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第50話「暑い季節」

 たとえ聖央高等学校といえど、終業式を終えた直後はまさにお祭りムードだった。

 教室にて担任の話が終わると同時に喧噪が生まれ、それは燎原の火の如く校内全体に広がる。元々学校という施設は賑やかに思えていたけれど、すでに夏休みに突入したという事実は肌を焼く太陽よろしく、全校生徒のテンションを燃え上がらせていた。

 対する私と絵里花は『用事』があったため、親しげに話しかけてくるクラスメイトたちとそつなくやりとりしつつも、自分たちのやるべきことで頭のリソースの大半が埋め尽くされていた。

 いくら終業式といえど、夏休みを迎えたといえど、悪人というのは自重してくれない。むしろ学生が開放的になる時期はそういう世代が狙われやすくなるとすら言えて、私たちCMCエージェントの仕事は定期的に舞い込んできそうだった。

 それに対し、思うところはある。というか私も絵里花も入学当初に比べると顔に出やすくなったのか、たまにクラスメイトからも「二人とも、何か考え事でもしてるの?」なんて言われることがあって、もしかしなくても『夏休みくらいそういう仕事は休みたい』とでも思っていたのだろうか?

 …まあ、仕事と休みのどちらがいいのかと聞かれたら、説明するまでもない。

 私はともかく、絵里花だ。ここ最近の絵里花にはいろいろとありすぎて、さらには元々エージェントとしての仕事が好きではない──私も好きじゃないけど──ことも考えると、夏休みくらいは彼女を休ませてもいいじゃないかと物申したくなる。

 その代わりに私が二人分働かないといけないと言われたら、迷うことなく受け入れるだろう。なんなら夏休みが終わってからも二人分働いたっていいし、絵里花が一生働かなくていいのであれば、私は自分の生涯を戦いに捧げてもかまわない。

 けれども絵里花がそれをよしとするはずがなくて、私はそういう彼女の思いやりを知っているからこそ、こんなふうに…似合わない自己犠牲を発揮しそうになっているのだろうか。

 わからない。それでも、たしかなことはあった。

 絵里花は確実にあの出来事を乗り越えていて、もっと強くなっていて、そして。

 もっと『私が好きな絵里花』になっているような、気がした。


 *


「そろそろ夏休みだし、冷やし中華とか作る?」

「そうね…麺類は食べやすくていいのだけど、たんぱく質が少し足りないのよね。鶏肉を多めに使うって手もあるけれど、今まで通り普通の料理を続けるつもりよ」

 逢魔が時、それは災いが起こりやすい時間帯らしい。たしかに夕方と夜の境目は薄暗く、視界がぼんやりと不明瞭になり、それでいて本格的に夜の帳が下りたタイミングよりも町中の照明が少ないから、悪人が牙をむき始める環境が整っているのだろう。

 現在私と絵里花が手をつないで歩いている場所…芝生と遊歩道が大部分を占める公園内においても、昼間とは比較できないくらいには光が弱まっていた。ここは通勤や通学のルートからは若干外れていることもあり、通行人がいたとしてもその数は少ない。

 私たちが歩く遊歩道の両サイドには生け垣と常緑樹が並んでいて、街灯もまだ点灯していないから、その緑の中からこの世ならざる魔物が飛び出してきても不思議ではなかった。

「絵里花ってさ、本当に料理が好きっていうか…そういう手間を全然惜しまないよね。おかげでおいしいご飯が食べられるけど、毎日だと疲れない?」

「食事はね、人間の体を作るために一番大事なものなのよ。だから手を抜くつもりはないし、それに…あなたがいてくれるから。円佳、いつもおいしいって笑ってくれるし…だから、その、手間だとか感じたことはないわ」

「…うはぁ…んんっ。あ、ありがと、絵里花」

 遊歩道をなるべく自然に見えるペースで、いかにもデートを楽しむカップルの如く──間違いとも言えない──歩く。そして会話内容もなるべく仲睦まじく、同時に日常的なものを無意識に続けていたけれど。

 …最近の絵里花、本当に素直になったな…。

 肩の力を抜いて会話を続ける私に対し、絵里花はきゅっと手を握りつつ、弱くなった日差しよりもほのなか音色で私への好意を歌ってくれた。

 それは色にすると薄白色、絵里花の口からふわりふわりと生まれて、私の口内にもするりと入ってくる。すると、肺と心臓の中間くらいの位置にある部分がほわほわとした熱を帯びて、私は耐えられず排熱するように、とても間抜けにうめいてしまった。

 思わず絵里花も「今の声、なに…?」と私をちらっと見て、でもすぐに正面、『ターゲット』のほうを向く。

 あと10秒もしないうちにすれ違いそうな位置を歩くそれは、特筆すべきこともない黒のTシャツと夏用ジーンズを履いていた。ただ、防刃と思わしき紺色のベストも着用していて、その内ポケットには何らかの武器があるとも想定できる。

 もしも私たちが夏服の上にパーカーを羽織るという何の変哲もない学生でなければ、向こうも警戒してそれを取り出していたかもしれない。

「…ねえ、絵里花。その、もうちょっとしたら水着を買いにいくでしょ?」

「ええ、そうね。私もあなたも運動用の水着しかないし、さすがにクラスのみんなとプールに行くときだと心許ないでしょう?」

「私はあれでもいいけど…いや、買いに行くのがいやとかじゃなくて…その…水着を買いにいくときは、ついでに…デートとか…」

「…え?」

 視線は前に、でも時々絵里花のほうを向いて、笑いかけながら歩く。

 先ほど絵里花から分け与えられた熱が今でも胸の中を保温しているのか、彼女を見ると頬の温度が上がる。夏だから汗ばむのは当然にしても、それは外気温による上昇ではなくて、恋人とのやりとりで芽生える内側からの熱が原因だった。

 高校生になった絵里花と初めて迎える、夏休み。入学直後から恋人として隣を歩いてきたのに、むしろあの頃は絵里花ばかりが恥ずかしがっていたのに。

 今は多分、私のほうが顔を赤くしている。私のよどむお誘いに思わず絵里花はこちらを向いて、暗い赤色の瞳と目が合う。逢魔が時で薄暗く認識が難しいはずの世界であっても、絵里花の瞳は沈まない夕日のように赤く揺らめいていた。

 そんな夕日よりも頬を赤くする私は、いったい何に照れているのだろうか?

 …決まっているか。私は前よりも絵里花が好きになってしまっていて、絵里花も前より私を好きになってくれて。

 お互いを好きになるにつれて大きくなっていく愛情は、ときに猛暑日よりも熱を帯びるのだから。


「…任務完了。念のために茂みへ投げ込むわ」

「了解。アセロラ、回収班の手配を」


 絵里花の熱で熱中症になりかけていた私は、彼女の抑揚のない言葉で意識に明瞭さが戻る。

 ターゲットとすれ違う直前、絵里花は相手のほうを見ずにリフレクターガンを至近距離で発射、男はすぐさま膝をついて遊歩道に倒れ込んだ。さらに絵里花はそのまま片手で拘束モードに切り替え、ナノケーブルで相手の体を縛る。

 私が美咲さんに無線を送ると『了解です、すぐに向かいます』と返事が来て、絵里花は完全に動けなくなったターゲットをすぐへりの茂みへ投げ込み、その一連の動きは訓練時すら躊躇していた少女とは別人に見えた。

 私と絵里花も回収班が来るまではその茂みの中に身を隠し、声を潜めて会話を再開する。

「…フロレンス、すごいね。今回、私はいらなかったかも」

「そんなことないわよ…あなたがいないと不安で、もっと動きが硬くなっていたわ」

 お互い膝立ちになり、夕闇よりもさらに暗い茂みに囲まれながら、顔を寄せて声を潜めつつ話す。こしょこしょと耳に届く絵里花の声音にも揺らぎはなくて、そこに強がりも過剰な余裕もなかった。

 あるのはただ、絵里花の芯が感じられる真実。絵里花が私を騙すことなんて元々あり得なかったのだけど、それでも今は本当に不安定な揺らぎが見えなくて、私は逆に不安を煽られた。

「フロレンス、無理はしてないよね? 苦しくないよね? その、泣きたいとかは…」

「もう…ベイグルは心配しすぎよ。私、少し前にも言ったように…あなたを支えたいの。私を支えてくれる、誰よりも優しい恋人を…同じように、支えたい」

 私が思いっきり泣いてしまって以降、絵里花は強くなった。

 それまで見せていた任務への迷いは消えて、今日のような正確さで引き金を引き、エージェントとしては申し分ない働きを見せている。

 なぜそうなったのか、それは…今の絵里花の言葉がすべてを物語っていた。

(絵里花はずっと私を支えてくれていた…だけど今は前よりも強く、優しく、包み込むように…一緒にいてくれる…)

 あの出来事は私からすれば、絵里花を苦しめるだけだと思っていた。現に絵里花は苦しんだし、私一人だと彼女を救うこともできなくて、本音を言うのなら忘れて欲しいとすら考えている。

 だけどきっと、絵里花は忘れない。私がいくら平気と伝えても『円佳に背負わせた』と考え続けて、苦しんで、乗り越えて、今度は自分が背負おうとするんだろうな。

 それはとても痛ましい。だけど、それ以上に。

「…私、絵里花のこと…好きだよ…」

「…も、もうっ…まだ任務中よ…」

「あっ、ごめん…」

 どれだけ自分の胸が痛んだとしても、私の痛みばかりを思いやってくれるあなたが…本当に、大好き。

 その感情はまもなく終わる任務だけで覆い隠せるほど小さくはなくて、噛み締められなかった部分が言葉として漏れてしまった。

 それは先ほどの絵里花みたいなほわほわを生み出していたのか、彼女もまたパクパクと口を開き、一段と暗くなってきた世界へ茜色を取り戻すように、その頬へ赤色を混ぜた。

 私はエージェントにあるまじき失態を素直に謝りつつも手は勝手に伸びていって、絵里花の赤みを帯びた絵の具パレットを撫でる。そこは夏の湿度と汗が混ざり合っていて、しっとりとした触り心地、そして発熱を心配しそうになるほどの体温が宿っていた。


「…ええと、仲良しなのはいいことですが…今は任務中ですし、ここは一応公園なので…そこから先は、おうちでしていただけますと…」


 私に触れられた絵里花はふいっと顔を逸らしていたものの、その手もまた頬を撫でる私の手の甲に添えられて、お互いの色彩が赤からピンク色に変わりそうになっていたら。

 茂みへ突っ込むように顔を出してきた美咲さんに指摘されて、私たちはなんとか声だけ出さずにびくーっと立ち上がった。どうやら回収班と一緒に来てくれたらしい。

 もちろん絵里花は「へ、変なことはしようとしてないんだから!」と美咲さんに噛みついて、私は若干気まずそうな回収班の人たちに苦笑を投げかけることしかできなかった。


 *


「…あの、私、元からデートだと…思ってたから…」

「…ん? あ、あー…うん、うん…」

 事後処理を美咲さんと回収班に任せ、私たちは公園を後にする。任務を終えて住宅地を歩いているとちらほらドローンたちの姿も見えてきて、自分たちが日常…夏休みを迎えた学生という立場に戻ってこれた気がした。

 そして隣を歩く絵里花は急にそんなことを口にして、私は一瞬だけ考え込み、そして『デートへのお返事』だと理解する。だけど、それに対するさらなるお返事には窮してしまった。

 …いや、返事というよりも…確認、かな?

 絵里花は指先でそわそわと前髪をいじっていて、それが街灯に照らされてキラキラと輝く様子は、雲一つない星の瞬きみたいに美しかった。

 思えば私は幼い頃からこのハニーブロンドに目を奪われていて、研究所にいた頃は星空をじっくり眺めたこともなかったから、絵里花の髪は私にとっての一番星なのかもしれない。

 だから私は子供の頃のような無邪気さで手を伸ばしてしまい、星を掴むかのようにロープ編みされたお下げの先端を手のひらに載せた。

 普通のツインテールに比べて手のかかったそれはつややかで、光を反射するとまぶしいほどにきらめいている。そんな一番星を間近で掴むことができる私は、きっと世界で一番の幸せ者なんだろう。

「? どうしたのよ、枝毛でもあった?」

「ううん、絵里花の髪ってきれいだな…って思ってた」

「…あ、ありがとう…? いつも見てるのに、変なの」

「きれいなものってね、いくら見ても飽きないから」

「…ナンパみたいね」

 私の様子に足を止めて不思議そうに見てきた絵里花だけど、素直に褒めてしまったら首をかしげ、キザったらしい感想にため息をついたら。

 クスクス、とてもくすぐったそうに笑った。絵里花の笑い声は私も脇腹をこちょこちょとされたみたいな気分にして、同じように笑ってしまう。

 それから私はお下げに鼻を寄せてすんすんしたら「それはやめなさい!」とぺしっとほっぺたを押されて、仕方なく手を離した。絵里花の髪はほのかに甘い、とてもいい匂いがした。

 私の突然の行動にほっぺたを膨らませた絵里花だけど、手を握ったらすぐに頬を緩ませて、今度こそ帰路につく。

(ああ、これが夏休みなんだな…)

 夏の始まりを予期させるものは、たくさんあった。

 毎日のように猛暑日を知らせる天気予報。

 都会であっても鳴り響く蝉の声。

 肌にまとわりつくような湿気。

 だけど私は絵里花と手をつなぐことで、ようやく夏が来たのだと実感していた。

 お互いの汗ばんだ手のひらは夏の気温と湿度を閉じ込めたような熱が合わさっていて、だけどまったく不快じゃない。

 そしてそれが夏の風物詩だというのなら、これからも私は暑い季節を受け入れられそうだった。

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