匂いというのは自分で思っているよりも記憶に焼き付くのか、今日の私の脳裏には幾度となく早乙女さんの姿がちらついていた。
体育の際に早乙女さんに抱きつかれた結果、普段は意識しない自分の体臭に嗅ぎ慣れない甘ったるさが混ざっているような気がして、この日はどうにも落ち着けなかった。いや、不愉快とかじゃなくて。
バスケで爽やかな汗を流した直後、火照った早乙女さんの体温、豊満さを感じられる柔らかな感触、耳元で紡がれる小悪魔のようなささやき…それらが彼女から擦り付けられた匂いによって再現されるようで、常に早乙女さんに引っ付かれているような、皮膚の表面が熱を持ち続けるような緊張感があった。
けれども家に戻る頃にはそれも随分と薄れていたおかげで、ようやく一息つけると思っていたのだけど。
「…あの、絵里花さん?」
「……」
玄関のドアを開けてやっと帰ってきたという実感に皮膚も冷えてくれるだろうという期待とは裏腹に、私の体には再度の熱…それも慣れ親しんだ、絵里花の体温がじわっと伝わってきた。
つまり帰宅早々に絵里花から抱きつかれたことを意味していて、私は突然のアクションにかすかな混乱を覚えつつもすぐに抱き返す。この抱擁の意味はわからないけれど、それでも絵里花を突き放す理由なんて一つたりともないから、私の反射的なハグでの返答は思考が巡るスピードよりも早かった。
絵里花、あったかいな。人間にとって人肌というのは文字通りちょうどよくて、たとえ残暑が厳しい季節であっても引っ付くことで過剰な不快感は覚えず、私は36℃前後の熱にポヤポヤとした考えを巡らせていた。
早乙女さんに引っ付かれたときは体育の直後もあって、これより熱かった気がする。それに加えて絵里花への罪悪感を加速させたことも皮膚が鋭敏に反応し、まるで火傷を訴えるように私は焦りを覚えていたけれど。
絵里花が相手だと、そんなものはなかった。今も抱きつかれている理由がわからないのにぎゅっとその体を包んでしまうくらいには、心地いい。残暑も終わって一足先に秋が訪れたような、油断するとまどろみに溶けていきそうなぬくもりだった。
「…だから…」
「…ん?」
秋の訪れに頭を泳がせていたら、絵里花がぽつりとなにかをつぶやく。いじっぱりで怒りっぽいところもある絵里花だけど、実際に大きな声を出す機会はさほどなくて、なんなら私と二人きりのときは物静かに分類してもいい子だった。
だから私は絵里花の言葉を聞き漏らさないように、二人でいるときはしっかり耳を傾けるようにしていたけれど。先ほどの声は私の肩の辺りに顔を埋めていたこともあり、上手く聞き取れなかった。
なので私も静かに聞き返したところで絵里花は抱きついたまま顔だけ離し、じっとりと見つめてくる瞳が飛び込んでくる。私を包む空気は秋だったのに、その潤む両目はまだまだ夏、それもあの夏祭りの花火のような熱を感じられた。
「…あなたの匂いも、私のものだからっ」
「…んん…?」
そこまで伝えきった絵里花はまた私の肩にダイブしてきて、ぐりぐりと鼻先を押しつけながらスンスンと鳴らしてくる。その行動は好きな相手の匂いを嗅ぐ犬そのもので、改めて絵里花が大型犬…ゴールデンレトリバーに見えてしまった。
ふがふがすんすんと鼻が鳴り、時折深呼吸のようにたっぷりと息を吸う。ちなみに今私が着ている制服はきちんと絵里花が洗濯してくれたものだけど、学校にて一日中袖を通していた都合上、やっぱり汗やら体臭やらが染みこんでいるわけで。
そうか、今の絵里花は私のそういう匂いを嗅いでいるのか…と状況解析が終わったら、人並みに羞恥心が刺激された。絵里花相手だから離れずに済んでいるけど、ほかの人だったら突き飛ばしはしないにせよ、文句の二つか三つくらいは口にしていたかもしれない。
「…あの、絵里花。私、普通に汗をかいてるし…その、恥ずかしいよ…」
「…でも、早乙女だって同じこと…あなたの匂い、汗とかいろいろ、嗅いでたのよね?」
「…多分…?」
え、なんだこの羞恥責め…? 突如として始まった絵里花の尋問に、私の秋は夏へと逆戻りしていった。
私も女として自分の匂いを嗅がれるのは恥ずかしいし、ましてや絵里花以外…早乙女さんに嗅がれたという事実を再確認するのは、あの緊張が蘇るように肌がピリピリと熱を持ち始める。
そしてこういう場合には配慮してくれるはずの私の優しい恋人は、今も匂いを吸い込みつつ尋ねてくる。それを無視できない私も大概かもしれないとは思いつつ、きちんと回答していた。
…むしろ、早乙女さんのときのほうが体育のあとでたくさん汗をかいていただろうし、今は若干マシなのだろうか?
いや、マシじゃないでしょ…絵里花相手とはいえ、むしろ、絵里花が相手だからこそ恥ずかしいこともあるのだ。
好きな人に『汗臭い』とでも思われたら、私であっても少なからぬショックを受けるだろうから。
「円佳とこんなふうに引っ付けるのも、匂いを嗅いでいいのも、私だけなのに…あのクソハサミ女に嗅がれていただなんて、許せないのよ…!」
「クソハサミ女って…あ、あのー、私、絵里花が相手でも嗅がれるのは恥ずかしいっていうか…せめて、えっと、シャワーを浴びたあとなら…うん…」
いや、シャワーのあとでも恥ずかしいんだけどね?
それでもお風呂を終えた後であれば恥ずかしい匂いだって最小限に抑えられるわけで、引っ付かれてもここまで羞恥心は刺激されない。というか、お風呂上がりに抱き合うことも多かったし、すでに嗅がれていると思えば…まあ…。
しかし、『クソハサミ女』はなかなか斬新な罵倒だな…多分だけど、早乙女さんのコードネームのスプリット──意訳するなら『切り裂く』といったところか──から連想したんだろう。言いたいことはわかるけど、本人に対して使わないでもらいたい…手遅れだろうか。
そんな私の心配なんて知っちゃこっちゃないように、絵里花は早乙女さんの数倍くらいのペースで呼吸を繰り返し、自分の肺を私の匂いで染めようとしていた。その行動に私の汗腺もほのかに刺激され、じわっと汗が浮かび始める。それでも離れようとしない理由、それはもう絵里花の言葉で理解できた。
「え、絵里花、やきもちを焼いてくれるのは…いやじゃないんだけど。私と早乙女さんは本当にそういうんじゃないし、ずっと離して欲しいって伝えていたし…絵里花だけだよ、こうされても突き放せないのって…」
絵里花は早乙女さんの行動に対し、やきもちを焼いているんだろう。それを示す行動として『自分も円佳の匂いを嗅ぐ』という選択肢を選んだのには言いたいこともあるけど。
だけど絵里花がやきもちを焼いていると理解した瞬間、私の胸中は明らかに高揚していた。さらに言うのなら口の端もわずかに緩んでいて、まさか『好きな相手が嫉妬している姿』にこんな感情を持つだなんて、研究所にいた頃は想像もできない。
なんだろうか、この感情は。絵里花にとっては好ましい状況じゃないのに、私は嫉妬の炎を燃え上がらせるこの子がどうしても可愛く見えて、口では恥じらいつつもますます突き放す気力は失われていった。
もしも気を抜いてしまった場合、また「ほへっ」てしてしまうかもしれない。
「…ごめんなさい、あなたのことは信じてるわ。そしてあの女のことだもの、優しい円佳につけ込むように引っ付いてきたのもなんとなく想像してる…でも、私、今日は…我慢、したくないの。大好きな円佳のこと、ほんのわずかにだって…取られたく、ない」
「…ほへっ…んんっ。う、うん、ありがとう…じゃあさ、ここだとなんだし、ソファにいこうか」
「…ん」
知らないうちに芽生えた私の悪癖の一つ、それは『絵里花が可愛すぎると喉の奥から変な音が出てしまう』というものだった。
こういう絵里花が不安がっているときにそういう声を出した場合、馬鹿にされていると彼女も不安になるかもしれない。だから私は丹田のあたりに力を込めて呼吸をコントロールしていたけれど、『大好きな円佳を取られたくない』の部分で腹部からは力が抜けて、すこーんと間の抜けた呼吸と音が生まれた。
いつもならすかさずツッコミを入れてくる絵里花だけど、今日はそんな余裕がないのか、私の音が聞こえていたとしても離れる様子はない。それも含めて今日の絵里花は可愛いの権化みたいになっていて、しかも周囲には意地を張り続けるこの子は私にしかそういう姿を見せないと思ったら…あっ、また出そう…。
だからそれを誤魔化すように私はソファに誘い、絵里花から離れて手を引いた…わけではなく、このわずかな距離も離れてはくれなくて、結局抱き合ったまま歩くしかなかった。ほへっ。
「よっと…絵里花、少しは落ち着いた?」
「別に、取り乱してたわけじゃない…けど、もうちょっと…」
「…仕方ないなぁ」
私たちは二人暮らしで、家に戻ってきたら手分けして家事をしないといけない。絵里花という家事万能な理想のお嫁さんがいるので相当に楽をさせてもらっているけれど、両親のいない私たちは自分のことは自分でしないといけないので、存外やることは多かった。
だけど私に絵里花を突き放すという選択はできなくて、なんならずっと腕を背中に回したままだ。そして後ろから胸のあたりをぽんぽんと叩いていたら、そのたびに絵里花の鼓動が伝わってくるようだった。
絵里花も私もときには命の危険性がある任務に赴くけれど、この瞬間も生きている。それが伝わるふれあいというのは、どうしようもなく尊い。
その尊さを一生感じられるのであれば、私はきっと戦いから逃げないだろう…そう思って絵里花の背中を叩き、そして頭を撫で続けた。
「…は、ぁ…円佳、いい匂い…」
「…そうかなぁ。汗臭くない?」
「円佳を臭いって思ったこと、一度もないわよ…私、あなたが…あなたの匂いも、本当に大好き…ずっとこうしていたい、くらい…」
「…それは…ありがとう?」
もちろん今でも匂いを嗅がれること自体への恥じらいはあって、できることならもう切り上げてもらいたいのだけど。
すんすんすんというハイペースな嗅ぎ取りからすーはーすーはーという深呼吸に変わり、そしてうっとりと甘やかな声を出しているように、絵里花のフェイズは嫉妬から味わいにシフトしているようだった。
それに伴って私も諦念に包まれたのか、あるいは絵里花の可愛らしさに絆されてしまったのか。たとえ汗臭かったとしても「絵里花が喜んでいるならいいか…」なんて思い始めていて、早乙女さんの行動によって生まれた罪悪感を晴らすためにも、今日はずっとこのままでもいいかもしれないと思い始めた。
掃除は…まあ、一日くらいサボっても致命傷にはならない。料理は…デリバリーを使うのもいいだろう、絵里花のご飯のほうが好きだけど。
お風呂は…どうしよう? いや、まだまだ暑いのに入らないのは論外なのだけど。
けれども汗臭さを伴っているはずの私の匂いをうっとり嗅ぎ続ける絵里花を見ていると、彼女のためにも休むべきなのかとやや正気を失った頭で考えてしまった。
(そういえば、絵里花だって汗をかいてるんだよな…)
そして正気から離れるほど、私もあらぬ事を考え始める。
普段の絵里花の匂いというのは、強く意識するほどのものじゃない。これは絵里花の匂いがどうでもいいとかじゃなくて、近くにいすぎて過剰に意識しない…という意味だ。誰への言い訳だろうか。
ともかく普段から絵里花の匂いを必死に嗅ぐはずがなくて、私は「いい匂いだなぁ」とは思っていたはずだけど、今の『体育の授業があった日の絵里花』の匂いに好奇心が刺激されて、私も下品にならない程度にすんすんしてみた。
(……これ……絵里花の気持ち、わかるかも……)
絵里花を抱き留めたまま、首のあたりに鼻を寄せる。そしてかすかにしっとりしているそこの香りを嗅いでみると、お風呂上がりとは異なる…ぶっちゃけると、すごくいい匂いがした。
普段から嗅いでいるはずなのに、今日はどことなく『濃い』気がする。その理由は汗なのだろうけど、間違いなく臭いとは思えなくて、でもストレートな甘さとは異なる、私を高揚させる香りだった。
絵里花のことだから体育の後に汗ケアをした可能性もあるけど、それだともう少し人工的な香りが強いはずだ。でもわざとらしさを感じさせず、心臓がドキドキとし始めて…もしかして、私は。
絵里花が『欲しくなった』のだろうか?
「…好き…好き…円佳ぁ…好き…大好き…」
絵里花の『好き好きラッシュ』はまるでそういうお誘いにも感じたれたけど、ここまで素直な好意をぶつけられたことで私のやましい思考は中断され、少しばかりはっとして世界に目を向ける余裕が生まれた。
絵里花の態度をひねくれ者だと指摘する人もいるけれど、実際の彼女はこのようにとても純真であり、同時に愛情深い子だった。だからこそ私は絵里花が大好きで、同時に『そういう欲求』も感じてしまうことがあるのだけど。
でもそれと同じくらい大切にしたいのもまた揺るぎない気持ちで、だからこそ安易に流されるべきじゃないと思いとどまり、私は素直な絵里花を慈しむようにぎゅっと抱きしめた。
「…私も絵里花のこと、大好きだよ。匂いも…」
すりすりすうすうとしてくる絵里花はもう私に夢中で、こんなにも好きになってもらえる自分が誇らしくなってしまった。
同時に、ふと気になることがあった。あまりにも当たり前すぎて、考えるまでもなかったこと。
それを今こうして考えるのは、絵里花の匂いの魔法だろうか?
(…絵里花、いつから…こんなに私のこと、好きになってくれたのかな?)
私たちには因果があるのだから、惹かれ合うのは当たり前なんだけど。
それでもお互いへの気持ちの大きさというのは出会った頃からこんなにも巨大ではなくて、小さな頃はもっとこう、より複雑さのない…ひたすらに濾過された水のような好意、透明な『好き』だったはずだ。
そして昔を思いながら私は絵里花の匂いを嗅ぎ続けていたら、心地よさの中に不思議な明滅を感じた。
(…懐かしい…でも、違う…そうじゃなくて、もっと、遠い…?)
私と絵里花は幼い頃から一緒だったので、思い出を振り返れば懐かしいという表現がしっくりくるものだってあるだろう。
だけど今感じたことは、それともまた違っていた。絵里花と初めて出会ったときには抱きついてしまって、その際も彼女の匂いを嗅いだのだろうけど。
その瞬間を思い出したとき、私は現在の記憶と照らし合わせ、どうしてだか…もっと昔、私たちが出会う前、いや、もっともっと遠く…その見たこともない場所で、この匂いを嗅いでいたような気がした。
今の思考がそのまま過去の自分に重なり、そこからさらにバイパスされるように知らない場所へと踏み出しそうになって、でもそれ以上はなにも見えなかった。
(…因果は、過去から積み重なってきた出会い…私と絵里花にはお互いの相性がよくなるための因果が与えられたけど、その記憶…なのか…?)
私たちの因果が『ほかの誰かの因果』を高度に再現したものであるとしたら、先ほどから私にちらつくものの正体がそれなのだろうか?
でもそうした過去を垣間見るなんて話は調べたことがなくて、今になってもう少し真面目に勉強しておくべきだったかと後悔しそうになる。今度主任と面談した際、詳しく聞いてみようかな?
そんな絵里花の匂いに酔いしれそうになっている私でも、はっきりとわかることもあった。
(…私、絵里花の匂いも好きだ。早乙女さんのよりも、ずっと…)
絵里花の好きじゃないところなんてないけれど、今日は匂い…それもお風呂に入る前の、汗ばんだ香りですらも好きであることがはっきりして。
同時に、昼間嗅いだひたすら甘ったるい早乙女さんの匂いと比較したとき、私は間違いなく絵里花のほうが好きだと断言できた。
絵里花の匂いだって甘いけれど、それは和菓子と洋菓子のようにベクトルが異なるというか、絵里花の場合はいい意味で『甘すぎない』。
強引に嗅覚を支配し、思考を奪い、好みを上書きしようとするような恐ろしさを感じない。絵里花の匂いはどこまでも私のためにあるような、やっぱり遙か昔からそばにいてくれたような…嗅覚以外も反応する、魂に訴える香りだった。
「…っ、はっ、はぁ…まど、かぁ…」
私が絵里花の匂いによって魂と見つめ合っていたように、彼女もまた私の匂いによって予想外の事態に陥ったのかもしれない。
呼吸は荒く途切れ途切れ、閉じられた足はもじもじと擦り合わせており、焦れったそうに私の名前を呼ぶ。気づいたら絵里花の鼻先は肩から若干下、私の『腋』に向かっているような気がして、さすがにそこは…と声をかけるしかなかった。
「えっと…絵里花? 大丈夫? 息が荒いけど…」
「…………あ」
ぽむぽむと背中を叩き、責めるような声音は出さず、優しく声をかけたつもりだけど。
絵里花は一瞬息を飲んだかと思ったら、ばっと立ち上がった。その顔は38℃くらいはありそうな、発熱の心配すら抱きそうな赤だった。
「ごっ、ごめんなさい! 今、お風呂沸かしてくるから!」
「あっ、絵里花…行っちゃった…」
絵里花はそんな頭を下げたと思ったら浴室へと走り去り、私は突然の状況変化について行けず、ぽかんと見送るしかなかった。
自分の体に染みついた絵里花の残り香を嗅いでみると、やっぱり私の胸の奥はくすぐったくなった。