、表情筋を酷使して、そして元気であることを伝えるためだけに笑っているような…そんな感じ。私はそういう絵里花の健気な仕草が好きである一方、それはカチカチの雪玉を背中に入れられて背筋を凍らされたような、体温が急激に奪われたときみたいなつらさもあった。
…さらに、悪いときには悪いことが…いや、それを悪いことだと話すのは気後れするけど。でもそういう重なりがあったことは、私の心までも握りしめてきた。
ある日のこと、絵里花だけが美咲さんに呼び出された。なんでも私には来ないように直々に指定されていて、これには命令に忠実なはずの私でも雨後の竹の子をしのぐ勢いで異論が飛び出しそうになる。さらにはその呼び出し内容が『説教』という名目であらば、勝手に伸びる手は美咲さんへの鬼電を今にも始めそうだった。
なんで絵里花だけに? 絵里花は悪くないのに? 私が不甲斐ないからなのに?
わからない。美咲さんはなんだかんだでいつも私たちの味方をしてくれていたのに、今になって研究所への忠誠心を優先してしまったのだろうか?
それを一方的に責められるほど私は子供じゃないはずなのに、積み木を崩された幼児よろしく、とにかく私は美咲さんへの信頼も忘れてクレームを入れようとした結果、絵里花に『私がダメなのは事実だから』と遮られて、ぐっと歯を食いしばる。
しかも『今回は見張らなくていいわよ』と次の行動を先んじて制されてしまい、そのときの私は家のリビングをうろうろする掃除ロボット──ただし掃除どころじゃない──になっていた。
絵里花、泣いていないかな。美咲さん、何を言っているのかな。もしも美咲さんじゃなければ絵里花のお願いを無視して尾行し、説教をたれるやつを目の前で仕留めてみせるのに。
…いや、私がこんなのだから絵里花は自宅待機を命じたのだろう。美咲さんとまで仲違いしてしまった場合、それこそ私のほうがエージェント失格として因果の園にしょっ引かれるかもしれないから。
そうしてリビングの床の踏んでいない部分がなくなりそうになった頃、戻ってきた絵里花は。
『…ふふ。あいつらしいこと、されちゃったわ』
…なんて、表情に宿らせていた雪玉を少しだけ溶かして。わずかに上機嫌な顔で、笑ってくれた。
そう、笑ってくれた。それはいい。間違いなくいい。だって私、絵里花の笑顔が好きだし。
(…なんで私は、あんなふうに笑わせてあげられなかったんだろう)
いいことのはずなのに素直に喜べない。私のワンルームマンションよりも狭い心は、その一点だけに納得してくれていなかった。
絵里花には笑っていて欲しい。だけど、その笑顔の理由は…私であって、ほしい、のか?
…私は心が狭いだけじゃなくて、傲慢でもあるのだろうか。
だからこそ立ち直りつつある絵里花といても、ギクシャクという手入れを忘れた機械式時計のような音が聞こえるのかもしれない──。
*
「お邪魔します、絵里花ちゃん、円佳ちゃん」
「いらっしゃい、結衣さん。今お茶の準備をします」
「…いらっしゃい。絵里花、私も手伝うよ…」
任務と学校をつつがなくこなし続けて迎えた休日、事前の約束通り結衣さんが遊びに来てくれた。ちなみに美咲さんも一緒に来る予定だったのだけど、用事があるから少し遅れるらしい…思えばこういう待ち合わせのとき、美咲さんが一番遅く到着している気がする。遅刻するというよりも、一番遅く来る、という意味で。
そんなわけで私と絵里花は一足先に結衣さんだけ迎え入れ、リビングに案内する。今日の結衣さんの服装はアイボリーのクルーネックサマーセーターにベージュのチノパンという、シンプルでナチュラルなコーディネイトだった。ファッションに疎い私でも結衣さんらしい落ち着きと温かみを感じられる。
ちなみに絵里花は結衣さんが来るということでちょっとおしゃれに、トップスは袖口がふんわりしたピンクベージュのフリル付きブラウス、ボトムスはホワイトのハイウエストショートパンツだった。フェミニンな感じが実に似合っている。
そしてこの中では一番ファッションに興味がない私は体育で使う野暮ったいシャツにハーフパンツ…ではなくて、ホワイトで無地のコットンTシャツにカーキのハーフパンツという、絵里花に「結衣さんが来るんだから…」と注意されて着替えたシンプルなコーディネイトだった。体操服と大差ないとは思うけど、私服に着替えただけでも絵里花は許してくれた。
「ありがとう…でもね、せっかくだしちょっとお菓子を作らせてもらっていい? 美咲が来る前に3人で作ってさ、あっと驚かせようよ。材料も持ち込んだし、簡単なものだから手伝ってもらえると嬉しいんだけどな?」
「あ、私は大丈夫です」
「私も…絵里花ほどじゃないけど、多分手伝えると思います」
リビングに案内された結衣さんにお茶を出そうとしたら、彼女は持ち込んだトートバッグを穏やかな笑顔で掲げて見せて、私たちをお菓子作りに誘ってくる。現在時刻は13時30分くらい、たしかに今から作ればおやつの時間に間に合うだろう。
そして美咲さんのおかげで元気が戻ってきた絵里花はその提案に二つ返事でOKして、それを見た私も拒否する理由なんてない。そもそも絵里花はあんなことがあった直後でも家事を休むことはなくて、きっと落ち込んでいたとしてもこのお菓子作りには参加しただろうな。
(絵里花の負担を減らしたい…でも、彼女の望むままにさせてあげたい…)
お菓子作りに関する話題で盛り上がる二人を尻目に、私は料理の邪魔にならないように髪をポニーテールにしながらエプロンを着用する。結衣さんがいなければ「絵里花、結んで」なんて甘ったれているところだった。
…もしかしなくても私は、絵里花の負担を減らすどころか増やしていたんじゃないだろうか。
絵里花のために強くなることで、彼女に『自分は不要なのではないか』なんて心理的負担をかけていたかもしれない。
家事を休ませようにも絵里花のほうが上手いし、そもそも彼女は家事自体が好きだから、仕事を奪わないように最低限の手伝いしかできない。
絵里花は自分のことを不要だと思い込みやすいけれど、本当は私のほうが不要なのかもしれなかった。
(…せめて、このお菓子作りで挽回…なんてね…)
現役パティシエに家事万能の恋人、その間に挟まる私。
その構図で果たして自分に何ができるのか、そんな不安から目を逸らすように自分の両頬を張った。すると予想よりも大きな音を立ててしまい、絵里花に「ちょっと、せっかくきれいな顔なんだから傷つけないでよ」なんて怒られてしまう。
意図せずしてかまってもらうような格好になってしまったのに、絵里花にちょっと赤くなった頬をさすられたら一寸前の決意すら溶かされてしまいそうで。
少し離れた場所で私たちを楽しそうに見守る結衣さんと目が合ったとき、わずかに惨めさを感じた自分が情けなかった。
*
「今日のお菓子は『アイスボックスクッキー』だよ。ちょうどオーブンもあるし、そんなに時間と手間もかからないと思う」
持ち込んだシンプルなエプロンを着用した結衣さんは、お店でそうしているかのようにテキパキと材料を並べる。無塩バター、グラニュー糖、薄力粉、卵黄…なるほど、人並みに料理の知識を叩き込まれた程度の私でも「これはクッキーの材料かな」とわかる。
その間も絵里花はボウルや泡立て器といった調理道具を取り出していて、この辺に家事スキルの違いを痛感する。もちろん少しでも挽回──何を取り戻すというのか──したい私は棒立ちのままではいられず、いつの間にかボウルに入ったバターを眺めつつそれを手に取った。
「まずはバターを混ぜてね。均一にするためにはちょっとだけコツがあるんだ」
「そうなんですね…」
なんとなくバター係となった私は結衣さんに混ぜるためのコツを教わりながら、柔らかくなったバターをクリーム状にすべく手を動かす。絵里花のおかげであんまり料理せずに済んでいるけれど、こうした作業で手が痛むほどやわではなかった。
途中で「ちょっとごめんね」と結衣さんは私の手を優しく取り、混ぜ方についてダイレクトに教えてくれる。普段からお菓子を作っているその手に押しつけがましさはまったくなく、私の動きを阻害しない力加減にはいるはずもない姉の姿を連想した。
絵里花以外にはほとんど触れられることがない人生だけど、結衣さんの手の感触は不快じゃない。むしろ見えないものを取り戻そうとする焦りも一緒に溶かすようなぬくもりを感じて、少し気が抜けそうだ。
チラリと横目で待機している絵里花を見ると、彼女はどうしてだかじいっとボウルではなく私を見ていた。睨むほどじゃないけど、機嫌がよさそうでもない…強いて言えば、学校で私がクラスメイトと話している様子を見るような、喧噪を遠くから眺める野良猫の視線みたいな。
「それじゃあ絵里花ちゃん、ここに砂糖と卵黄を加えてね。先にグラニュー糖を混ぜて、そこから卵黄を馴染ませる感じ」
「…任せてください」
ボウルの中でバターによるクリームが生まれたら、結衣さんは満足げに頷いて絵里花に次の作業を割り振る。私を見ていた絵里花ははっとしつつも柔和にそれを請け負い、私からボウルを受け取って指定された材料を混ぜる。
その手つきは私とは比較にならないほど自然で滑らか、いかにも料理が好きな女性の動きだった。その実力の違いに対し、私は嫉妬…するわけがない。
(…やっぱり絵里花は、エージェントの仕事なんかよりも家事をしているほうが…いいに決まってる)
結衣さんに「絵里花ちゃん、さすがだね」と褒められてはにかむ恋人を見ていると、私は何度目かわからない事実を再確認する。
少し前は「戦いに向いてないから」なんていう味気ない事実により絵里花を仕事から遠ざけたかったけれど、今は徐々に材料がクッキーへの姿を変えていくように、私の気持ちも変化していた。
前よりも強く、強く…絵里花を戦いから引き離したい。これからはエージェントの仕事自体に参加してもらわなくて、ただ私が戻るまで家で待ってもらって…銃を握ることでの震えだけでなく、怪我をする可能性すら取り除いてあげたかった。
研究所の連中が認めなくとも、私は「絵里花は毎日帰るべき場所で私を待ってくれているからそれで十分」と断言するだろう。絵里花がその結末を望んでくれているかどうかは別、だけど。
…絵里花が望んでいることかどうかわからないのにこうするしかない、私はお菓子作り以外でも不器用な人間なのだろう。
「よし、ここからは薄力粉をふるいながらさっくり混ぜていくよ。円佳ちゃんがふるって、絵里花ちゃんが混ぜてみてね」
「はい」
「了解です」
そんな不器用な私に任せるなんて、と無意味なことを考えつつ、私は言われたとおり薄力粉をふるい始める。絵里花の隣に立って作業していると、彼女の慣れ親しんだ匂いが小麦粉の香りを上塗りした。
私は…こっちのほうが好きだな。決まり切ったことを考え、薄力粉に敗北を突きつける。
夏はお互いどうしても汗をかくので、乙女らしい絵里花は「夏の間はあんまり嗅がないで」なんて言ってくることもあるけど、汗をかいたかどうかに関係なく私はこの子の匂いが好きだった。
シャンプーとか石けんとか、洗濯洗剤とか…絵里花はそういう清潔な匂いではあるんだけど、その画一的な香りで打ち消せない、私の胸の奥に訴えてくる、嗅覚だけでは感じ取れない匂いだった。
それは長く生きたわけではない私にも『懐かしさ』を感じさせるように、操作された遺伝子が見せる過去の夢なのかもしれない。
「うん、生地の硬さもいい感じになったね。あとはラップに包んで棒状にするんだけど、どっちがやる?」
「あ、私が」
「私がやります。大丈夫です、パンをこねるのとか得意なんで」
結衣さんの声に夢から引き戻されたら生地を固める段階に到達していて、絵里花が控えめに挙手しようとしたのを、私は関連性が怪しい意見で制する。幸いなことに、結衣さんは「それは頼もしいね」と笑顔で任せてくれた。
すっかり形になった生地をラップに包み、直径3cmほどの棒状に成形する。その触り心地はパンそっくり…というほどじゃないけど、元は小麦粉だけあって別物とも言いがたい感触だった。
そのおかげなのか自分でもきれいだと感じるくらいには整えられて、仕事を奪われたはずの絵里花も「円佳、やっぱり上手いわね」と褒めてくれる。
…正直、その言葉だけが欲しくて割り込んだのだけど。いざ言われてみると『やっぱり私は絵里花に必要なんだ』と感じるくらいには大げさに嬉しかった。
「この生地は1時間くらい冷やすから、その間に休憩しよっか。二人とも、本当に上手だね…おかげで私、ほとんど指示出しだけで済んだよ」
「いえ、そんな…結衣さんがいないとこんなにきれいに作れなかったでしょうし」
「絵里花の言うとおりです…その、最近はこういう手間をかけることとか、あんまりしてなかったので」
「…ごめんなさい」
「あっ、ち、違…絵里花は悪くないの、私が…」
冷蔵庫に生地を入れて締めた直後、結衣さんがどこまでも楽しそうに口にする。この人のことだから、きっと私と絵里花の気分転換のためにほとんど任せてくれたんだろうな。
それを理解すると私の口は滑ってしまって、おそらくは予想よりもきれいなクッキーができそうで浮かれてしまったのだろう。
まるで『絵里花のせいで家事をさぼっていた』とでも捉えられそうな言葉を吐き、先ほどの達成感は容易に後悔で塗り潰された。今も冷蔵庫で完成を待つクッキーとは異なる、惨めさにまみれた私の汚らしい色合いの心。
それが今、絵里花の痛みを勝手に共有したかのように悲鳴を上げていた。けれどそんな私に対しても目を伏せて謝ってくる絵里花を見ていたら、痛みは取れるどころかもっと形を主張し始めて。
「…私、こんなふうに過ごしていて、いいのかな」
その形の表面をなぞるように、ポロリと私の目から涙がこぼれた。泣いてしまう理由だって、私はどこまでも自分勝手だった。
「私、全然ダメだ。絵里花の恋人なのに、絵里花がつらいときに喜ぶことをしてあげられない…結衣さんや美咲さんがいなかったら、今頃はもっと傷ついていた」
エージェントとしてはそこそこ強いはずの私にできること、それは絵里花の分も戦うことだけなのに。
なのに、あなたはそれに喜んでくれない。絵里花は美咲さんや結衣さんといるときのほうが楽しそうで、私が戦っても傷つくだけで。
絵里花のそばにいるべきじゃないのは、きっと
「いいに決まってる!! なんでそんなことを言うの!!」
私だ、そう無力感を嘆きそうになったら。
一瞬で私よりもたくさんの涙をあふれさせた絵里花に、強く抱きしめられた。痛みを伴うほどの力加減で、絵里花の痛みが伝わってくるようで。
「…心だってね、涙を流すんだよ。円佳ちゃん、私は二人に何があったのかわからないけど…キミはね、もうちょっと誰かに甘えたほうがいいと思うな。絵里花ちゃんのことが大切だってわかってるけど」
抱き合いながら涙を流し始めた私たちを、結衣さんは包み込むように抱きしめてくれた。結衣さんの両腕は特別長いわけじゃないのに、私と絵里花の全身を同時に包み込むような包容力を感じた。
「大切な人の心だけじゃなくて、自分の心にも目を向けてあげてね。誰かを守るなら全部の負担を背負うだけじゃなくて、ときにはそうやって一緒に泣いてあげることも必要だから。絵里花ちゃんのために真っ先に泣いてあげられるのは、キミだろうから」
「…うっ、あ…うわあぁぁぁ…!!」
自分が赤ん坊に戻ったと錯覚を起こすほどの包容力の中で、私はどれくらいぶりかわからない、声を出してしまうほどの勢いで泣いてしまった。
泣く、それは弱い証拠だと思っていた。弱くなれば絵里花を守れない、そうだと信じていた。
でも、違った。私に抱きついて泣いてくれる絵里花からは、全幅の信頼を感じられて。
彼女が求めていたのはこれなのだと、根拠もなく信じられた。
いや、根拠はある…だって結衣さんが頭を撫でながら、そう教えてくれたのだから。
だから今は絵里花が求めてくれたことを全力で遂行すべく、ただひたすら泣いた。クッキーの完成はいつなのか忘れるくらい、泣いた。