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第75話「甘く、酸っぱい」

 CMCとして外の世界に送り出される場合、当然ながらその学力に見合った学校へと配置される。CMCの教育水準はおそらく現代日本においては最高峰の一つで、研究所のスパコンにて作られた教育特化AIによるサポートもあったから、その気になればこちらの世界の大学院に相当するレベルまで教育を受けることも可能だった。ほとんどの場合、そこまで至る前に外の学校に入れられるのだけど。

 つまりCMCには頭脳明晰な子供が多いけれど、それでも学力に多少のばらつきが出るのはやむを得ないから、全員が聖央高等学校のような高偏差値の学校に入れられるわけでもない。だからここへ配置された早乙女さんの知能を疑っていたわけじゃないけれど、それでもその実力を目の当たりにすると…少し失礼だけど、驚いた。

「早乙女さん、この前の抜き打ちテストで満点とかすごすぎない? 前から授業を受けていた私たちでも結構きつかったのに…」

「にゃはは、莉璃亜ちゃんの頭脳は特別製だからね! アイドルたるもの勉強も運動もパーフェクトにこなせないと、みんなを幻滅させちゃうでしょー?」

 早乙女さんが転校してきて半月ほど、その対人能力によってクラスに馴染んだのはもちろんのこと、そこに『成績優秀』という要素が加わることで、彼女の人気は不動のものとなっていた。

 先日も数学の抜き打ちテストがあったのだけど、早乙女さんはそれで満点を取るという快挙を成し遂げ、すでに彼女へ勉強を教わるクラスメイトも出てきたのだ。

 ちなみに私も絵里花も90点台をキープしているけれど、満点となるとさすがに厳しく、早乙女さんが勉強面においても私たちと同等以上に優れていることが証明された。

 …CMCは因果以外の操作はされていないはずだけど、早乙女さんほど優れた人間であれば何かしらの『改造手術』でも受けさせられたのではないかと逆に心配しそうだ。

 ましてや私は初対面のときに『特別な因果』を与えられたと聞いていたので、これ以上研究所に不信を持つようなことが起こっていないのを祈るばかりだった。

「…人間って、見た目にはよらないものね」

「絵里花、もうちょっとマイルドに…言いたいことはわかるけど」

 戻ってきたテスト用紙を眺めつつ、絵里花は早乙女さんの周囲で起こる喧噪を横目にそんなことをつぶやく。早乙女さんに点数で負けたことでまたいらぬ敵意を抱いているのか不安になったけど、どうやら私に関連していないことではさほど興味がないようで、少なくとも悔しそうにはしていない。

 ただ、早乙女さんの意外な──こんなふうに考えてしまう時点で私もそこそこ失礼かもしれない──一面への驚きが先行した結果とも言えて、私も自分のテスト用紙を見ながら絵里花のつぶやきに返事をしておいた。

「んふー、二人もどう? 莉璃亜ちゃんの天才っぷりに驚いちゃったかな?」

「天才の条件が『勉強“は”できる』ってことなら、素直に褒めてあげてもいいわよ。普段の言動も含める場合は認めたくないけど」

「んーふふ、絵里花ちゃんったら褒めすぎ! 勉強もできてカワイイ完全無欠の天才だなんて! そろそろ円佳ちゃん以外にもデレる気になった?」

「…やっぱりこいつはアホだわ。日本語と皮肉が通じないもの」

「それは言いすぎだと思うけど…まあ、その、早乙女さんっていつも楽しそうだよね…」

 いつも人に囲まれている印象が強い早乙女さんだけど、任務のこともあるのかちょくちょく私たちの元に訪れていて、こんなふうに他愛もない話を振ってくることが多かった。

 そしてそういうときの早乙女さんは、決まって楽しげだった。いや、これは絵里花が口にした皮肉的な意味ではなくて。

 早乙女さんはいつも周囲を照らす太陽のように明るく笑っていて、それこそ戦闘中ですら笑みを消すことはなかった。少なくとも、私たちと一緒に戦っているときは。

 けれども戦闘時の笑顔は研がれた直後のナイフみたいに鋭くて、笑うことで相手を油断させようとしているような、冷徹な捕食者のような雰囲気すらあった。正直に言うと、敵に回したくないと感じるほどに。

 対して、今みたいに学校へ通っているとき、そして私たちと任務以外で会話しているときは…おもちゃ屋を走り回る子供のように無邪気で、なんなら私や絵里花よりも幼く見える。一応、私よりも絵里花のほうが少しだけ誕生日が早いらしいけど、私は自分の恋人に年上っぽさを感じたことはなかった。

 笑顔にも種類があるのは成長するにつれて否応なく理解してきたけれど、早乙女さんの場合はとくにその傾向が強い気がして、すべての表情を笑顔に分類していると、彼女の本質が見えなくなるような気がした。

 あるいは、見られたくないのだろうか?

「次の授業は体育だから、運動面でもあたしが優秀なことを見せてあげる! 体を動かす美少女の魅力に目覚めさせてあげるね☆」

「そういうのは円佳で間に合ってるわよ、まったく…ほんと、口を開かなければイメージを壊さずに済むってのに」

 早乙女さんの顔を直視しない程度にその笑顔を観察していたら、次の授業が体育であったことを思い出す。正直なところ、身体能力については研究所での戦闘訓練で把握していたので、今さら体を動かす姿を見ても感想に差異は出ないだろう。

 手の込んだポニーテールを揺らしながら走り、整った顔立ちに汗を浮かべ、周囲の視線へ返事をするように浮かべる笑顔…それは絵里花という可愛い恋人がいる私であっても、十分魅力的に思えた。

 そしてこれ以上余計なことを考えると察しのいい絵里花に心を読まれて怒られそうなので、私は二人の会話に当たり障りのない苦笑を浮かべつつ、体育の準備を始めた。


 *


「あはっ、やっぱバスケって楽しい!」


 体育館に広がるドリブル音に混ざり、早乙女さんの楽しげな声が響き渡る。一方でそんな彼女の笑顔とは裏腹に、相手チームは戦意を喪失しつつあった。

「…あのバカ、本気を出しすぎよ」

 私たちは早乙女さんとは別のチームで現在は試合が行われていないから、壁際に座って彼女の活躍を眺めているわけだけど。

「手を抜くのよりかはいいかもしれないけど…さすがにちょっとやりすぎかな…」

 私たちのようにエージェントとしての訓練を受けたCMCの場合、身体能力については一般的な学生のそれを大きく上回っている。これは周囲を見下すわけじゃなくて、私たちに施された訓練の異常性ゆえだった。

 その気になれば都市に設置されたあらゆる建築物を使ってパルクールの真似事もできるし、山岳地帯や離島といった険しい環境下でも活動できるように、『人間が逃げ込める場所であれば追跡して仕留められる程度の能力』があると考えれば、学校の体育で全力を出すのはオーバースペックとしか言いようがない。

 ましてや武器がない状態でも喜々として敵を鎮圧できる早乙女さんであれば、同級生とのバスケットという本来なら微笑ましい行事も、一方的な蹂躙の様相を呈していた。


「…え? 今、何が起きたの…?」

「ちょ、後ろ後ろ! 早乙女さんに抜かれた!」


 その疾風のようなドライブは瞬きのあいだに相手のディフェンスを抜け、すでに早乙女さんはリング下に到達していた。

 対して、彼女を止めようとした生徒はそもそも自分の横を抜けていったことに遅れて気づく有様で、振り向くと同時にバスケットボールはネットを通過していた。なお、これはすでに数度繰り返された事象だ。

 …つまり、この試合はすでに早乙女さんのスタンドプレー…いや、単独ライブとも言うべきステージになっていて、観客の視線はほかの人に向くことすらなかった。


「早乙女さん、ちょっとは手加減してよー!」

「ええー、手加減したらつまんないじゃん! あたしバスケ大好きだから、今日はとことんまで付き合ってね☆」

「勘弁してよー…もう試合終了でよくない?」


 試合開始から数分、点差はすでに圧倒的だった。

 相手チームの生徒は悲鳴のような声音で手加減を求めるものの、早乙女さんはそれに対してペロッと舌を出しながら拒否し、コートにボールが戻れば再び無双を開始する。

 ちなみに戦力差が均一になるように相手チームにもバスケットボール経験者がいるのだけど、その子ですらすでに試合にならないと諦めており、同時に「これが終わったらバスケ部に来てくれないかな…?」なんて本気で勧誘しようとしていた。

(…早乙女さんの動き、きれいだな。周囲へのアピールは欠かさないけど、余計なフェイントとかは入れないし、ボールを持ったら最短距離でゴールを目指してる)

 絵里花は今も「怪しまれたらどうすんのよ…」と苦々しそうに心配しているけれど、私は多分なにを言っても無駄だと割り切ってしまい、むしろプロ選手の試合を見るような気持ちで早乙女さんの動きを観戦していた。

 スピードが圧倒的だから目で追うのは大変だけど、ひとたび彼女にフォーカスが合うと、極限まで洗練されたアスリートの姿が待っていた。

 軽やかに跳ね回り、指先は添えるようにして無駄な力を込めず、放たれたシュートは美咲さんの狙撃みたいな正確さでリングへと落下していく。それは人間が自然界にこそ美しさの原形を見いだしたように、誰もが芸術品を眺めるかのように夢中だった。


「いよっし、ゴールゥ! みんなー、応援ありがとー!」


 やがて試合は彼女という芸術品の展覧会となり、相手チームですら見とれる人間が続出したことで。

 何気ないシュートがまたしても命中、それを見届けた早乙女さんは天衣無縫に飛び跳ね、落ちてきたポニーテールも楽しげに揺れていた。

 全員の歓声へ応えるように、早乙女さんは両手をぶんぶんと振る。それは美少女というよりも少年のような爽やかさすらあって、思わず私も小さく振り返したら。

 そんな動きすらめざとく発見した早乙女さんに、思いっきりウィンクされた。同じくめざとい絵里花はその視線に気づき、ぎろっと睨みながら私の腕を抱きしめてくる。すると早乙女さんはわかりやすい地団駄を踏んで、でも次の瞬間には何事もなかったかのように試合へと戻っていった。


 *


「早乙女さん、お疲れ様。片付け、手伝うよ」

「ありがと円佳ちゃん! ご褒美にさっきの見せつけは見逃してあげるね~」

「いや、別に見せつけたわけじゃ…」

 授業終了後、早乙女さんは自分からボールの片付けを買って出ていた。こうした面倒事ですら楽しくこなすこの子を見ていると私も自然と手を差し伸べていて、早乙女さんも嬉しそうに頷いてくれる。

 というか、見せつけって…私にそういうつもりはなかったし、何より早乙女さんの許しが欲しくて手伝うわけじゃないけれど、なにを言っても笑って流されそうだから言い訳は早々に切り上げた。

「にしても、絵里花ちゃんと一緒にいなくていいの? 円佳ちゃんが離れると寂しくて死んじゃうんじゃない?」

「大げさだって。普段から別行動を取ることはあるし、今は他の子と話しているから…それを邪魔するなんてできないよ」

「ふ~ん…そっかそっかぁ」

 ボールを集め、運ぶ。こうした単純動作にもなぜか研究所での訓練を思い出したけど、どんな内容と関連付けをしたのかまではわからなかった。

 そして茶化すように話しかけてきた早乙女さんの言葉に絵里花のほうを振り返ると、彼女はクラスメイトと談笑していた。その様子に肩肘張ったものは感じられなくて、絵里花もゆっくりと私以外の相手に打ち解けているのがわかって嬉しい。

 …そして、私も。ほんの少し前のような余計な嫉妬をしなくなっていて、キスというつながりが心のスペースに余裕を作り出してくれていた。

 そのスペースは既存の容量を奪うものではなくて、絵里花のためだけに脳が新しい領域を確保してくれたような、何も手放さなくても大切な人との絆が増えていく充実感があった。

 私は絵里花が好きで、絵里花も私のことが好き。だからほかの人が存在していたとしても、その事実は揺らがない…それも多分、キスの意味なのだろう。

 なんてことを片付けながら考えていたら体育倉庫にボールを集め終え、私はそれを確認して戻ろうとしたら。


「…ねえ、円佳ちゃん。円佳ちゃんってさ、いい匂いがするよね」


「…え? 早乙女さん?」

 体育倉庫のドアが閉められ、急に周囲が薄暗くなる。部屋の上部に取り付けられた窓のおかげで真っ暗じゃないけれど、閉鎖的な空間は実際の明るさ以上に暗く見えてしまう。

 だけど、そんな部屋にあっても。

 早乙女さんの瞳に宿るアクアマリンは、らんらんと輝いているように見えた。

 先ほどのドライブに比べてゆっくりと、けれど短い距離を埋めるには十分な俊敏さで私に近寄る。その音を立てない様子はジャングルに潜む肉食獣のように見えたけど、それにしてはあまりにも愛らしい顔立ちということもあってか、私の体は警戒態勢へ移行するのが遅れた。

「…!? ちょ、なんで」

「んーふふ…なんでだろうね? でもね、隣で一緒に片付けてくれる円佳ちゃんの匂いを嗅いでたら…おかしくなっちゃった、かもしれない」

 早乙女さんは獲物を射程距離から離さないように、私の背中に手を回してハグをする。そしてスンスンと鼻を鳴らしていて、その相手が絵里花ではないことにようやく気づいたかのように、私は彼女の肩を掴んで離れるように促した。

 だけど一度ボールを持ったら手放さないように、早乙女さんはぎゅっと私に身を寄せてくる。そして私も否応なく彼女の匂いを嗅ぎ取ることになってしまい、そうしたら。

 肩を掴む手の力が、わずかに弱まってしまった。

(…早乙女さん、なんだろう、この匂い…甘ったるい…)

 早乙女さんはクラスの女子と『女子力向上会議』なんてものを開いていたように、匂いケアにも人一倍力を入れているのかもしれない。

 そうなるとこの匂いは香水や制汗スプレーの類いかもしれないけど、作り物らしい不自然に整った匂いの向こう側に、密林に隠れていた花畑のような甘ったるさがあった。

 それは汗をかいているというのに…いや、汗をかいているからこそ強調されているような、人間が持つそれぞれの体臭なのだろうか?

 なんにせよ、私はそれを不愉快に思うことができなくて、その事実を見つめられたことで再び手に力が戻ってくれた。

 ぐいっと強めに押し、なんとか私たちの体に隙間を作る。それでも彼女の甘い体臭はまだ私の鼻孔の付近を漂っていて、予断は許されそうになかった。

「や、やめて…私、汗、かいてるから…」

「…そうだよ? 円佳ちゃん、真面目に授業を受けてたから汗がびっしょりで…だから、すごくいい匂いがしちゃう…んふっ、んー…ふふ…ね、あたしもいい匂いでしょ?」

「…知らない、よっ」

 違う、もっと言うべきことがあったはずだ。

 そんな思考とは異なり、私は女みたいな──女だけど──恥じらいを見せる。でも早乙女さんはそれで許してくれるどころか、ぐぐぐっとまた距離を詰めようと踏み込んでくる。

 自慢の美脚と謳う足はその優美なラインからは想像もできないほど力強く、生まれた隙間をまた埋めようとしていた。

「あたし、嘘をついている人ってすぐにわかるんだ…円佳ちゃん、あたしの匂いも嗅いでたでしょ? それで、ちゃんといい匂いだって思ってる…じゃないと、そんなエッチな顔にならないよ…?」

「…!? ち、違う! 私は、私は、絵里花にしかっ」

「…ふーん? やっぱり、絵里花ちゃんとは『シちゃった』のかな?」

「っ…」

 ダメだ、この子は…危険だ。今さらになって、絵里花の言うとおりだと思ってしまう。

 でもその危険のベクトルは任務関連のものとは大きく異なっていて、命が脅かされることはないものの、もっと違った…私が隠し持っている大切なものを暴こうとしてくるような、得体の知れない恐ろしさがあった。

 でもその恐怖を中和するような甘さを宿していて、私から力を奪おうとしてくる。気づいたらまた彼女は抱きついてきていて、今度は首筋のあたりに鼻を引っ付けてきた。

「っ、はぁ…円佳ちゃん、最っ高…あたしの匂いも気に入ってくれたみたいだし、やっぱりあたしたちって相性いいんだよ。ね、あたしにも絵里花ちゃんにしたようなこと…シて?」

「…ごめん、それは、」

 それだけは、できない。

 彼女相手にごまかしが利かないのなら、あえて言おう…私は早乙女さんの匂いが、嫌いじゃない。

 けれども私の匂いによってうっとりとした目を向けながら、『おねだり』をしてくる様子を見たら…あの日、私を見つめる最愛の人の、潤んだ夕日を思い出せて。

 それが沈む前にはっきりと伝えようとしたら。


「ちょっと円佳、そろそろ片付けを終えないと授業に遅れ…て…」


 体育倉庫のドアが静かに開いて、絵里花が迎えに来てくれた。

 それは私にとって安心できる結末であったけれど、でも早乙女さんを押しのけようとしている姿を見られたと思ったら。

 異なるベクトルの危機感が、私の本能を刺激していた。

「…殺す。殺す殺す殺す殺す!! 私の円佳を汚したな!! 今すぐここで殺すわ!!」

「ちょ!? 絵里花ちゃんステイ! その構え、ガチで『敵の息の根を止める技』だよね!? せめて捕縛から狙おう!?」

「え、絵里花! 私なら大丈夫だから! お願いだから落ち着いて!」

 その後、私はかいつまんで事情を伝えたら逆に絵里花はヒートアップして、この日は早乙女さんを一歩も近づけようとはしなかった。

 もちろん美咲さんにも『すぐにあの淫乱女を更迭して!』と鬼電していて、さすがの早乙女さんも「やりすぎちゃった☆」とまったく反省してなさそうに謝っていた。

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