元々、円佳の匂いは好きだった。いいや、大好きだった。
好きな人の匂いを好きになるなんてあまりにも当然で、その相手が円佳という私にとって完全無欠の恋人なのだから、その匂いを不快に思う可能性は万に一つもなかったのだろうけど。
だけど今日、知ってしまった。円佳の匂いは心地いいだけじゃなくて、私を…おかしくする。でなければ、こんな行動には至らなかっただろうから。
「……あった。円佳の、体操服……」
お互いが入浴を終え、円佳もすっかり寝入ったはずの深夜。私はエージェントとしての訓練で培った『音を立てない移動方法』を駆使しつつ、脱衣所へと訪れていた。
そこに置かれた洗濯かごには私たちが脱いだ衣類が入っていて、そして今日は体育もあったことから汗を吸った体操服もあったわけで。
私はそれをごそごそと取り出し、まずはまじまじと見つめた。デザインは言うまでもなくシンプルな運動向けのシャツで、もちろん私も同じものを使っている。円佳と私は体格も似ていることから、サイズにも違いはないはずだ。
けれども少し顔を近づけてみると円佳のものだとすぐにわかるくらい、その匂いは…リビングで必死に嗅いだものと同じ、最愛の人の香りだった。
「……ぁ……」
まだまだ夏だと言えるくらいの暑い季節ということもあって、体育で着用された体操服は汗を吸い、そして完全に乾ききっているわけでもない。どこかしっとりとした質感を伴った衣類に顔を埋めた結果、私は腰を抜かしたようにへたり込んだ。
声にすらならない吐息が、夜の脱衣所に小さく浮かんで消えた。いくら円佳がエージェントであっても聞き取れないようなボリュームと距離であれば不安にならなくていいのに、私は口を押さえるようにもっと強く顔を埋めた。
するとうなじのあたりがじんじんと熱を訴えるように痺れ、眠気は吹き飛んでしまったというのに、意識がぼんやりと夢を漂うように不確かさを帯びる。やがて視界もシャボン玉を通して見るように柔らかく歪み、それが弾けると今度は胸の中まで熱を発していた。
(ああ…なんで…なんで、こんなに…いい匂い、なの…?)
体操服の胸のあたりに顔を埋めて、私は思いっきり息を吸う。すると肺の中に湿気を伴った円佳の匂いが飛び込んできて、それを吐き出すことを惜しむようにゆっくりと息を吐く。こんなとき、『人間は呼吸を止めると死ぬ』という当たり前の摂理がとても邪魔に思えた。
そうだ、円佳のこの匂いも…全部、私のもの。それを外に出すなんて本来は許されないのに、人間であるがゆえに妥協しないといけない自分の体が恨めしかった。
「…す、き…まどかぁ…」
呼吸によって彼女の匂いを外に出してしまう刹那、私は円佳の名前を呼ぶ。私たちは恋人同士で間違いなく同じ気持ち…お互いが好き合っているという証拠もある。
それなのにこんなことをしながら愛を囁くというのは、なんとも惨めに思えた。まるで『好きな相手がいるのに気持ちを伝えられず代替行為で満足しようとしている』ようにも見えて、せっかく気持ちが通じ合っているのになんとも無駄なことのように思えた。
そしてもしも円佳がこの光景を見たら、どう思うだろうか? 自分の脱いだ服、それも汗を吸った体操服に対してこんな狼藉を働いているなんて知ったら、今度こそ恋人の座を失ってしまうかもしれない。最悪の場合、その座を…あの女に、奪われるかもしれないのに。
だけど私は呼吸を止めることができなくて、それどころか『円佳にバレたらどうしよう』なんていうスリルすら体を熱くしているのに気づいてしまいそうだった。
(ち、違う…私は、おかしくなんて、ない…円佳が、円佳が…)
悪い。
その結論に至る前になんとか思考は止まってくれたけど、それでも責任転嫁のようなことを考えかけていた自分がどこまでも浅ましい女のように思えた。もちろん円佳は悪くない。
だけど、いくら優しいとはいえ…私という恋人がいるのに、早乙女に匂いを嗅がれていただなんて。この前の捕縛を見る限り、早乙女の身体能力は同年代のエージェントでもトップクラスなのだろうけど、円佳ほどの実力があれば多少のダメージを与えてでも脱することはできた。
わかっている。いくら同意のない行動とはいえ、円佳がギリギリで友人と呼べそうな相手に危害を加えることなんてできるはずもなく、責めるべきはそんな優しさにつけ込んだ早乙女なのだろう。
だけど私は『これから先の人生で私以外の相手とは一切触れ合わないで欲しい』とでも考えているのか、円佳には体術を使ってでも抵抗をして欲しかった。その結果として何らかの罪を背負うことになったのなら、私が肩代わりしたっていい。
(…それに、円佳が、いい匂いすぎる、から…)
そして責任転嫁の理由は、もう一つあった。
それは…円佳があまりにも、いい匂いすぎること。
この匂いを表現するためのより適切で詳細な言葉は、おそらく地球上に存在しない。我が国の複雑な言語を網羅し、今や百科事典の立場を奪ったAIですら、きっとこの匂いを正確に表すことはできないだろう。
甘い? それはそうだろうけど、どんなお菓子の後味でもここまで私を夢中にさせることはない。
心地いい? そんなのは大昔から理解していて、今も抱きしめられると頭が円佳でいっぱいになるけど、ここまで中毒性のある匂いが心地いいだけで表現できているとは思えない。
癖になる? その表現だとどこか体に悪そうで、だけど円佳が有害だなんて認められるわけがないから、これも適切だとは言えなかった。癖にはなるけど。
ゆえに円佳の体臭は『いい匂い』としか言えなくて、だから早乙女なんかにも狙われて、そして…私を『こんなの』にしてしまったんだ。
円佳に直接的な非があるわけじゃないけど、私に与えた甚大な影響を考慮すると、どうしても自分の責任の一部を押しつけたくなってしまうのだろう。
「…あ、『ここ』…すごく、い、いい…嘘でしょ…」
…こうした行為に走っている時点で、認めざるを得ないのかもしれないけれど。私は、変態なのかもしれない。
体操服も場所によって少し異なる匂いがあって、胸のあたりはとりわけ甘ったるいような気がしたのだけど。
今私が嗅いでしまったのは、袖…それも、『腋』のあたり。そこは言うまでもなく体臭の強い、有り体に表現するのなら『臭い』と感じるのが普通なのだろう。
だけど私は、そこに鼻先を埋めて。思いっきり吸って。
円佳なのだから臭いのはあり得なかったとしても、それでも私が最初に感じたのは…間違いなく『好き』という気持ちだった。
濃いのは間違いない。汗だってたくさんかいているはずだ。けれどそれが悪臭につながるどころか、私にとってはより一層肺を高揚させる匂いになっていて、ますます呼吸の基本である『吸って吐く』の吐くの部分だけが邪魔だった。
私は…この円佳の濃い匂いを、誰にも渡したくなかった。
(……お願い、円佳……私を、抱いて……)
美咲の別荘で過ごした特別な夜、私たちは確実に抱き合おうとしていた。無論、ハグ的な意味じゃない。というか、ハグなら今でも毎日している。
だけどそこまで至ることはなくて、それからも『重なる』ことはなくて。私たちならいつでもできる、それがわかっただけでも満足していたのかもしれない。
実際、これまでは満足していた。そもそも、あれ以降は研究所も警戒態勢に入っているのか連絡や依頼が多いし、ちょくちょく顔を出す羽目にもなっているから、そういう余裕がなかったんだと思う。
だけど円佳の匂いは私の本能的な部分、『好きな相手に抱かれたい』という人間の子孫繁栄に関わる欲求をいとも簡単に復活させて、こんな行動にまで発展させていた。
だから、願ってしまった。円佳に抱かれること、そして…この疼きを沈めてもらうことを。
浅ましい女である私を求め、抱き、満たして欲しい。まだ好きな相手と完全に抱き合ったわけでもないのに、私はこんなにも淫らになっていた。
そしてその理由が、恋人の匂いだなんて。
(…そうか、あの女も…早乙女も、円佳に狂わされた…円佳の匂いを、体を、求めていた…?)
ぎりっ、呼吸に混ざって歯ぎしりの音が聞こえた。
私をここまでおかしくしてしまうのだ、前々から円佳にいやらしい目を向けていた早乙女だっておかしくなるに決まっている。けれどもそれは早乙女も私と同じことを求めていたと考えてもよくて、そこまで行き着くと…私の中で明確な敵意、いや…殺意とすら呼べるような、どす黒い衝動が生まれそうになった。
優しい円佳はあいつを傷つけることができない、それなら…私が手を下して、円佳を守らないとダメじゃないの?
そうだ、円佳! 円佳は私のすべて! 私が欲しい唯一の存在!
それを守るためなんだ、仲間の一人くらい…いや、私から円佳を奪おうとした以上、すでに仲間じゃない!
見てて、円佳…匂いまでもがたまらなく愛おしいあなたのため、私は私たちを引き裂くすべてを滅ぼす。そのためにはまず早乙女を『始末』して、あなたの体が汚されないように守り抜いて…その後は、私を抱いて欲しい。
私だけを、抱いて欲しい。私もあなたしか抱かないように、あなたの腕の中には私以外が存在しないで欲しい。
ああ、円佳…円佳円佳円佳!! 好き好き好き好き大好き!!
(だから、今は…自分で…)
私の中で燃え上がる円佳の匂いと、愛情。
それに従って行動を起こす前に、まずはこの火照りを鎮めないといけない。これはきっと戦いにおいては邪魔でしかないから、今のうちにどうにかしないといけなかった。
そして『どうにかするための方法』について、私はきちんと理解している。それは誰かに教わったわけでもない…というよりも、教われるわけもないこと。きっと研究所からしても『因果の相手がいるのであれば本来不要なこと』なのだろう。
「……んっ」
『それ』は円佳に初めてキスされた日の夜、寝室での出来事だった。
あの日は油断すれば円佳の部屋に向かって彼女へ襲いかかりそう──攻撃的な意味じゃない──になっていたから、そんな自分を鎮めるために『火照る部分』に手を伸ばし、そして…消火作業を行った。
その行為の善悪、是非、あらゆるものを横に置いておけば…『気持ちいい』と表現するしかない。私も人間である以上、体のつくりは一般的な女性と同じで、触れる部分によっては相応の反応をしてしまうのだから。
けれども、この方法によって鎮火すると…『事後』が大変だった。後始末的な意味もそうだけど、なにより『次に円佳を見たときに罪悪感が積み重なる』という問題があって、それを考慮するのならここでやめておけばいいのに。
「…はぁっ、まど、か…」
座り込み、円佳の服に顔を埋めながら、指先は今も火照るがままに『それ』をなぞる。自分の指であるというのに、少し触れるだけで甘ったるい麻痺毒が私の脳髄を侵食した。
あの日は円佳を思うことしかできなかったのに、今日は円佳の服という、私の蛮行を加速させるためのアイテムが存在している。そして私は自分の欲望のままそれを『使い』、待ち受けている罪悪感へと一歩ずつ歩みを進めていた。
それはまるで、断頭台に向かう死刑囚のようだった。
(…私、知ってる…? 前にも、こんなこと、してた…?)
断頭台の姿が見えてきたところで、私の脳裏には走馬灯のようにちらつく光景があった。
円佳を想っての『発散』は、実際に経験していた。してしまっていた。
けれどもそのときは彼女の私物を勝手に使うようなことまではしていなくて、それこそ今日初めて使ってしまっているというのに。
円佳の匂いによる酩酊も極まってきたのか、私は存在しないはずの記憶から『似たようなことをしていた』という、覚えのない実感を抱いていた。
(…私、前にも…円佳の服の匂い、嗅いだことがあるの…?)
私は家事が好きだから、もちろん洗濯だってこまめにしている。そうなるとこれまでも円佳の脱いだ服に触れる機会はあって、なんなら匂いだって無意識のうちに嗅いでいたかもしれない。
それでも今日のような目的でもって触れたことはないし、こんな行為に走ったことがあるはずもない。仮にあったとしてそれを忘れていた場合、私はエージェントを続けられないほどの認知障害を患っているだろう。
だけど私の脳の半分くらいは『この匂いも行為も知っている』と訴えているような気がして、皮肉なことにこの幻覚が私の行為をせき止めてくれた。「これは夢だ」とわかっている夢の中で歩くような、不思議な状態だった。
『【絵里花】はさぁ…私の匂いが好きなのは知ってるけど、そんなことまでしてたの…?』
足取りもおぼつかないふわふわした夢と現実の狭間で歩いていたとき、ふと円佳の呆れたような声──だけど軽蔑までは含まれていない──が聞こえた気がした。
それにびくりとして服から顔を離し、周囲を見渡す。けれども脱衣所には私以外はいないし、円佳の気配や足音も感じられない。少なくとも本物の彼女の声ではなかったようで、吹き出す冷や汗はすぐに引いてくれた。
そうなるとあの声は私の中でだけ響き渡ったということだけど、本当にそんなことを言われた記憶はない。あったとした場合、今の私たちの関係にも影響──確実に悪いものだ──があっただろうし。
「……ち、違うから。私、そんな女じゃないから……!」
それでも私は見えない円佳へと言い訳をして、振り切るにはしつこい名残惜しさから逃げ切るよう…脱衣所にあった服をすべて洗濯機に投げ込み、最後に身につけていた下着も脱いでから放り込んで、そしてスイッチを押した。
雨の日でも安心のドラム型洗濯機はごうんごうんと稼働し始め、私たちの匂いや汗を吸った服を清潔にしようとしていた。
…別に、残念じゃない。遅かれ早かれ洗濯はするのだ、今のうちに済ませたところで問題なんてない。
(…せめて、もう少しだけ…って、頭おかしいんじゃないの!? ああもう、またシャワー浴びないといけなくなったじゃないの…)
それでも回り始めた洗濯機を見て、私は「もう少しだけ嗅いでから回せばよかった」と思っていた自分の両頬を張った。ヒリヒリとした痛みは先ほどとは異なる熱さを伴っていて、多少は戒められたような気がする。
けれども欲望に流されかけた結果としてまた着替えと入浴をする羽目になったことを呪いつつ、心の中で自分を罵倒しながら私は浴室へと逃げ込んだ。