早乙女さんが配置されたということは、研究所は何らかのインシデントが起こると想定したのだろうけど…彼女が来てからの学園生活は平和なものだった。
学校側は今回の件については完全に隠蔽しているものの、美咲さん曰く『全校生徒の背景情報の洗い出しに全力で協力した』とのことで、その結果としては怪しい生徒はいなかったらしい。
もちろん学校外では何度か任務が発生したものの、それらも強力な武器を有した敵と戦ったわけではなく、入念な準備と偽装を重ねてスムーズに終えており、少なくとも私と絵里花の生活を脅かすほどのことはなかった。
…ただ、早乙女さんに引っ付かれた日の翌日、絵里花はちょっぴりよそよそしくなっていて、私を見ては気まずそうに目を逸らし、朝の訪れとしては重々しいため息を何度かついていた。
私はその様子に見え覚えがあった。それは私が彼女と初めてキスをした翌日以降、その拙速さゆえにちょっとだけすれ違い…ケンカとかじゃなくて、大切な相手だからこそ伝えられないことに悩むような、そういう人間らしい些細で複雑、からくり箱に感情を押し込めてしまったがゆえの状況になっていたときのものだ。
私たちは恋人同士で両親もいないから、そういう背景も含めると『お互いこそが最大の理解者』と表現できる。私はそうした関係が好きだけれど、そんな唯一の存在が相手でも言葉にして伝えるのは難しい、悩ましいとしか言えない状況に陥ることもあった。
それに…今の私たちなら、本当に伝えないといけないことはちゃんと口にできる気がする。先日の嫉妬──そして匂いを嗅がれたこと──についても昔の絵里花なら口にできずに抱え込んでいたかもしれないけれど、今回は早々にそういう気持ち…本人からすると醜いとも言える感情を吐き出せたのだから、現在抱えている絵里花の悩みも必要であれば話してくれるだろう…それはそれとして、汗をかいたまま匂いを嗅がれるのは恥ずかしいので控えてもらいたいけど。
「んー…放課後ってさ、なんだか楽しいよね! なーんていうんだろ、学校がないときの夕方と学校終わりの夕方ってさ、同じ時間でも貴重さが違うっていうか…」
「ああ、なんとなくわかるかも…朝からずっと自由時間のほうが嬉しいような気がするけど、放課後の場合は解放感があると思うから、多分それじゃないかな?」
本日も学校内は平和、授業もつつがなくこなし、そして夕方を迎えていた。私と絵里花、早乙女さんは一緒に下校すべく下駄箱へと向かっていて、背伸びをする早乙女さんに同意しつつ、言葉少なな絵里花の様子を窺っていた。
さすがに時間が経過したこともあり、絵里花の罪悪感は弱くなった日の光のように薄れて見える。開放的な校舎内では外からの光もふんだんに取り入れられているけれど、夏のピークも過ぎた夕日は目をしかめるほどではなく、今の絵里花みたいに物憂げながらも柔らかさを含んでいた。
絵里花のこういう横顔、好きだな…そんな当たり前のことを今日も確認しつつ、私はなるべく先日の一件を意識しないよう、早乙女さんとの雑談に応じる。絵里花相手に比べると、どうしてもこういう駆け引きや緊張感を覚えてしまっていた。
「にしても、私たちと一緒でよかったの? 早乙女さん、毎日のようにみんなから誘われているのに」
「んふっ、円佳ちゃんったら嫉妬してくれてるの? 大丈夫大丈夫、みんなはあたしと二人が昔からの仲良しだって知っているし、普段はみんなとも仲良くしてるし、アイドルは特定の誰かだけに縛られるわけにはいかないのだ~!」
「…なら、私の円佳を奪おうとするんじゃないわよ…」
早乙女さんとは毎日放課後を一緒に過ごすわけじゃなくて、すでにクラスの大半と友達になっている彼女はいろんな相手と遊びに行くことが多く、交友関係がお世辞にも広いとは言えない私や絵里花とは真逆だった。
エージェント的には親しい相手が多いと周囲の話とかも聞けそうだけど、同時に機密の観点から考えるとリスクも増えそうで、私たちのスタンスとどちらが正しいのかは判断が難しい。どちらも文句を言われていないあたり、どっちでもいいのかもしれない。
そして今日は私たちと一緒にいたいとのことで、下校開始と同時に並んで歩いていた。絵里花は相変わらず警戒しているけれど、先日私の匂いをこれでもかと嗅いだことで少しは安心してくれたのか、出会い頭に息の根を止めようとするような動きはない…大げさに聞こえるかもしれないけれど、絵里花は私のことになるとちょっと──本当にちょっとだけだ──ムキになってしまうことがあるので、エージェントとしての技術を用いてでも仕返しをしそうな不安があったのだ。
…私、愛されてるなぁ。いや、これは現実逃避とかじゃなくて。
「それで、今日はどこに行く? 放課後といえば寄り道、素敵な場所に連れて行ってもらいたいな~」
「素敵なところか…それじゃあ、結衣さんのお店…ルミエラはどうかな? 洋菓子店なんだけどイートインもあるし、ケーキがすごくおいしいし、気に入ってもらえると思うけど」
こういう場合、早乙女さんが率先して行きたいところを伝えてくるような気がしたけど…下駄箱から靴を取り出しつつねだるように聞かれては、私から提案するしかなかった。やや首をかしげつつ甘ったるい声で訪ねてくる様子はあざといけれど、早乙女さんレベルの美少女だと絵になるのが不思議だ。
けれどそれを長々と眺めていると隣にいる絵里花からの視線が鋭さを増すので、私は軽く考え込むふりをして目を逸らす。失礼には見えないだろうけど、今は自分の一挙手一投足が誰かに見られている気がして、放課後の解放感をのんきに噛み締めることはできなかった。
…少し違うかもだけど、こういうのが中間管理職の板挟みってやつなのかもしれない。
「おおっ、いいじゃん! あたし、結衣ちゃんとも会ってみたかったんだよね~。二人の話を聞いていると、すごくいい人っぽいし!」
「っぽいんじゃなくて、結衣さんはいい人よ。先に言っておくけど、失礼な態度で接したらただじゃ済まさないわよ。美咲相手と同じだとは思わないことね」
「絵里花、せっかくの放課後なんだしあまりすごまないで…じゃあ、決まりだね。テイクアウトもできるし、早乙女さんもこの機会にちょくちょく利用してよ。そうすれば結衣さんも喜ぶから」
「おけおけ☆ せっかくだし、ケーキを食べながら結衣ちゃんともお話ししたいな~」
「…本当にわかってるのかしら、こいつ…」
下駄箱から靴を取り出し、履き替える。任務の際も履いているためか、手入れはしていても若干のくたびれを感じた。それをただの摩耗と捉えるべきか、足に馴染んだと解釈すべきか、板挟みに少しだけ疲れた私は些細なことを考えつつ現実逃避をしていたら。
「…おっと」
エージェントにあるまじきミス、履き替えの際に少しだけ体勢を崩しかけた。もちろん踏ん張れないわけじゃなくて、心配してもらうほどの状態じゃないのだけど。
「円佳、大丈夫?」
「円佳ちゃん、大丈夫~?」
絵里花と早乙女さんはほぼ同じタイミングで私の腕を取り、支えてくれた。絵里花は右腕を、早乙女さんは左腕を、それぞれが素早く掴んでくる。
どちらも力加減に無駄はないけれど、私を思いやる気持ちもしっかりと感じられて、ようやく「板挟みなんて考えちゃダメだな」と反省できた。
「あはは、あたしたち気が合うね! 絵里花ちゃん、お店までは三人で腕組みしない? 円佳ちゃん、今なら文字通りの『両手に花』ができちゃうよ~?」
「冗談はやめて。円佳が私以外と腕組みなんてしてたら因果律システムに疑いを持たれるでしょうが…だから、私とだけ組みましょう?」
絵里花と早乙女さんは一瞬だけ目をぱちくりとして、やがて絵里花は苦々しい顔に、早乙女さんは笑顔になる。
二人のそんな顔に挟まれた私は両手に花が嬉しいのか、あるいはこの子たちの優しさに心が緩んだのか、わからないけど。
二人に対して自然と笑い返し、気負わずに「腕組みは二人きりのときにね?」と伝えて歩き出せた。
*
「君が早乙女さん? 初めまして、庚結衣です…美咲から聞いていたけど、本当に美人だね」
「どもども、初めまして! あたしの名前は早乙女莉璃亜、気軽に『莉璃亜ちゃん』って呼んでくれていいよん☆…ちょ、絵里花ちゃんなんで関節を極めようとしたの!?」
「黙りなさい! 結衣さんには失礼がないように教えたのに、ついて早々こいつは…!」
「絵里花ちゃん、私は気にしてないから…それじゃあ莉璃亜ちゃんって呼ばせてもらうね?」
ルミエラに到着して早々、早乙女さんはレジを担当していた結衣さんへ親しげに声をかけ、予想通りのなれなれしさ…もとい、フレンドリーさで打ち解けようとしたら、絵里花が黙ってその腕をひねりあげようとした。
早乙女さんはそれをするりと回避しつつ抗議し、騒がしくなる前に注意しようと思っていたら結衣さんがやんわりと制してくれた…うん、やっぱり結衣さんがいるときはこういう場合の負担が減って助かるな…。
「知ってるかもだけど、私はここでパティシエとして働いてるよ。今日担当したのはムースシフォンケーキ、季節のフルーツタルト、ダブルクリームシューと…」
「じゃあお近づきの印に結衣ちゃんが作ったの全部ちょうだい! どれもこれもおいしそうだから諦めきれなくてぇ…」
「そんなにたくさん買っても食べれないから逆に失礼でしょうが! 結衣さん、こいつはアホだから真に受けないでください!」
「ひっどーい! 女の子は甘いものは別腹、ちょっと食べ過ぎても太らないのに! それとも絵里花ちゃんは結衣ちゃんの作ったケーキが食べられないのかな~? んふふ、絵里花ちゃんって円佳ちゃんに対してだけじゃなくて、甘いものにも雑魚雑魚なのかにゃ~?」
「じょ、上等じゃない! 結衣さん、私にも結衣さんが作ったのを全部」
「二人とも、いい加減にしなって…結衣さん、全員に今日のおすすめのケーキとドリンクのセット、飲み物は三つともカフェラテでお願いします…」
「あはは、かしこまりました。用意が終わったら持っていくから、席でゆっくりしててね」
もはや定例となった二人の売り言葉と買い言葉にも結衣さんは優しい笑顔を浮かべ、私の呆れ混じりのオーダーを丁寧に受け取ってくれる。こうしてみると結衣さんはお菓子作りだけじゃなくて、接客面においても優秀なのがよく伝わってきた。
…二人も結衣さんと同い年になる頃には、あんなふうに落ち着けるのだろうか。未来のことなんてわからないけど、難しそうだな…。
そう思ってしまうくらいに結衣さんはできすぎた女性で、因果がないからこそ変な人間に狙われていたかもしれないと思ったら、美咲さんと結ばれてくれて本当によかった。
「お待たせしました…私も休憩をもらったから、一緒していいかな?」
「もち! あたし、結衣ちゃんともお話ししたかったんだよね~…おおっ、このシフォンケーキおいしそうだね!」
席について程なく、私服に着替えた結衣さんがケーキとドリンクが載ったトレーを持ってきてくれる。結衣さんは遠慮がちに尋ねてきたけれど、私としてはこの人がいてくれるほうがツッコミやらなんやらの負担が減るのは明白だったので、全力で頷いておく。
無論、早乙女さんは誰よりも嬉しそうに受け入れていた。私への言動や絵里花との関係については言いたいことも多いけれど、こういう気持ちのいい一面については素直に「いいな」と思えた。
「わぁぁぁ、おいしー! 結衣ちゃんの作ったケーキ、五つ星を狙えちゃいそうだね☆」
「ふふ、褒めすぎだって…でも、ありがとう。このシフォンケーキは生地をココア風味に、ムースクリームをホワイトチョコ風味にしたのがこだわりかな。オーナーのアドバイスを参考にしたんだけど、私も勉強になったよ」
「…本当だわ。シフォンとムースが味のコントラストを演出していて、濃厚な甘さとほろ苦さで全然飽きない…これ、冗談抜きでもう一つ欲しくなる…」
「だね…普通のシフォンケーキもいいけど、こっちも捨てがたいね。コーヒーともすごく合う」
「ほら、あたしの言った通りじゃん? 結衣ちゃんのケーキなら全部食べられたって~」
「そ、そうね…って、誤魔化されないから!」
そうして私たちはまず一口、結衣さんが担当したおすすめケーキを食べる。するとその味は…予想通りではあるんだけど、同時にそれを超えているおいしさだった。
クリーム部分の濃縮された甘さに味覚が踊り始めたかと思ったら、シフォンケーキの香り高さがすぐさまお色直しをする。ムースにはほどよいコシがあり、おそらくはゼラチンも混ぜているんだと予測した。
全体として手間がかかっていることがわかり、改めて結衣さんのお菓子作りにかける情熱に敬服する。でも本人はオーナーのおかげだと謙遜していて、まだまだ向上心を覗かせていた。
この人にそこまで尊敬されるオーナーはどんな人なんだろう、なんて思っていたら早乙女さんは絵里花を茶化し、彼女はそれに乗りかけてすぐに否定する。不覚にもそのやりとりに私は声を出して笑ってしまい、結衣さんもそれを見守るようにクスクスと笑みをこぼしていた。
「そういえばさぁ、絵里花ちゃんも料理が上手なんだよね? じゃあさ、今度三人で集まって全員でお菓子作りをしてみない? で、結衣ちゃんにおいしいケーキのお礼として、あたしたちの愛のこもったケーキをお返ししちゃおうってわけ!」
「…あんたのことは嫌いだけど、そのアイディアは悪くないわね。結衣さんには絶対勝てないけど、お礼はしたいもの。あんたのことは嫌いだけど」
「あたしのことが嫌いって二回も言ったけどそれいらないよね!?」
「ほらほら二人とも、ケンカしないの。でも、そっか…ふふふ、お菓子作りに誘えるくらいもう仲良くなれたんだね。絵里花ちゃんの友達が増えるのって私たちも嬉しくなるよね、円佳ちゃん?」
「あはは、それはそうですね」
「友達じゃないです!」
多分絵里花は本気で友達とは思っていない…なんなら嫌いという言葉も本音かもしれないけれど、今はどうしてだかそこに刺々しさは感じられなくて、クラスメイト同士のよくあるじゃれ合いにすら見えてしまった。
それは間違いなく結衣さんとケーキのおかげなんだけど、同時に…なにを言われても平然と笑い飛ばし、深刻に捉えたり本気で怒ったりはしない早乙女さんのキャラクターも関係しているのだろう。
(…絵里花、本当に早乙女さんと友達になってくれないかな)
渡辺さんという友人を失ってからというものの、絵里花は二人で出かけるような相手を作ることはなくなっていて、クラスメイトたちとは以前よりも打ち解けているように見えても、やっぱり心のどこかでおびえているんだと思う。
そんな中、早乙女さんという良くも悪くも本気の言葉をぶつけられる、それでいてエージェントという『敵対する可能性が極めて低い相手』であれば、友人としてはとても貴重な存在に思えた。
絵里花がそれを本当に望んでくれるのか、そして早乙女さんも本当に『友達』でいてくれるのかどうか、不確定要素が多すぎるのだけど。
(…そして、私も。今みたいに楽しく過ごせるのなら)
早乙女さんと友達になりたいな。
そんな願いを切り裂くように、早乙女さんの端末から着信を知らせる音が鳴った。
そのやや特殊なパターンを、私と絵里花は知っていた。
「……あらら~。ごめんね三人とも、予約してた限定アクセサリーが入荷したみたい! 取り置き期間が短いから、今日は失礼するね☆」
「そうなんだ? また今度、ゆっくり話そうね」
「…うん、気をつけて」
「…ほら、口にクリームついてるわよ。これで拭いてから行きなさい」
早乙女さんは私たちよりも優秀なのか、端末をちらっと確認したかと思ったら先ほどと変わらず人懐こそうに、けれども申し訳なさそうに舌を出して笑いつつ席を立つ。もちろんケーキとコーヒーはすでに平らげていて、結衣さんもその動きに不自然さは感じていないようだった。
私たちであれば露骨に表情を変えていたかもしれないし、なんなら今も私は少し固い声を出してしまったかもしれない。けれど、ナプキンを渡す絵里花の姿に自然と顔が緩んで、早乙女さんもまた笑顔でそれを受け取っていた。
「じゃあね、みんな! 円佳ちゃん、絵里花ちゃん、明日も学校でよろしくね~♪」
早乙女さんは広域バックアップ担当で、必然的に難易度の高い任務へ割り当てられやすい。それは知っているし、これまでも無事に乗り越えてきたのだけど。
(…どうか、無事にまた会えますように)
彼女の明るさに友情を感じていた私はいささかセンチメンタルになったのか、そんなことを願っていた。
結衣さんも笑顔で見送り、その背中が見えなくなってから「明るくていい子だね」なんて笑ってくれて、私と絵里花は顔を見合わせて苦笑した。