「オフタサマとは、ご家族の間だけで信仰している神様なんですか?」
万里江と呼ばれた女性は、「ええ、まあ」と曖昧に頷いた。おそらく一家の母親だろう。親切ではあるが、必要最低限の会話しかしない。今も橘たちを置いてゆく勢いで先を歩いてゆく。橘は女性の背に向かって語り掛けた。
「素晴らしいですね、ご先祖の神様を家族全員で今でも大事にしていらっしゃるなんて」
「……そうですね」
「この辺りでは、各家庭にそれぞれ神様がいらっしゃるんですか?」
「どうでしょう、
案の定、母親は語尾を濁すばかりだ。チャンス、とばかりに橘は切り出した。
「ご家族は何人いらっしゃるのですか?」
「――七人です」
「七人! 大家族ですね」
答えにくい会話の後に話題を変えると、プレッシャーから解放された反動か、自然と会話が弾む。オフタサマの話題を免れ安心したのか、母親が軽やかに続けた。
「さっきのお祖母ちゃん、姑です。それと私たち夫婦と、子供が四人」
「お子さんが四人。にぎやかでいいですね。道理でお宅も大きいわけだ」
「我が家が建設業を営んでいるというのもありますが、子供たちが大きくなって個室を欲しがるようになりましてね。増改築を繰り返しているうちに、この通り」
母親はまんざらでもない様子で背後の大きな家屋を振り返った。
「兄弟が四人もいらっしゃると大変でしょう」
「ええ、まあ。ただ、年が離れていますのでね。意外と上の子が下の子の面倒を見てくれるんですよ」
自分の得意分野に話題が及んだせいか、母親は快活に続けた。
「七人家族ともなると食事の準備も、洗濯も、お風呂の準備も、すべて大がかりです。でも娘が二人いますからね、何かと働いてくれます」
運転手から話の聞けなかった少女たちのことかと思い、話を促した。
「お嬢さんが二人いらっしゃるんですね」
「ええ、長男が大学生、長女が家事手伝いをしていまして、次女が高校生。末っ子がまだ小学生です。あ」
池にかかる橋から、少女がやってくるところだった。手に木の盆を持っている。
「ちょうど話していた、長女の
こちらに気付いた少女が、視線を橘に張り付けたまま、首を折るようにして会釈した。
真っ黒な黒髪を一つに括った、色白の女の子だった。手足が華奢で、盆を持つ手首が折れそうに細い。着古したパーカーにジーンズという、中高生のような服装をしている。
「オフタサマのお昼ごはん? ちょっと遅いんじゃない?」
「ご飯がほとんど残っていなかったから炊いたの。冷めるのを待っていたら遅くなっちゃった」
「そう」
それならば仕方ない、とでも言うように、母親がしかつめらしく頷いた。
二人の会話に、すっかり面食らってしまった。
橘の実家にも屋敷神様がいて、毎朝、母親がお膳を供えていた。昼前になるとその器を回収し、洗って翌朝に備える。雨や雪の降る朝は、外に出るのを嫌がる母が「お
それが、どうやら菅野家では朝、昼、晩の三食を供えているらしい。
しかも、ご飯がなければ新たに米を炊いて準備しているようだ。
橘家ではご飯がなければ生米を供えたり、時には食パンを小さく切って供えたりした。今思えば、家族とまるで同じ物を食べていた、庶民的な屋敷神だった。菅野家の人間からしたら、言語道断だろう。
「……お客さま?」
伊智子におずおずと尋ねられ、橘は我に返った。
「民俗学を研究している橘さんと、ええと」
ミズキを見て口籠る母親を遮り、橘が続けた。
「橘です。こちらは研究を手伝っている後輩のミズキです。突然お邪魔してすみません。お祖母さまにオフタサマのことを教えてもらい、見にきました」
「橘」と名乗った瞬間、伊智子の肩が跳ねたのを見逃さなかった。手紙をくれたのは、きっとこの子だ。
「オフタサマを見せてもいいの……?」
伊智子が不安そうに母親の顔を見上げる。家族の誰もが「オフタサマ」を恐れ敬っているのが伝わってくる。
「遠くから見るだけ。橘さん、ほら見えます? 池の中州にある祠。あの中にオフタサマがいらっしゃいます」
橋の手前から、ミズキと揃って池の中央を見る。
小さな中州に、石の台座の上に立てられた祠が見えた。
高さは百五十センチほどか。朱色の
ご神体の前には、水と湯飲みと、伊智子が今供えたばかりの膳が見えた。
「ええ、見えます。お着物を纏っている二体の神様ですね」
橘が慎重に表現すると、「そうです」と母親が頷く。
「珍しい。二体とも女性、ですか?」
どちらも、女性ものの赤い着物を着せられている。ひな人形のように男女ペアではないようだ。
そうなんです、と母親が頷く。
「この家に尽くした二人の女性の神様だと言い伝えられています。決して手を触れてはいけないんです。私たち家族でさえ」
ねえ、と母親が伊智子に向かって同意を求める。伊智子が小さく頷いた。
「手を触れた者は、命を落とすと言われています。四年前、うちに出入りしている庭師の幼い息子がうっかり触ってしまって……。その後、足を滑らせて落ちたんでしょう。池の中で死んでいるのが見つかりました」
かわいそうに、と母親が頬に手を当てる。
「この池で……?」
――この池で溺死?
橘は池を覗き込んだ。それほど深さがあるだろうか……水藻が張っていて池の底がよく見えない。落ちる時に頭でも打ったのだろうか。
「気の毒に」
「ええ、本当に。とても庭師の顔を見られませんでした。――でも、幼い子供を職場に連れてくるっていうのもどうなんでしょう。仕事ですからずっと見守っているわけにもいきませんし」
「まあ、そうですね」
もう思い出したくない、といったように母親がかぶりを振る。
「そういうわけで、オフタサマのお世話は娘たちにしかさせないんです」
「そう、え……?」
同意しかけて、我に返った。あまりにも自然な流れで言われて、うっかり頷くところだった。
――この母親は、どういう意味で言ったのだろう。
娘たちはオフタサマの恐ろしさをよくわかっているから、慎重に行動できるという意味だろうか?
それとも、死ぬのが娘だったら、まあ仕方がないとでも……?
母親の隣で、伊智子が虚ろなまなざしで立っている。普段から言われ慣れているのだろう、傷ついた様子もない。
「それ、どういう意味? 娘だったら死んでもいいってこと?」
ミズキの悪びれない問いに、母親が面倒くさそうに顔を逸らした。
伊智子は相変わらず、ぼんやりと虚空を見ている。