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第56話

「今日は楽しかった。

ありがとう」


私の部屋の前で彼が唇を重ねてきて、まだ慣れていない私はあっという間に顔が熱くなる。


「えっ、あっ、私も楽しかった、……です」


おかげでつい、しどろもどろになっていた。


「よかったらだが。

風呂入ったらこっちに来ないか」


そっぽを向いて照れくさそうに聞かれ、さらに慌ててしまう。


「あっ、えっと、その、……はい」


「じゃあ、待ってる」


もう一度、私と唇を重ねて彼が中に入るように促すので、ドアを開けた。


「じゃ、じゃあ、またあとで」


曖昧な笑顔で中に入り、ドアを閉めたところでその場にずるずると座り込んだ。

いや、今までだって、昨日もエステとマッサージで沈められてそのまま一緒に寝ていた。

いまさらなにを意識する必要があるのだと思うが、それでも改めて一緒に寝るとなるとなんか叫び出しそうになる。


「……とりあえず、お風呂入ろう」


うんうん、話はそれからだ。


別にそういう行為をするわけではないのに、無駄に身体を磨き歯も磨いた。


「うーん」


自分のパジャマのラインナップを見ながら唸り声が出る。

今まで適当なダサTシャツにジャージなんて格好でお隣におじゃましていたのでもうどんな格好しようと無駄なのだが、それでもせっかくなら可愛くしたい。

が、何度見ようと私の衣装ケースの中には、よれよれになったTシャツとディスカウントスーパーで買った激安のジャージしか入っていなかった。


「……これは今後の課題ってことで」


その中でも比較的、綺麗なものを選び出す。

今日、せっかく買い物に出たんだし、可愛いルームウェアやパジャマの一枚や二枚、買っておけばよかったと後悔した。


あんなに何度も無遠慮に来ていたというのに、ドアの前に立って緊張した。

どくん、どくんと心臓が自己主張を繰り返し、水分も摂りすぎない程度に補給してきたのに喉が渇く。

せっかくあんなに綺麗にした身体も汗を掻いて、もう一度、部屋に帰ってシャワーを浴びようかとすら思った。

しかしあまり待たせては私の気分が変わったと思われそうで、ぶるぶると震える指でおそるおそるインターフォンを押した。


「はい」


すぐに中から当然ながら龍志の声が返ってくる。


「井ノ上……デス」


私が名乗ると同時に慌てたようにガチャリと勢いよくドアが開いた。


「なんで今日はインターフォン押してるんだよ?」


促され、部屋に入れてもらう。


「あー、……なんとなく?」


曖昧な笑顔でそれに返す。

ずっと「おじゃましまーす」

ってだけで勝手にもらった鍵で入ってきていたので、不審に思われても仕方ない。

しかし今日は、なんかそうやって気軽に入るのが憚られたのだ。


「まー、いいけどよ」


おかしそうに笑う彼もすでにお風呂に入ったのか、いつものスエット姿になっている。


「なんか飲むか?」


その気なのかすでに彼は冷蔵庫を開けていた。


「あっ、大丈夫、……デス」


ソファーに座りながら、なぜか語尾はぎこちなく小さくなって消えていく。

さっき、無駄に汗を掻いたので水分を摂ったほうがいい気もするが、それどころじゃないくらいカチコチになっていた。


「そうか」


彼は冷蔵庫から自分の分の、炭酸水の小さな缶を掴んできて私の隣に座った。

それだけで飛び上がりそうになって身体がびくりと大きく震える。

カシュッと彼がプルタブを起こす音が妙に耳についた。

そのままごくごくと一気に中身を喉に流し込み、彼がぷはーっと息をつく。

そのあいだ、なにもできずにソファーの上で身を固くして小さくなっていた。


「なあ」


テーブルの上にカツンと缶を置き、彼が声をかけてくるだけで怯えたように身体が震える。


「なんでさっきから、黙ってんの?」


彼の手が私の顎にかかり、自分のほうを向かせる。

レンズ越しに目のあった彼は妙に艶っぽい瞳をしていた。

いや、お風呂上がり、雑に乾かされた髪、冷め切らずにまだ僅かに上気した頬。

それらすべてが彼をいつもよりも何倍も色っぽく見せていた。


「えっ、あっ、そのぅ」


みっともなく声が裏返る。

視線はあわせられず、きょときょととせわしなくあちこちを向いた。

さらに目にはうっすらと涙が浮いてくる。


「別に取って喰うわけじゃないんだし、そんなに怯えなくていいんじゃないか」


すーっと彼の目が細くなり、さらに色香が増す。

心臓は連打される太鼓のごとくなり、目の前がぐるぐると回った。


「そんなに可愛いと……」


彼の顔が私へと近づいてくる。


「……キス、したくなるんだけど?」


甘い重低音で鼓膜を揺らされ、それだけで頭がじんと痺れた。

私と視線を結び、ゆっくりと離れていく彼の顔をただ見つめる。

元の姿勢に戻した彼はまるでキスしたあとかのようにねっとりと自分の唇を舐めた。

その瞬間、CPUの稼働限界を超え、廃熱が追いつかなくなった私は……強制的にシャットダウンされた。


「……せ。

おーい、七星ー」


龍志の声が聞こえてきて目を開ける。

気づけば私は彼に膝枕されていた。


「えっ、あっ、すみません……!」


ありえない体勢なのが恥ずかしくて、大慌てで起き上がる。


「いや、いい」


私が完全に自分から離れたのを確認し、彼はソファーから立ち上がった。

そのまま冷蔵庫へ行って先ほど自分が飲んでいたのと同じ炭酸水を掴み、戻ってくる。


「びっくりしたぞ、茹で蛸みたいになったかと思ったら、いきなりぶっ倒れるから」


「……スミマセン」


くすくすとおかしそうに笑われ、申し訳なくなって小さくなった。


「いや、俺も揶揄いすぎたと思うし」


ぽすっと何気なく私の隣に座り、彼が缶を開けて渡してくれる。

それを受け取り、二、三口飲んで気持ちを落ち着けた。


「龍志は意地悪です。

私は恋愛初心者なんだから、少しは手加減してくれても」


また目をあわせるとなにをされるのかわからなくて、缶を見つめながら抗議する。

自分の反応が二十六歳社会人女子にあるまじきものだというのはもう、自覚していた。

いや、ウブな高校生でもここまで酷くないだろう。

あれか、この年まで恋愛経験ゼロなんて拗らせていたせいで、いろいろおかしいのか?


「んー、わかってるんだけど七星の反応がいろいろ可愛くて、つい揶揄ってしまうんだよなー」


やはり彼はおかしそうに笑っていて、ついじとっと不満げに睨んでいた。


「ごめんごめん」


そんな私に気づき彼は口では謝ってきたが、そのままちゅっと軽く私と唇を重ねてくる。


「ぴゃっ!」


だから揶揄われるのだとわかっていながらも、奇声を発して反応してしまう。

そんな私をまた彼はおかしそうに笑った。

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