「渡辺さん、大丈夫かなー…大きな事故だったんでしょ?」
「うん…長期的な入院が必要で、しかも遠いところにある病院にいるらしいから、私たちじゃ会いに行けないみたい。勉強は学校が院内教育をするから遅れの心配はないみたいだけど、せっかく夏休みなのに一緒に遊べないの寂しいね」
夏休みを目前に控えた聖央高等学園、その教室の一つ。私と絵里花、そして渡辺さんもいたクラスでは、現在も彼女の話題が出ることがあった。
『渡辺さんは大きな事故に巻き込まれてしまい、治療に専念することになりました。現在はご家族以外の面会はできないため、皆さんは無事を祈ってあげてください』
渡辺さんが拘束されて数日後、私たちのクラスの担任はやや悲しげなトーンでそう説明していた。おそらくは彼女も真相は知らされておらず、詳しい事情を知るのはこの学校の上層部、それも限られた人間だけだろう。聖央は研究所の息がしっかりとかかっているけれど、教師も含めた大多数の職員はそうした背景を知らない。
無論真相を知る私たちは彼女が『矯正施設』に入れられていることを把握しており、その報告を聞いた直後はお互いが暗澹とした表情になってしまう。幸いなことに周囲は『渡辺さんと親しかったので強く悲しんでいる』と理解してくれたようで、私たちこそが彼女を施設送りにしたことはずっと知られないままだろう。
だからこそ、今になっても彼女の名前が出てくることは私たちにあの日の戦いを思い出させ、どうしても表情に緊張が走る。とくに絵里花は顔に力が入りすぎて唇を噛んだりしないだろうか…と不安だったけれど、美咲さんの説教──この内容は今も二人だけの秘密らしい──を受けてからの彼女は「渡辺ならきっと大丈夫よ」とも話すようになったから、きっとそうなんだろう。
だから今も隣に座る絵里花は私をいたわるように頷いてくれて、それに応えるべく私も顔から力を抜いた。
(…あの日泣いてから、結構楽になっちゃったな…)
私と絵里花の纏う雰囲気からギクシャクが抜けたのは、言うまでもなく結衣さんのおかげだった。いや、美咲さんも気を使ってくれていたのは知っているけど。
絵里花のためにも泣かない、そのために強くあるべきだと思い込んでいた私は自分で感じていたよりもいっぱいいっぱいになっていたようで、思えば学校でも「三浦さん、何かいやなことでもあったの?」なんて聞かれることもあった。
一方、絵里花と結衣さんに泣かせてもらってからは『敵をすべて滅ぼせ』とばかりの焦りはほとんど消えて、エージェントの仕事でも絵里花や美咲さんに頼れるようになった。頼る必要性をなくせば恋人を救えると思ったのに、実際は一緒に戦っているほうが絵里花も安心できていたのだ。
つまり、私はいろんな面で楽になった。それはいいことなのに、手ぶらになった心は持てる荷物を探すように、ふらふらと手探りを続けている。けれどもそれでなにかが見つかるわけもなくて、何度も何度もすかっと空振りをしていた。
「…大丈夫よ、円佳。私はもう、あなただけには背負わせない。戦うことからも、その結果からも、絶対に逃げないわ」
「…絵里花」
そして私の手が宙を舞っているとき、絵里花は決まってその手を握ってくれた。休憩時間とはいえここは教室であって、これまでの彼女であればこうして手をつなぐだけで顔を赤くしていたというのに。
あれからの絵里花は、変わった。戦いにおいての震えが消えただけじゃなくて、こんなふうに私を支えるためならば躊躇をせず、どこであっても寄り添ってくれる。これまで優しすぎた私の恋人は、いつしか強さまで兼ね備えるようになったのだろう。
私の手を握りながら、私以外には聞こえないよう小さな声で包み込んでくれる絵里花。そんな彼女から苦しみを取り除かなければいけないだなんて、私は傲慢だったんだろう。
それに対する反省はしているし、絵里花には私がいなくても大丈夫とも思ってしまって、そうした点についての寂しさはあるのだけど。
だけど私は、誰よりも私の心に寄り添ってくれて、そして支え続けてくれるこの子のことが。
とてもとても、大好きだった──。
「ねえねえ、三浦さん、辺見さん!…あっ、ごめん、邪魔だった?」
「…あ、ううん。どうしたの?」
絵里花に手を握られていると、私の頭は絵里花でいっぱいになる。それは全身を痺れさせるような幸福感を絶え間なく分泌して、やがて視界も、鼻孔も、鼓膜も、絵里花しか認識できなくなっていた。
だからクラスメイトに声をかけてもらわないと「手だけじゃ足りない…」なんて考えて抱き寄せるくらいはしかねなかった──CMCであっても教室ではちょっとやり過ぎになるかもしれない──わけで、急速に五感が世界に戻ってきたことでなんとか返事でができた。
ただ、そのクラスメイトの女子は私と絵里花の手が今も固く握られていることに気づき、後ろの生徒に「ほら、やっぱりお邪魔しちゃったじゃん」なんて冗談とも本気ともつかない様子で小突かれている。
そこで絵里花も頬を染めながら「別に、変なことをしてたわけじゃないわ」と手を離したけど、その動きはじっくりとしており、絵里花ももうちょっと握っていたかったということが伝わってきて、こういう些細な以心伝心が心地よかった。
「えっとね、夏休みの予定なんだけど…どこ行く!?」
「うんうん! 今年は我がクラスが誇る因果律カップルとも一緒に遊べるから、みんなテンションが上がってるんだよ!」
「我がクラスが誇るって…あはは、大げさだよ」
「ほんとね…ふふっ」
私と絵里花が不機嫌でないことを悟ったクラスメイトたちは先ほどの遠慮がちな様子見から一転し、気の早い打ち上げ花火みたいな笑顔を浮かべて夏休みの予定を聞いてくる。
そして小さな頃から因果で結ばれている私たちに過剰な期待でもしているのか、本当にテンションが高くて苦笑してしまう。だけど苦くても笑顔を浮かべられたことで、私の気持ちはもう一歩分だけ軽くなった。
何より、絵里花も同じように笑っていた。渡辺さんという貴重な友人を失った彼女にとって、こういう集団の輪に入ることはハードルが高そうだったけど…そこも杞憂だったらしい。
絵里花が笑えば、やっぱり私は嬉しい。それが無理に作られたものじゃないのなら、なおさらだ。
「やっぱりさ、プールとかマストだよね! 屋内プールなら日焼けの心配もしなくていいし、二人ともスタイルがいいから水着姿が楽しみ…!」
「ええー、恵美ちゃん目線がエロいよ〜? それよりさ、ちょっと遠出して高原地帯とかのほうがいいって。三浦さんと辺見さんが白ワンピ着て草原を走り回るのとかさ、めっちゃ絵になるよ〜」
「プール…高原地帯…どっちも行った記憶がないかも」
「そうね…というか、白ワンピも持ってないわね。水着はあるけど、プールへ行くならおしゃれなのが欲しいわ」
夏休みの経験があるクラスメイトたちの盛り上がりを見ながら、私と絵里花は【因果の園】での夏を思い出す。
…といっても訓練のとき以外で遠出することはまずなくて、基本は空調の効いた施設内で過ごしていた。太陽に当たるための屋内公園とかもあったし、太陽光を高度に再現する照明も設置されていたから、そこまで閉塞感があったわけじゃないけど。
それでもみんなを見ていると広々とした世界で生きてきたことが伝わってきて、今年は私たちもそんな世界で夏を過ごすと思ったら、今も窓から見える太陽のような躍動が胸に宿ってきた。
(…私は忘れない。絵里花の友達に手をかけたこと、その友達とはもう会えないかもしれないこと)
私は単純な人間だ。見ず知らずの相手であれば拘束したとしても別に記憶には残さなくて、なんなら『これでまた絵里花と一緒にいられる』くらいに考えられるのだけど。
ひとたび絵里花が関われば何度も感情を揺さぶられ、普段から周囲に言われている『冷静』とか『優秀』なんて評価が適切でないことを突きつけられる。
それでも、私が今も抱いているこの感傷も、きっといつかは風化して崩れていく。絵里花という最も大切な存在を色あせさせないため、あらゆるものを犠牲にして、いつしかその罪悪感ごと忘れていくだろう。
(でも、それでいい。私たちの心を軽くしてくれる人たちは、きっと思っているよりも多いのだから)
隣にいる絵里花と、そんな彼女と話すクラスメイトたちを眺める。絵里花は渡辺さん以外ともちょっとだけ話すことが増えて、クラスメイトも絵里花を『本当は優しい人』だと理解してくれたのだろう。
絵里花をもっと好きになることで膨れ上がった嫉妬は、今もちょっとだけ…本当にごくごくわずかだけど、くすぶってはいる。クラスメイトのみんなが絵里花を狙っているはずがない、そんなのはわかっていても…私の唯一絶対の指針に触れられたら、狭い心はわかりやすく反応した。
それでも。
「円佳、あなたは行きたいところはある? 私は…そうね、犬カフェとかちょっと興味があるんだけど」
「…ふふっ、いいね」
絵里花はいつも、私を真っ先に見てくれる。行き先を決めるとき、遊ぶ方法を考えるとき、おいしいものを食べに行くとき…どんな場合であっても、私と行こうとしてくれる。
私はずっと『私が絵里花の手を引かないといけない』と思っていたけど、考えを改めないといけなかった。
私が絵里花を引っ張るのではなく、絵里花が私の手を引くわけでもない。
「私、絵里花と一緒ならどこでも楽しいって信じてる。だから、行き先は自由に決めていいよ」
「もう、そう言われるのが一番困るのに…でも、ありがとう。夏はまだまだ続くから、もうちょっとゆっくり考えてみましょうか」
私と絵里花は、一緒に歩いて行く。手を引くのではなく、手をつないで。
一緒のペースで、同じ道を歩いて行く。私が絵里花を連れて行きたいように、絵里花だって連れて行きたい場所があるだろうから。
だから、見に行こう。きれいなもの、素敵なもの、探していたものを目指して。
そんな気持ちを込めて指を絡めるように絵里花の手を握ったら、彼女は放課後の太陽みたいにはにかみつつ、それでも自分の指に力を込めてくれた。
そして私たちの手のひらから、夏が始まった。初めての、忘れられない夏休みが。
もちろんクラスメイトたちはそんな私たちの動きにめざとく気づいて、ニヤニヤしつつも「一緒に出かけるときでも、二人きりの時間を作ってあげるからね!」なんて念押しされた。