食事が終わって後片付けしたあとは、残ったワインをチーズでちびちび飲みながら予定どおりサブスクで映画を観る。
話題だっただけあって面白く、がっつりのめり込んで観ていた。
終盤にさしかかり、ヒーローとヒロインの結婚式の準備が進んでいた。
「ねえ、龍志」
「なんだ?」
「誰とも結婚する気はないって、私とも結婚する気はないってことですか?」
画面を見つめたまま、さりげなさを装って聞く。
しかし心臓は肋骨を突き破って出てきそうなほどどきどきとしていたし、反応が怖くて視線は画面に固定したまま逸らせなかった。
龍志からなかなか返事はない。
場面はクライマックスである誓いのキスのシーンになって、ようやく彼が口を開いた。
「……そう、だな」
やっと聞いた返事は消え入るほど小さい。
しかしそれを認識した途端、急に周囲の風景が色褪せた気がした。
やっぱり、龍志にとって私は、その程度の人間なんだ。
いや、まだちゃんと自分の気持ちを伝えて付き合ってもいないのに、結婚の話なんて重すぎるとわかっている。
それでも「まだわからない」ではなくはっきりと「その気はない」と言われたのはショックが大きかった。
「でも、七星とは結婚できたらいいなと思ってる」
少しして続いた彼の言葉の意味がわからず、視線は勢いよくその顔へと向いていた。
「どういうこと、ですか?」
誰とも結婚する気はないのに、私とは結婚できたらいいって、気持ちが相反している。
「……俺、は」
言いにくそうに彼が、顔を歪める。
「誰とも結婚する気はないし、子供を作る気もない」
それはすでに聞いたが、そのあとがわからない。
「正確に言えば俺が結婚して子供を作れば、新たな争いの火種になるからする気はない」
つらそうに彼がなにを言っているのか、ますますわからなくて困惑した。
「今までそのつもりで生きてきたし、これからもそうだと思っていた。
でも、七星とプライベートで付き合うようになって」
じっとレンズ越しに私を見つめる瞳は、濡れて光っている。
それほどまでに彼は苦悩しているのだと胸が激しく痛んだ。
「七星を深く好きになっていた。
そうならないようにいつも、一歩引いていたこの俺が」
泣き出しそうに彼の目が、歪む。
「ちょっと揶揄うだけのつもりだった。
それがどんどん、七星を知って好きになって。
深入りしなければよかったと何度も後悔した」
「……そんなに私を好きになるのは、つらいですか」
そっと頬に触れるとびくりと身体が反応した。
けれど私の手に自分の手を重ね、甘えるように龍志は頬を擦りつけてきた。
「つらい。
どんなに七星を想おうと、俺は七星を幸せにできないのだと思うとこれ以上ないほど、つらい」
「じゃあ。
私とは明日を限りに、ただの上司と部下の関係に戻りますか」
眼鏡の向こうで彼の目が、これ以上ないほど大きく見開かれる。
私の想いが彼を苦しめるのなら、この気持ちは胸にしまって伝えないほうがいい。
それできっぱり、以前の関係になればもう、龍志をこんなに悩ませないでいい。
「嫌だ」
強い意志のこもった視線に射られ、今度は私が大きく目を見開く番だった。
「後悔は、した。
でも、七星を手放すという選択肢は俺のどこにもない」
力強く龍志が言い切る。
それで温かなものが込み上がってきたが、かろうじて耐えた。
「俺はこれ以上ないほど七星を愛している。
けど、事情があって結婚はできないし、七星を生涯、幸せにもできない。
こんな俺を好きになってくれなんて虫のいい話だとわかっている。
それでも俺が、七星の傍にいることを許してくれ」
ぎゅっと彼の両手が私の両手を掴む。
痛いくらいのそれは、彼の気持ちはそれだけ本気なのだと感じさせた。
「結婚できない、幸せにできない理由を聞いてもいいですか」
龍志とプライベートでも付き合うようになって、なにも気づいていなかったのかといえば嘘になる。
ストーカー男、市崎に襲われたあと、もう二度とあの男に手を出させないようにちょっとした考えがあると言った彼に、高校時代からの友人だという弁護士の笹西さんは本当にいいのかと心配そうだった。
この件で手を打ったと彼が兄に説明したときも、兄も本当にこれでいいのかと言い、龍志を憐れんでいるようだった。
それに新作発表会のときの、ルナさんの言い草。
あれはまるで龍志は彼女と同じ上流家庭の人間とでもいうようだった。
ずっと彼は私と同じごく普通の一般庶民だと思っていたし、周りの人間もそう思っている。
けれど実は違うんだろうか。
「……わるい。
今は言えない」
苦しそうに彼が絞り出す。
「今はってことは、いつか話してくれるんですよね?」
きっとその事情は私に明かされることはないのだろうと薄々気づいていた。
それでも精一杯、彼に微笑みかける。
「そう、だな」
ぎこちない笑顔を彼が作る。
それを見て胸がバリバリと裂かれたかのように痛んだ。
「じゃあ、今は聞きません」
ぎゅっと彼の手を握り返す。
「それに生涯、私を幸せにできなくてもかまいません。
今だけでいいから、幸せにしてくれませんか」
次第に私の声が鼻づまりになっていき、慌てて誤魔化すように鼻を啜った。
「約束する。
一緒にいられる時間、目一杯、七星を幸せにする」
彼の腕が伸びてきて、私を抱きしめる。
私も彼を、抱きしめ返した。
「私は」
「うん」
「龍志が好き、です」
告げた途端、彼の腕にぐっと力が入った。
「こんな俺を、好きになってくれてありがとう」
浮かんでくる涙を必死に耐える。
身体を離した彼が私の顔をのぞき込み、指先で目尻を拭った。
「……キス、してもいいか」
尋ねられて黙って頷き、ねだるように目を閉じて少し顔を上に向ける。
すぐに彼の唇が重なった。
いつもはこれで終わりなのに、今日は角度を変えながら何度も啄んでくる。
そのたびに気持ちはどんどん上がっていくが、……困った問題が。
どこで息をしていいのかわからない。
唇が離れた瞬間にしようとするのだが、開きかけたときにはもう触れている。
とうとう耐えられなくてぷはっと息をしたタイミングで、彼の唇が深く交わった。
ぬるりと肉厚なそれが私の中に入ってきて、思わず目を開いて白黒させていた。
けれど眼鏡の下で少し難しそうに眉間にしわを寄せる彼が見えて、なぜか満足してまた目を閉じる。
肩を掴んでいた彼の手はそのうち私の頭を掴み、ぐしゃぐしゃに髪を乱していく。
最初はされるがままだった私も気づいたときには、夢中になって彼を求めていた。
随分経って唇は離れたが、ふたりのあいだを細い銀糸が繋いでいる。
けれどすぐにぷつりと切れ、それが妙に淋しかった。
「……はぁーっ」
ふたり同時に深い息を吐く。
再び彼から、抱きしめられた。
「幸せすぎて頭がおかしくなりそうだ」
「私も、です」
幸せで幸せで、気持ちがふわふわする。
まるで膜が一枚取れたかのように、景色が綺麗に見えた。
恋ってこんなに素敵な気持ちになるんだ。
「できるならずっと、こうしていたい」
まるで私を離さないかのように彼の腕に力が入る。
私だってできるなら、ずっとこうしていたい。
けれど彼はきっと、そのうち会社からも私の元からも去っていくのだろう。
初めての恋がこんなに切ないなんて思いもしなかった。
一緒にいられるあいだは、できるだけ笑っていよう。
私が彼を全力で幸せにするんだ。
そうしたら気持ちが変わって事情も変わるかもしれない。
それでもやはり離れなければならなくなっても一生、忘れられない存在になって彼の心に住み続けたい。
「龍志」
「ん?」
「愛しています」
彼の背中を包み込むように抱き、その肩に頭を預ける。
「俺も七星を愛してる」
龍志のどきどきと速い心臓の鼓動が私に伝わる。
きっと同じように速い私の鼓動も彼に伝わっている。
ずっとこの幸せな時間が続けばいいと、願った。