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第十二章憧れの上司は会長でした

第59話

朝、目が覚めると龍志の顔が見えた。

なにが楽しいのか肘枕で私の顔を見ている。


「おはよう、七星」


目尻を下げて本当に幸せそうに笑い、彼はちゅっと私と軽く唇を重ねてきた。


「お、おはようございます……」


なんとなく気まずくて、声は小さくなって消えていく。


「てか、なにしてるんですか?

そもそも眼鏡をかけていないんなら、なにも見えないのでは?」


「んー、そーだなー」


彼は起き上がり、大きく伸びをして眼鏡をかけた。


「これくらいの距離ならだいたいわかるかな。

さすがに唇下のほくろまでは見えないが」


そういうものなのかと納得しつつ、私ももそもそと起き上がる。


「それにやっぱり、なにも通さないで直に俺の目に可愛い七星の顔、焼き付けておきたいからな」


片方の口端を上げて彼がにやりと笑う。

とうとう耐えられなくなって枕を掴み、彼をバンバン叩いていた。


「うおっ!

や、やめろ!」


慌てて龍志が私を止めてくる。

その頃には少し気持ちも落ち着き、手を止めていた。


「りゅ、龍志が朝から、か、可愛いとか……!」


「うんうん。

わかった、わかった。

そうやってすぐに照れて恥ずかしがる七星も滅茶苦茶可愛くて、仕事に行きたくなくなるけどな」


「えっ、あっ」


彼がぎゅーっと私を抱きしめてきて、はくはくと意味をなさない言葉を発する。

そんな私の顔をのぞき込んでまたちゅっと口づけして彼が嬉しそうににかっと笑い、私はとうとう頭からふしゅーっと湯気を吐き出してフリーズしていた……。


朝ごはんはいつもどおり、おにぎりと具だくさんのお味噌汁だった。

龍志のほうはこれに厚揚げと作り置きのお惣菜がついている。


「なー、帰りにあれだったら家具屋、寄らないか?」


「……ハイ?」


お味噌汁を啜りながら彼がなにを言っているのか理解できず、お行儀悪く箸を咥えたままその顔を見ていた。


「せっかく七星と一緒に寝るんだったら、もっといいベッドがいいし。

それにもう一回り大きいベッドなら入ると思うんだよな」


いいベッドについては意味がわからないが、大きいベッドはちょっとわかる、かも。

龍志は背が高いからその分、肩幅とかもあるし、私もお世辞にも小柄とはいえない。

そんなふたりがセミダブルのベッドで一緒に眠るとか無理があるわけで。

彼は私を壁側にしてくれるから私は落ちる心配はないが、彼としては安心してぐっすり眠れないのかもしれない。


「いいですよ」


「ほんとか!?」


彼は若干、食い気味だけれど、なにをそんなに興奮することがあるのだろう?


「今日は早めに仕事、終わらせろよ。

俺も終わらせるし」


なんだか龍志はご機嫌で、ちょっと笑っていた。


今日の服は少し悩んで、龍志が買ってくれたチェックのスカートとマスタード色のニットにした。


「龍志ー、ちょっとだけメイクとヘアセット、手伝ってもらえますか?」


「おー、いいぞー」


着替えて隣の部屋へ行って声をかけるとすぐに龍志が承知してくれてほっとした。


「ここ座れー」


言われて、テーブルの前に座る。

龍志が持ってきたのはいつもの凄いメイク道具ではなく、持ち運びできそうな小さなボックスだった。


「七星は基礎はちゃんとできてるから、そこはいじらないでいいから楽だな」


てきぱきとメイク用品を龍志が広げていく。


「ただ、色を乗せるのが苦手というか、怖い?」


それには聞かれてうんうんと頷いていた。

自分でやるとやりすぎになりそうで怖いのと、私には似合わない気がしていつも控えめにしていた。


「ちょっとずつ乗せて調整していったらいい。

あと、はっきりした色じゃなくてピンクブラウンとか肌に近い色は多少濃くなってもさほど派手じゃない」


少しずつといいながらも彼は一、二度でバチッと決めていて、やはり凄い。

メイクが終わったあとは髪に移る。


「前に流行った、くるりんぱなら簡単で可愛くなる」


私のいつものひとつ結びに彼がちょっと手を加えるだけで華やかになった。


「まあ、ゴムが見えないで自然に見えるようにするにはちょっとコツがいるんだが、それは追い追い教えていくな」


「ありがとうございます!」


今日の私はいつもの硬いイメージではなく、憧れの職場の先輩感がある。

ちょっと変えるだけでこんなに違うのなら、もっといろいろやってみたいな。




新作発表会が終わり、仕事は閑散期に入った。

とはいえ、毎日忙しいのにはあまり変わりはないけれど。


「じゃあ、これはそれで」


「わかりました」


私の指示を聞き、由姫ちゃんが頷く。

話も一段落し、マグカップを手に取って渇いた喉にすっかり冷めたコーヒーを流し込む。


「井ノ上先輩。

もしかして宇佐神課長と結婚、したんですか?」


「うっ!」


うかがうように周囲を見渡したあと、こっそりと由姫ちゃんに耳打ちされて、飲んでいたコーヒーを噴き出しそうになってかろうじて耐えた。


「ごほっ!

ごほっ、ごほっ!」


……のはいいが、おかげで変なところに入ってしまい、盛大に咽せる。

そのせいで周囲の視線を集めてしまった。

大丈夫だと曖昧に笑ってみせ、どうにか息を整える。


「大丈夫ですか、先輩?」


「だ、大丈夫」


彼女は心配そうだが、原因を作ったのは変なことを言い出したあなたですが?


「てか、なんでそんなことになるの?」


小さく深呼吸して気持ちを落ち着け、由姫ちゃんを見上げる。

目のあった彼女は意外そうに何度か、瞬きをした。


「なんでって、それ」


彼女の指が、私の左手薬指を指す。

そこには龍志からもらった指環が嵌まっていた。


「先輩だけなら確証が持てないですが、宇佐神課長もおそろいの指環、してたので」


「うっ」


そうだった、龍志も昨日買った指環をして出勤しているんだった。

そりゃ、前から私と彼が付き合っているとみんな知っていて、イベントであんな騒ぎまであれば結婚したんじゃないかと疑われても仕方ない。


「あー、……結婚は、してない」


「どういうことですか」


書類を抱いたまま、由姫ちゃんが顔を近づけてくるのでつい、背中が仰け反った。


「いろいろ事情があっ、て」


どうにか笑って誤魔化そうとするが彼女は真剣な表情で迫ってきたままで、気まずくて視線を逸らしていた。


「どこからどー見ても宇佐神課長、井ノ上先輩を溺愛していて、しかもこんな指環までして結婚はしてないってどーゆーことですか」


「な、なんでだろー、ね……」


由姫ちゃんの追及の手は緩まず、怖い。

目を逸らしたままだらだらと変な汗を掻いた。


「それにイベントのとき、ルナさんが宇佐神課長と結婚するとか言っていたあれ、なんなんですか」


「あー、いやー」


私の返事が歯切れ悪いものだから、とうとう由姫ちゃんははぁーっと大きなため息をついた。


「わかりました」


ようやく諦めてくれたのかとほっと息をついたのも束の間。


「この件についてはきっちり今晩、一緒に食事に行って説明してもらいます。

いいですね?」


「え、えっと……」


なんだかわからないが由姫ちゃんの圧が凄くて、たじろいでしまう。


「いいですね?」


戸惑っている私にさらに、彼女が念押ししてくる。

おかげで。


「……はい」


承諾の返事をしていた。

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