あれから美咲が訪れたのは、ちょうど円佳たちが泣き止んでクッキーが完成してからのことだった。
泣きはらした二人の顔を見た美咲はいつも通り軽薄な調子で「もしかして私、お邪魔でしたか?」なんて微笑み、それでもめざとく焼き上がったクッキーをつまみ、その味に顔をほころばせる。
3人が作ったクッキーは、とても甘かった。美咲は円佳と絵里花の雰囲気の変化に後顧の憂いが断たれたように感じて、湧き上がる食欲を押し殺すのに内心で必死だった。
全部全部、上手くいきました。それも、この人のおかげ。
美咲は「ほらほら、おいしいのはわかるけど独り占めしないでよ?」とたしなめてくる恋人を見て、自分の考えは間違っていなかったことを悟る。
(…私の言葉じゃ、ダメなんです。いろんなことから逃げ続けた私じゃ…)
結衣は美咲の恋人である以前に一般人であり、そんな彼女に頼ることの是非は前々から考えていた。
しかし、美咲は知っている。何も知らないであろう結衣の言葉だからこそ込められた力、そして重みが存在し、それが今日のような良い結果を生むのだと。
何も知らない、それこそ【因果】すら持っていない結衣。そうであっても常に言葉へ力を持たせられる恋人を、美咲はどうしようもないほど愛していた。
たとえ自分たちに因果がないとわかっていたとしても、それ故に因果を持つ二人のように上手くいくかも定かではなかったとしても。
美咲はただ、結衣のそばに居続けたかった──。
*
楽しい時間ほどすぐに過ぎるとはよく言ったもので、4人でのお茶会は瞬く間に夕方を乗り越え、夕日は夜との狭間で青色を作り出していた。
美咲はベランダに出て欄干に手をつき、閑静な住宅地の建物が同じ色に染まりつつあるのを眺めていた。その横顔は脆さを含む愁いを帯びていて、夕闇の不確かさも相まって幻想的なまでの美しさを宿している。
吐き出された息にはわずかな音を含んでいたものの、それは部屋から聞こえる楽しげな声にあっさりとかき消された。
(そう、これでよかったのです。私じゃ二人のあんな顔を見ることはできません、結衣お姉さんがいてくれて…本当に…)
よかった、そう思っているはずなのに。
徐々に夜に染まる黄昏の中において、美咲の顔は笑ってはいなかった。悲しんでも怒ってもいなかったものの、笑顔と言うには物憂げであり、一つの難題をクリアした人間の顔つきとは言いにくい。
美咲はそんな自分の顔が想像できていたのか、せめてあの3人には見られまいと欄干の向こうの景色に視線を向け、それを横切るドローンたちにようやく苦笑できた。
…今の顔が監視カメラに残るのは、ちょっと勘弁してもらいたいですね。
「夕ご飯、二人で作ってくれるってさ。私も手伝おうとしたら『お客様だから』なんて言ってくれてね…ほんと、円佳ちゃんと絵里花ちゃんはしっかりしすぎているね」
「ええ、本当に。だからこそ、結衣お姉さんみたいに甘えられる人が必要なんですよ」
「だからって、わざと遅れてこなくてもいいのに。本当は美咲が優しくしてあげたかったんでしょ?」
ドローンが忙しく飛び回るのを狙撃するように眺めていた美咲の横に、結衣がゆっくりと歩み寄って寄り添う。同じような姿勢で欄干に腕を預け、お互いの肘がぴったりと引っ付いた。
美咲が横を向くと結衣のからかうような笑顔が飛び込んできて、まるで姉のような言葉を吐いてしまう。
私は姉なんて柄じゃなくて、そういう役目はこの人がいてくれたら十分なんですよね。
そんな思考を完全に隠すように笑い返してみたら、結衣は思考どころか意図まで見透かすようにズバリと切り込んでくる。スナイパーとしてたぐいまれな素質を持つ美咲は滅多に動じることはないものの、恋人に対しては常に懐がオープンになっているのか、ついその顔から目を逸らして再び町並みへと視線が逃げた。
結衣はくくっと小さく声を出して笑い、同じものを見るように視線を前に向ける。二人の目線をまたドローンが横切り、夜を配達するかのように辺りは暗くなっていった。
「…私の言葉は軽いので。結衣お姉さんのように力がないんですよね、私の話は」
それは結衣の質問への回答にも、そこから逃げるための言葉にも聞こえた。
けれど、美咲は本当にそう思っていたのだ。
(…あの日からずっと同じ、私の言葉じゃ…届かない…)
青が黒に染められつつある景色においては、現実と回想の境目が合間になる。そして狙撃も難しくなってしまうことから、美咲はこの時間帯が好きではなかった。
目を閉じても、開いても、真っ黒。その中で浮かび上がってくるのは、無力な自分の姿。
『お姉さま、どうしてですか!? 私はあなたを誰よりもお慕いしています、それなのに…私じゃ、因果に…勝てないのですか…?』
それは『大好きなお姉さま』に手を伸ばす、他ならぬ自分だった。
まだまだ大人というには幼く、それでも子供のように抗う力のなかった、美咲が捨てたと思い込んでいた自分。
けれども実際は今も自身の奥底でしゃがみ込み、そして泣いていた。美咲はそんな自分が嫌いで、いやで、逃げたくて…。
そして、銃を撃つようになったのだ。正確無比な狙いを付ける銃口の向く先は、本当に撃ち抜きたいものは、自分の中にあった。
今なら仕留められるでしょうか? 夜の向こう側にいる自分に狙いを付けようとしていたら、美咲は両頬を愛する人に掴まれて。
「だからといって、気軽に女の子へ声をかけるのは許さないけどね!」
結衣は美咲の顔を自分のほうに向けて、パチリと両頬をとても軽く叩いた。それは美咲が先ほどまで自分に向けていた銃口から放たれる音とは違う、それでも過去を振り切る力を持った音色だった。
冗談めかして…いや、かなりの本気も込めてそう言ってきた結衣の顔は、ただ『今ここにいる美咲』にのみ向けられている。
それはあの日見せてくれた、私を救ってくれた顔みたいで。
「美咲の言葉だってね、あの子たちの心を動かせるんだよ」
「…私の軽い言葉でも、ですか?」
「重い言葉はね、時として文字通り『重し』になっちゃうでしょ? だからこそ、どんなときでも軽い調子でさらっと思いやってあげる美咲が必要とされている…そしてそれがわからないほどあの子たちは薄情じゃないし、無関心でもない。美咲は二人をいつも見守っているけれど、もうちょっと近くで…目を合わせて、話し合ってごらん」
結衣の手はそのまま美咲の両頬をゆるゆるっと引っ張り、整いすぎた顔は間抜けに広がっていく。それでも結衣の双眸に映る顔はこの世の誰よりも美しく、そして優しいものであるように感じられた。
ほら、見てごらん。私の恋人はね、こんなにもきれいだよ。
結衣は監視カメラを搭載したドローンが通り過ぎる刹那、そんなことを心で自慢しておいた。もちろん外見はともかく中身の美しさは機械では捉えられないため、それは結衣だけが知る宝物でもあったのだ。
「私にばっかり『お姉さん』をさせないで、あなたもお姉さんになってあげて。あなたがそれを望んでいるように、あの子たちもきっとそれを望んでくれているだろうから」
「…結衣お姉さん」
好きです、その言葉が夜の世界に生まれる前に。
美咲は頬に添えられた結衣の手を握りながら、その唇にキスをした。3人でお菓子を作っていた結衣の唇にはほのかに甘さが残っている気がして、美咲はその香りに酔いしれる。
もしもここが円佳と絵里花の家ではなくて、そしてドローンも飛んでいない場合、舌を使って味覚でも楽しんでしまうほど…結衣とのキスは、美咲を虜にしていた。
夏を予期させる湿り気のある空気が二人の体温をより熱く、そしてしっとりと閉じ込める。美咲だけでなく結衣の体も熱を逃しきれないほど熱く、ただ熱く感じていた。
「…ふふっ。やっぱり私たちって、因果を超えた絆がありそうですね」
「…何それ、ナンパの言葉としてはちょっとくさくない?」
湿った唇は離れる瞬間も名残惜しそうに引っ付いていて、美咲は軽く舌なめずりをしてその余韻を味わう。先ほどまで結衣と触れていた部分は、やっぱり甘かった。
そして忘れていた呼吸を再開するようにクスクスと笑い、今度は美咲が結衣の頬に触れる。結衣も同じようにその手を握って、シビアな指摘をしつつも顔は緩んでいた。
同時に、その言葉が…とても嬉しかった。
(私と美咲には因果がない、だけど積み重ねてきた絆がある…それが因果よりも強ければ、きっと)
因果のない人間、それは現代日本にとっては大きなハンデであり、システムに見捨てられた存在とも言えた。結衣はお菓子作りという熱中できることがあったからよかったものの、それでも周囲に因果律カップルが増える度に疎外感が胸の奥で主張し始めて、同時に『因果のない自分はみんなみたいに上手くいかない』とも感じ始めていた。
そんな中出会った美咲という女性は、結衣にとってあまりにも不可思議な存在だ。
自ら因果を捨てたとのたまいつつ、あっちこっちと女の子に声をかけて回る。そのくせ誠実であろうとして、因果から見放された結衣のそばにいようとする。けれども目を離せばどこにかにふらりと消えていきそうで、だけど大切な人のところに何のこともなさそうに戻ってきて…。
常識人である結衣にとって、美咲は未だにわからないことだらけだ。それでもたしかなものは、因果に依らない絆は二人の中へ確実に刻まれていた。
「私たちには因果がありません。だけどそれは、すべてのつながりが失われたわけでもありません。だから私たちは因果とは異なる強いつながりを大切にして、そして…いつかは『これが私たちから始まる新しい因果だ』って胸を張れるよう、私が結衣お姉さんを守ります」
「…頼むよ、ダーリン。私たちであの二人を幸せにするためにも、私たちも幸せでないとね」
冗談めかして、結衣は笑った。冗談っぽく言ってしまわないと、今度は自分からキスをしそうだった。
因果がない組み合わせ、その破局事例というのは数え切れないほどある。情報網が掌握されたこの国では因果律へ逆らわないようにすべく、そうしたニュースはことさら取り上げられていたからだ。
けれど、そんなノイズを吹き飛ばしてしまうほど、美咲の言葉は結衣に響く。いつも聞かせてくれるフルートのように、気の早い秋風のような高く優しい音色で、結衣に信じさせてくれる。
(…結衣お姉さんは、どこまでも優しい人。だから私はこの人と結ばれて、そして因果がないことで苦しんだ人たちの希望になりたい)
そして、美咲も同じだった。
因果がありながらも、それが大切な人とつながっていなかったときの苦しみ。今でも悪夢のようにフラッシュバックして、こんなことなら因果自体がいらなかったと何度も嘆いていた。
しかし、結衣はいつもそこにいてくれたのだ。『あの人』とは違って、誰とも因果を持たないからこそ…世界で一番、私を安心させてくれる人。私が自分で選んだ、誰よりも大切な人。
円佳と絵里花がうらやましくないといえば、嘘になる。けれど、彼女たちもまた結衣の事情を知りつつも大切な人だと認識していて、美咲との関係を応援すらしてくれた。
そんな優しい人たちに報いたい、美咲の胸中にはそんな思いがあふれてきて…もう一度、キスを交わした。
その刹那、隙間なく飛び回っているはずのドローンすら完全にいなくなり、このキスを知るのは当人たちだけだった。