夏休み開始早々、私たちの目的は決まった。
『今度みんなで屋内プールに行くんだけど、三浦さんと辺見さんも行こうよ!』
終業式を迎える前からクラスメイトたちに誘われていたけれど、休みが始まって早々にそうした提案が浮上し、私と絵里花は二つ返事でOKを出した。
行き先の屋内プールは徒歩だと遠いものの、車を出せば簡単にアクセスできる程度の場所にあり、こちらについては美咲さんに相談すると「監視役の本領発揮ですね」と運転を快諾してもらえた。移動中に急な任務が入っても対応できるから…という名目らしいけど、仕事での運転に比べると非常に乗り気なのが実にこの人らしい。
実際にエージェントの仕事は急に発生することもあるのだけど、少なくとも事前の予定としては組み込まれておらず、美咲さんもそれを見越してOKしてくれたのだろう。となると、私と絵里花が当日までにすべきことも決まった。
*
「平日だけど、やっぱり人も結構いるね」
「夏休みシーズンだから仕方ないわよね…ふう、水筒を持ってきておいて正解だったわ」
平日の市街地、そこは都会であっても人通りは控えめ…ではなかった。
歩道には主に10代から20代くらいの人がせわしなく行き交っていて、けれどもその表情には仕事や学業で追い詰められた緊張は見受けられず、それは私たちと同じような夏休みを謳歌する学生であることが容易に窺える。
そんな平日らしからぬ喧噪を歩くというのは見慣れたはずの都会も新鮮に映って、さほどの好奇心がない私ですら何度もキョロキョロとしてしまった。ちなみに隣を歩く絵里花はトートバッグに入れておいたトライタンボトルを取り出し、中に入っていた麦茶を飲んでいる。
なお、今日はデートということで私はライトブルーの薄手ブラウスにホワイトのクロップドパンツというファッションにしておいた。絵里花はホワイトのレースキャミソールに薄手のリネンカーディガンを重ね着しており、そこに組み合わせたロングスカートは私のトップスと同じライトブルーだった。
「ほら、あなたも飲みなさい。空調の効いた場所に行くとはいえ、脱水症状の心配はあるんだから」
「あ、えっと…うん」
そして絵里花はそうするのが当たり前のように、自分が飲んでいた麦茶を私へと差し出す。薄いグレーのボトルに入った液体がチャプチャプと揺れる様子は、私のわずかな逡巡を表しているようだった。
(…飲み物を分け合うなんて、今さらなのにな)
私と絵里花は小さな頃から一緒にいて、食べ物や飲み物を分け合うなんて当たり前にしていた。世の中には『恋人相手でも食べかけや飲みかけは耐えられない』という人もいるのだけど、私たちにそういう障壁は存在していない。
それはエージェントとして極限状況を生きるために必要であったから…というのもあったけど、私にとって絵里花はいて当たり前の存在であって、それはもう命の一部、あるいは半分くらいは占めているような感覚でもあったから、そんな相手と回し飲みするのは同じ家の蛇口をひねって水を飲むのと大差なかった。
…じゃあ、なんで私にわずかなる躊躇があったのかというと。
(…今さら『間接キス』を意識するのなんて、おかしいのかなぁ…)
受け取ったボトルの飲み口は当然ながら絵里花の唇が当たっていて、そこに触れると、いわゆる、まあ、間接キスというものになるわけで。
少し前、高校入学当初くらいの私なら意識せずにできていたことが、最近になって難易度が上がってしまったというのは…よい変化だと表現していいのだろうか。
一方で絵里花は純粋に私の脱水症状を心配してくれているようで、なかなか飲まない私に対して「どうしたの? 塩飴もいる?」なんて空気のように気遣ってくれていた。夏の都市が生み出すむせかえるような濁った空気とは全然違う、人の手が及んでいない高山の空気みたいな、果てなく清らかな絵里花の思いやり。
(…この夏のうちに、本当のキス…するのかな…)
絵里花の思いやりに私は苦笑し、あえて絵里花の唇が触れたであろう部分に口を付け、くいっと麦茶をあおる。いつも絵里花が作ってくれるそれは家で飲む味と変わらないはずなのに、今はちょっぴり甘い気がした。
そして聞いたところによると、『高校生の夏』というのは恋が進展することが多いらしく、それは私たちにとっての『ファーストキス』を迎えるきっかけになるのかもしれない。もしもその時が本当に訪れた場合、私はどんな気持ちでそれを受け入れて、あるいは、求めているのだろうか?
わからないことだけで構成された展望を振り切るように、一足先に進んだ恋の味を確かめるべく、もう一度麦茶に口づけた。絵里花は「円佳、そんなに喉が渇いていたの?」とハンカチを取り出して汗を拭ってくれて、私は「そうだね、涼しい場所に行こうか」と百貨店に足を向けた。
*
「…円佳、本当にスタイルがいいわね。水着なんてあまり着ないんでしょうけど、いくつか買っておきたくなるわ…」
「いやいや、大げさだって…こういうのは一着あれば十分でしょ?」
都市部の百貨店、そこに夏限定の特設コーナーとして水着売り場が拡充されるというのは、クリスマスにケーキ売り場が広がるのと同じくらい自然なことだった。
そんなわけで私と絵里花も売り場に向かい、まずは私の水着を選ぶことになる。二人で別行動を取って選ぶのもよさそうだけど、絵里花は「こういう機会でもないと着せ替えができないから」なんて断言し、私はおままごと用の着せ替え人形となっていた。
ちなみに現在私が着ているのはショートパンツ型のセパレート水着で、トップスはライトブルー、ボトムはグレーのシンプルな配色だ。露出を好まない私の要望に対し、絵里花が「これなら恥ずかしくないでしょう?」とおすすめしてくれた。
これはカジュアルサマーウェアとも呼ばれるもので、水着どころかファッション自体に疎い私はこのコーナーに散らばる横文字にめまいを覚えそうだった。
「うーん、これも動きやすいけど…私、やっぱり最初の水着でよかった気がする」
「そうね、あなたの要望を最優先にするならシンプルなカットのワンピースタイプがいいんでしょうけど…それだと私たちが持ってる運動用の水着と雰囲気が似ているから、こういうときくらいセパレートタイプにするのもいいと思わない?」
試着室のカーテンを開き、私は自分でも確かめるように軽く身をよじって下を向き、とても率直な感想を述べる。絵里花もそれには同意してくれたものの、やっぱりこちらのほうがお好みなようで、油断を隠せない微笑みを浮かべながら頷いていた。
そう、私が最初に自分で選んだのはシンプルスポーティーと呼ばれるワンピースタイプの水着で、これなら露出が少なく泳ぎやすいから、万が一──たとえばプールに敵が紛れ込んでいたとき──が起こっても対処しやすい…なんて思っていたのだ。
絵里花はそれを着たときも文句は言わなかったけれど、私とは比較にならないほどおしゃれさんな彼女は「せっかくの機会だから、試せるだけ試しましょう」なんて言ってきて、今は彼女が持ち込んできた水着に次々と着替えていた。
…絵里花は私のことを美人だと思っているけど、ぶっちゃけ自分では地味だと自覚しているし、こういうおしゃれな水着を着ると逆に浮いてしまうと思うんだけどな…。
「…うん、それならこれにするよ。多分だけど、これが一番露出が少なくてそこそこおしゃれだろうし」
「そう? でも決める前にもう何着か…」
「そーそー! 女の子にとって服選びは戦いだからね、安易な妥協は禁止だよ!」
私が自分の容姿に関する真実を口にすると、絵里花は「あなたは自分の価値をわかってなさ過ぎる」と説教してくるから、それならギリギリで自分が許容できそうなところで受け入れよう…なんて思っていたら。
いつの間にか絵里花の後ろに立っていた少女が妙なまでに高く、そしてハイテンションな声音で私たちに割り込む。それは私たちが知っている声で、動くたびに揺れるアッシュグレーのポニーテールも見たことがあって。
「…あ、あんたは!」
「…あれ、早乙女さん? どうしてここに?」
「んふふ、夏といえば水着、水着といえばおしゃれ! そんなおしゃれが集まるコーナーにこのあたし、莉璃亜ちゃんがいないのなんて逆に不自然じゃん?」
へらへら、けらけら。軽く弾む笑顔を振りまき、早乙女さんは私の前まで歩いてきて、じぃぃぃっとこちらの水着姿を眺めてくる。そこに嫌らしさは感じなかったけれど、一通り見終わった後に舌なめずりをする様子には、背中に冷房とは異なる冷たさが駆け抜けそうだった。
ちなみに早乙女さんはフロントノットを加えたピンクのオーバーサイズTシャツに、デニムのショートパンツというアクティブな服装をしている。ポニーテールはカジュアルなシュシュでアレンジしており、今日も今日とて女子力が高い。
「ふぅ~ん…さっすが円佳ちゃん、スタイルもセンスもイイネ! でもでもぉ、あたしだったらもうちょっと攻めたのを」
「ちょっと! 円佳にいやらしい目を向けないで!」
これ、褒められているんだろうか? いや、褒められているんだろうけど。
それでもちょっとした居心地の悪さにカーテンで体を隠そうとしていたら、これ以上の視姦は許さないとばかりに絵里花が私と早乙女さんのあいだに割って入る。踊るように揺れるツインロープの輝きに私は安心しつつ、同時に早乙女さんへ過剰な警戒を持っていたことに申し訳なさを感じるという、浮かべる表情に困る状況に陥った。
今の私は絵里花の後頭部しか見えないけれど、突き刺すような声音から牙をむいて怒っている表情がありありと浮かんで、そこでようやく表情は苦笑へと変わりつつあった。
「ちょっとちょっと、あたしがいつそんなエッチな目を向けたっていうの! こーんな清純派乙女を捕まえておいて、いくら何でもひどくない?」
「うるさいわね! あんた、前に円佳をたぶらかそうとしていたでしょ! たとえあんたが忘れていたとしても、私は絶対に忘れないわよ!」
「絵里花、大丈夫だから…私はこれにするよ。ここにはいろんなのがあるから、早乙女さんも好きなのを選んで」
「え? 円佳ちゃん、あたしの水着姿が見たいの? やーん…いけない人! でもでもぉ、円佳ちゃんなら…いいよ☆」
「あんた、人の話聞いていたの!? い、言っておくけど! 私と円佳は、今日は…!」
「あ、あはは…絵里花、落ち着いて。早乙女さんは悪い人じゃないし、一緒に選ぶくらいなら…ね?」
敵対心むき出しの絵里花は怒鳴ることをやめず、気づいたら周囲の視線が集まりつつあった。会話内容からして本気のケンカとは思われていないだろうけど、このまま続けると迷惑行為にも該当してしまうだろう。
となると、この場は一番冷静なはずの私がなんとかしないといけなかった。
早乙女さんは…まあこっちの話は聞いているかどうか微妙だけど、少なくとも敵対的じゃないし、これまでの言動から自分の容姿に自信を持っていそうだから、知り合いに偶然会えたことで『自分の水着姿も見て欲しい』とでも思っているのだろう。
となるとここで感情的に突っぱねるのは逆効果だから、私は絵里花の肩を掴んで「大丈夫だから」と繰り返し、一緒に水着選びをすべきと判断した。
…本当は、なんとなくわかっている。絵里花が怒っている理由には『円佳とのデートを邪魔された』というのも多少は含まれていて、私もデートプランが乱れたことに思うところはある。
だけど。
(…早乙女さん、悪い人じゃないだろうし。それなら軽く付き合って、気持ちよく解散するか)
すでにニコニコとしながら「うーん、どんな水着を見せちゃおうかなー!」と水着を選ぼうとしている早乙女さんを見ていると、ここでスルーしてしまえば後日もっと文句を言われそうな気がする。
それと…絶対絵里花には言えないけど。
たとえ手を握られても、今みたいにデートへ割り込まれても、あんまり不快感はない。もちろんやりすぎるようなら私も言うべきことは言うけれど、少なくとも今は…許容範囲内だ。
それなら同じエージェントとして、ちょっとだけ仲良くしてもいいだろう。もしかしたら…恋人とは違う、何かしらの『因果』があるかもだし。
絵里花も私の判断を遠巻きに察してくれたのか、じとりと睨みつつ「ほんと、お人好しなんだから…」と恨めしそうに口にした。もちろん早乙女さんは気にもとめず、早速水着を持ってきて私の隣の試着室へと駆け込んでいた。
*
「じゃじゃーん! どう? あたし、何でも似合うでしょ?」
「…おおー…」
いや、絵里花以外の女の子の水着には興味ないし。
…なんて言葉を簡単にはひねり出せなくなるくらい、早乙女さんの言葉は真実だけで彩られていた。
それはアッシュグレーの髪にマッチするライトブルーのモノキニで、大胆なカットアウトが施されていた。少しだけ露出されているウエスト部分はきゅっと引き締まり、けれどもその上、胸元はフラウンスでは隠せないほどの盛り上がりを見せていて、写真の中にしかいなかったようなモデルが飛び出してきた印象すら覚える。
つまり、まあ。
「うん、似合ってると思う。早乙女さん、スタイルいいね」
「んーふふ、その言葉が聞きたかったッ! でもでも、莉璃亜ちゃんのオフェンスはまだまだ続くよ! 次はもっとスタイルが栄えるのにしてぇ…エッチな円佳ちゃんをメロメロにしちゃうんだから☆」
「…あの、私も女なんだけど…」
私が無難かつ正直な感想を漏れ伝えると早乙女さんは大げさに笑い、豊かな膨らみをさらに強調すべく胸を張った…うわ、揺れ方すごいな…。
けれどもSNSインフルエンサー並みに承認欲求が強いのか、その褒め言葉はさらなるファッションショーの開幕を促したようで、再び試着室のカーテンは閉められる。その一連の動作はエージェントらしく素早くて、私の抗議の言葉はあっさりとシャットアウトされた。
…私、女扱いされないことが多いな…。
「…あの、円佳…」
「ん? どうしたの?」
早乙女さんが試着室でごそごそしているのをぼんやり待っていたら、同じく隣の部屋で着替えていたであろう絵里花がカーテンから顔と腕だけ出し、ちょいちょいと手招きしてくる。
実は恋人の水着姿も見てみたかった私は、何かトラブルでもあったのだろうかと無防備に近づいたら。
「わっ!?…え、絵里花?」
「しっ…騒ぐと人が集まるかもだから…」
私の腕をぐいっと引っ張り、絵里花は試着室へと招き入れる。女性二人くらいなら動けないというほどではないにせよ、それでも手狭なのは間違いなく、間近に迫った彼女の顔とその恥じらいしか見えなかった。
けれども絵里花は私の困惑なんて知ったこっちゃないのか、人差し指を立てて声を出さないように注意してくる。私は思わず口をつぐみ、鼻で呼吸を繰り返したら。
試着室の中には絵里花の匂いが充満していて、ほんの少しだけ…いや、どうってことはないけど…変な気持ちになりかけた。
「あ、あの、絵里花…これは、どういう」
「…私が見せるのは、そうするべきなのは…あなただけ、だから」
「…あ」
絵里花は足音すら立てずに一歩後ろに下がり、私へ水着姿を披露する。
それは、モノトーンでドット柄のどこか大人っぽいビキニだった。肩には可愛らしいリボンがついていたけれど、その配色もあってどちらかといえば洗練された雰囲気が漂っている。
ボトムスはスカート風のデザインで、やや控えめな露出にも落ち着きがある。実は「早乙女さんに対抗心を燃やして派手なデザインにしないだろうか…」と不安だったけれど、それは杞憂だった。
可愛い。でも過剰な露出をしないのが絵里花の上品で細身な体型にマッチしていて、私の安心感にも配慮されていた。
私は、そう。この子の、こういうところが。
「…ど、どう? あの、円佳が好きそうなの…選んだつもり、だけど」
「うん、すごく似合ってる。可愛いよ、絵里花」
「…あいつよりも?」
「それは、もちろん」
じっと私に感想を求めていた目は、心からの賞賛にふいっと逸れてしまった。それでも隣にいる早乙女さんへの対抗心は燃えさかっているのか、そんなわかりきっていることを聞いてきて。
早乙女さんには悪いけど、やっぱり私は誰よりも、この人が。
「…あれぇ!? 円佳ちゃんいなくなってる!? もぉぉぉ、今にもナンパされそうなカワイイあたしを放っておくなんてひどすぎるよー ! 迷子センターに駆け込んじゃうんだから!」
自分がどこにいるのか忘れて絵里花を抱き寄せようとしたら、すぐ隣でカーテンの開く音、そして明後日の方向に行動力を発揮されそうなのが聞こえてきて。
私は思わず「ここにいるから!」と叫ぶ羽目になった。もちろんその直後には「なんでぇ!? もしかして『不純』しようとしてた!?」なんて人聞きの悪いことを突っ込まれた…。