「くそっ、そう簡単に捕まるか…!」
かつては病院だったことがわかる廃墟の中で、私は逃げ回る敵を追いかけていた。
その広さは約3500㎡、塗装が所々剥がれた外観、周辺には朽ちた看板やさび付いた車両などが配置されていて、なるほど、たしかに反社会勢力などが潜むには『らしい』場所だった。
正面玄関には病院名が書かれていたと思わしきかすれた看板が掲げられていて、かつては多くの人を治療してきた施設は今や命の息吹からはほど遠い雰囲気に包まれていた。そんな空気が地上二階、地下二階に至るまで広がっているのだから、普通の人はまず近づかないだろう。
ちなみに現在私がいるのは一階、受付フロアを抜けて待合室へ到達していた。逃げ回る男性は普段から訓練を欠かしていないのか、直線上のスピードであれば私に劣っていない。けれど、多数の椅子が設置された待合室をハードル走のように動くとになると途端に体捌きが精彩を欠き、障害物のある場所なら都市部に紛れて活動する私たちに一日の長があるようだった。
「このっ、この!」
このままでは追いつかれると判断したのか、椅子に身を隠すようにしてしゃがみ込んだかと思ったら、手に持っていた拳銃…普段私が使っているリフレクターガンに似た形状の銃を撃ってきた。
軽めの発射音が聞こえる直前、私も反射的にしゃがみ込んで回避する。それから姿勢を低くしたまま椅子の合間を縫うように移動を続け、銃声が止んだら立ち上がって椅子を踏み台に飛び越え、空中から敵に向かって引き金を引いた。
「あっ!…お見事、せめて地下一階まで逃げられたらと思ったが…三浦さん、衰えていないどころか前よりも強くなったみたいですね」
「いえ、まだまだです…その、あまり自慢できたことじゃないですけど、模擬戦じゃなければあんなに大胆な動きをするかどうかは微妙なので」
もしもこれがリフレクターガンであれば、今頃相手は声を発する間もなく倒れていただろう。しかしこの男性…研究所の警備員が演じる『模擬戦の敵役』が相手で、しかも私の装備が『シグナルガン』であれば、身体に異常を来すこともなかった。
シグナルガンは外観と操作性こそリフレクターガンと一致しているものの、発射されるのは単なる光学信号、相手が着用しているベストにヒットするとセンサーが光を検出し、ブザーとLEDが作動して命中を知らせてくれた。
光線はリフレクターガンと同じ軌道で進むことから、これを命中させられるのなら本番においても十分な精度を維持できると言える。さらに施設全域には多数の隠しカメラが設置されているため、命中した位置やタイミングを記録して戦術評価も行われていた。
「そうですね、若干ハイリスクな動きでしたが…精度もスピードも申し分ないから、今回の評価もトップクラスじゃないですか? なんにせよ、あなたたちなら再訓練も不要でしょうね…ではこれで」
「はい、ありがとうございました」
自分で言うのもなんだけど、私はどちらかといえば臆病だろう。本番は危険度が異なるとはいえ、それでも普段は不意打ちの成功を最優先に考えているし、撃ち合いが発生すれば美咲さんの援護を当てにするだろうし、それがないのならより慎重にタイミングを計っていたと思う。
今回のように相手がペイント弾だとわかっていたらどうしても手早く終わらせたいと考え、さっきのような跳躍や空中からの射撃を狙ってしまうわけだ…モニターしている人間に口うるさいのがいた場合、あとでネチネチと文句をつけられるかもしれない。
けれども敵役の男性はとくに文句をつけることもなく、穏やかに私を賞賛してから次の準備へと戻っていった。研究所には多数の警備員がいるとは聞いていたけれど、こういう仕事もあるとしたら大変だなぁ…なんて思いつつ、私は病院の外へと出ていく。
「円佳、お疲れ様…やっぱりあなたはすごいわね。私、一生追いつける気がしないわ…」
「ありがとう、絵里花…そんなことないよ、絵里花も今回は上位の成績だろうし。私は模擬戦だと最短を狙うっていうか、結構ものぐさなやり方で戦っているから…」
「それで成功させるのも大概じゃないかしら…」
病院の正面入り口を抜けると複数のタープテントが設置され、その下では研究者やエージェントたちが待機していた。
そのうちの一つ、絵里花がいるテントまで移動したらすぐに彼女は駆け寄ってきてくれて、とても自然な動作でスポーツドリンクを渡してくれる。この瞬間、自分の体を包む緊張も急速にほどけていったのか、短期決戦で終えられたとはいえ若干の疲労を感じた。
それも絵里花の気遣いですぐに中和され、私は恋人の隣に座りながら反省点──ただし次回も同じことはするかもしれない──を伝える。そんな私とは真逆に絵里花は本番さながらの堅実な立ち回りをしていて、模範生という意味ではよっぽど彼女のほうが好成績だと感じた。
「…にしても、敷地内にこんなものもあるなんてね。元々あった廃病院を使うんじゃなくて、それを再現した訓練施設…いくら何度か使ったことがあるとはいえ、未だに現実味がないわ」
「看板や車とかもわざわざ朽ちたものを置いてるしね…おかげで遮蔽物とかにリアリティがあるけど、研究所の予算や技術力ってどうなってるんだろう」
テントの下で隣り合って座り、さりげなくお互いの手の甲を撫で合いつつ、私たちは周辺を見渡しながら休んでいた。
この一見するとうち捨てられた廃病院は研究所の敷地内にあるように、わざわざエージェントの訓練用に一から作ったものだった。
美咲さんに聞いたところ、名目としては『カメラやセンサーだけでなく床や壁にクッション材を仕込む以上は既存の建築物は流用できない』との判断らしい。おかげで転んだとしても怪我の心配も少ないけど、努力の方向音痴感もすごかった。
…でも、絵里花が安全に訓練できるように配慮してくれたと考えたら、研究所に対して多少は忠誠心を抱きたくなるのが不思議だ。
「んーふふ、莉璃亜ちゃんの活躍は見てくれたかな? 今回も円佳ちゃんとほぼ互角、今日集まったエージェントの中でもトップなのは間違いないね!」
「…あ、早乙女さんもお疲れ様。でもごめん、考え事をしてたからモニターを見てなかった…」
「なにそれ!? いくら絵里花ちゃんと一緒とはいえ、あたしを見ずにいちゃついてたのはトサカに来たよ!!」
「うるさいわね…いちゃついていたとかじゃなくて、いつも通り一緒にいただけよ」
絵里花の隣で考え事をしていると、どうしてもほかのことには目が行かなくなるらしい。テント内に設置されたモニターを見るとすでに訓練終了の様相となっていて、それを終えたと思わしき早乙女さんがすぐそばに来るまで気づけなかった。
そしてつい私が口を滑らせるとこれまたいつも通り、わざとらしく怒りを感じさせない声音で苦情を伝えてきた。早乙女さんはいつも高くて可愛い声を出しているけれど、怒ったときはどんな音色となるのかが気になった…もちろんわざと怒らせるつもりはないのだけど。
「ふーーーーーん…いつも一緒、ねえ? ねえねえ円佳ちゃん、円佳ちゃんから見てあたしと絵里花ちゃん、どっちが優秀? 成績表とかじゃなくて、円佳ちゃんの目で…『いつも一緒にいて頼りたくなる』っていうかぁ?」
「…なにが言いたいのよ。あんたの成績が優秀なのは認めるけれど、円佳のサポートに関しては誰にも負けないわよ。この子のためなら命だって喜んで投げ捨てられるわ」
夏の蒸し暑さが残る曇り空、その下にある廃病院を前に、ピリリとした空気が広がりつつあった。高度に再現されすぎた廃墟は不気味な影を私たちに落とし、背筋の温度が下がったように感じる。
いつも朗らかなはずの早乙女さんは私が見ていなかったことがそんなにも不服だったのか、笑顔こそそのままに、言葉は新品のハサミのような鋭さを隠しているみたいだった。
そしてそんな刃物を突きつけられた絵里花は負けないほどの鋭さを持つ視線を投げつけ、私の手を指も絡めるようにして握りつつ、手榴弾のように命を放り投げる覚悟を示した。
「いや、それはもちろん絵里花だけど…早乙女さんも優秀だし、広域担当だからずっと私と一緒とはいかないでしょ? だから競い合う必要なんて」
「あるよ。何度でも言うけど、あたしは円佳ちゃんと組みたいって気持ちが今もあるからね? 絵里花ちゃんも気に入っているけどさぁ、同じ学校に通ってて協力もしているのに、あたしのほうはまったく見ないのは…面白くないでしょ」
「言ってくれるわね。円佳はね、あんたのことだってちゃんと心配しているわよ。それに私のほうを見てくれているのは、私が…円佳の因果の相手だからよ。そこを引き裂くことは、エージェントであるあんたならできないのを知っているでしょう?」
「あたしのほうが強くても?」
「円佳の隣にいられるかどうかとは直接関係ないわ」
「ふぅん、そうやって逃げるの?」
「私がいつ逃げたっていうのよ! 円佳の隣にいるためなら、どんなことだってしてやるわよ!」
「絵里花、落ち着いて…」
この流れ、まずいな…私は学校での言い合いとは異なる、より戦いが身近な空気に危機感を覚えていた。
学校であれば人目もあるため、つかみ合いのケンカにまでは発展しなかった…体育倉庫に閉じ込められたときは危なかったけど。
今はお互いがエージェントであることを隠さなくていいため、二人とも剣呑な雰囲気を表に出している。万が一どちらかが手を出せば警備員などが止めるだろうけど、そこまで発展すると絵里花が拘束されるかもしれなかった。
そして、そうなった場合…私も絵里花を救うために暴れて、全員で仲良く『矯正』されるかもしれない。
「それならさぁ、次の『対エージェント模擬戦』で勝負しようよ! んで、あたしが勝ったら…円佳ちゃんとデートさせてね! 一度でもあたしとデートしたら、円佳ちゃんはもう目が離せなくなるよ!」
「残念だけど、それはさせないわ…私が勝ったら『二度と円佳に色目を使わない』、これが条件よ。なら勝負に応じてやるわ」
「決まりだね! 円佳ちゃん、ジャッジよろしくぅ!」
「いや、私の意思は…?」
幸い…とは言えないけれど、次の訓練がうってつけなこともあり、本気の殺し合いには発展しなかった。本当に、幸いでもなんでもないけど。
今回の訓練はまず敵に扮した警備員の拘束、それが終わったらエージェント同士で『エージェントと同等の力を持つ敵との模擬戦』をすることになっていた。
これは言うまでもなく先日の一件、学生に扮した精鋭兵との突発戦が起こったからで、敵も私たちのような存在を擁しているとの判断からだけど…この場に絵里花と早乙女さんがいたことで、それは予想外の利用をされてしまう。
もちろん私は二人が争うことなんて望んでいなくて、ましてや…絵里花が負けてしまえば、私は恋人以外とデートすることになってしまうのだ。けれども私の意思なんて知ったこっちゃないと言わんばかりに、二人の視線は正面からぶつかり合って火花を散らす。
(…口には出せないけど。絵里花、ちゃんと勝ってよ…私、あなた以外とのデートなんてしたくないんだから)
早乙女さんのことは嫌いじゃない。なんなら、最近になって友情は深まったとも言える。
けれども私にとってのデートは『最愛の人と愛情を確かめる行為』であって、友達と気軽に出かけることじゃない。
先ほどまでは二人を比べることを拒んでいたはずの私の心は、やはり絵里花が勝利することを望んでいた。