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第16話 存在しない家族

「オフタサマとは、ご家族の間だけで信仰している神様なんですか?」


 万里江と呼ばれた女性は、「ええ、まあ」と曖昧に頷いた。おそらく一家の母親だろう。親切ではあるが、必要最低限の会話しかしない。今も橘たちを置いてゆく勢いで先を歩いてゆく。橘は女性の背に向かって語り掛けた。


「素晴らしいですね、ご先祖の神様を家族全員で今でも大事にしていらっしゃるなんて」

「……そうですね」

「この辺りでは、各家庭にそれぞれ神様がいらっしゃるんですか?」

「どうでしょう、他所よその家のことは、ちょっとよくわかりません……」


 案の定、母親は語尾を濁すばかりだ。チャンス、とばかりに橘は切り出した。


「ご家族は何人いらっしゃるのですか?」

「――七人です」

「七人! 大家族ですね」


 答えにくい会話の後に話題を変えると、プレッシャーから解放された反動か、自然と会話が弾む。オフタサマの話題を免れ安心したのか、母親が軽やかに続けた。


「さっきのお祖母ちゃん、姑です。それと私たち夫婦と、子供が四人」

「お子さんが四人。にぎやかでいいですね。道理でお宅も大きいわけだ」

「我が家が建設業を営んでいるというのもありますが、子供たちが大きくなって個室を欲しがるようになりましてね。増改築を繰り返しているうちに、この通り」


 母親はまんざらでもない様子で背後の大きな家屋を振り返った。


「兄弟が四人もいらっしゃると大変でしょう」

「ええ、まあ。ただ、年が離れていますのでね。意外と上の子が下の子の面倒を見てくれるんですよ」


 自分の得意分野に話題が及んだせいか、母親は快活に続けた。


「七人家族ともなると食事の準備も、洗濯も、お風呂の準備も、すべて大がかりです。でも娘が二人いますからね、何かと働いてくれます」


 運転手から話の聞けなかった少女たちのことかと思い、話を促した。


「お嬢さんが二人いらっしゃるんですね」

「ええ、長男が大学生、長女が家事手伝いをしていまして、次女が高校生。末っ子がまだ小学生です。あ」


 池にかかる橋から、少女がやってくるところだった。手に木の盆を持っている。


「ちょうど話していた、長女の伊智子いちこです」


 こちらに気付いた少女が、視線を橘に張り付けたまま、首を折るようにして会釈した。


 真っ黒な黒髪を一つに括った、色白の女の子だった。手足が華奢で、盆を持つ手首が折れそうに細い。着古したパーカーにジーンズという、中高生のような服装をしている。


「オフタサマのお昼ごはん? ちょっと遅いんじゃない?」

「ご飯がほとんど残っていなかったから炊いたの。冷めるのを待っていたら遅くなっちゃった」

「そう」


 それならば仕方ない、とでも言うように、母親がしかつめらしく頷いた。


 二人の会話に、すっかり面食らってしまった。

 橘の実家にも屋敷神様がいて、毎朝、母親がお膳を供えていた。昼前になるとその器を回収し、洗って翌朝に備える。雨や雪の降る朝は、外に出るのを嫌がる母が「お稲荷いなりさんに上げてきて」と橘にお膳を渡してきた。


 それが、どうやら菅野家では朝、昼、晩の三食を供えているらしい。

 しかも、ご飯がなければ新たに米を炊いて準備しているようだ。


 橘家ではご飯がなければ生米を供えたり、時には食パンを小さく切って供えたりした。今思えば、家族とまるで同じ物を食べていた、庶民的な屋敷神だった。菅野家の人間からしたら、言語道断だろう。


「……お客さま?」


 伊智子におずおずと尋ねられ、橘は我に返った。


「民俗学を研究している橘さんと、ええと」


 ミズキを見て口籠る母親を遮り、橘が続けた。


「橘です。こちらは研究を手伝っている後輩のミズキです。突然お邪魔してすみません。お祖母さまにオフタサマのことを教えてもらい、見にきました」


「橘」と名乗った瞬間、伊智子の肩が跳ねたのを見逃さなかった。手紙をくれたのは、きっとこの子だ。


「オフタサマを見せてもいいの……?」


 伊智子が不安そうに母親の顔を見上げる。家族の誰もが「オフタサマ」を恐れ敬っているのが伝わってくる。


「遠くから見るだけ。橘さん、ほら見えます? 池の中州にある祠。あの中にオフタサマがいらっしゃいます」


 橋の手前から、ミズキと揃って池の中央を見る。


 小さな中州に、石の台座の上に立てられた祠が見えた。

 高さは百五十センチほどか。朱色の切妻屋根きりづまやねの祠で、紙垂しでの奥に二体のご神体が見える。

 ご神体の前には、水と湯飲みと、伊智子が今供えたばかりの膳が見えた。


「ええ、見えます。お着物を纏っている二体の神様ですね」


 橘が慎重に表現すると、「そうです」と母親が頷く。


「珍しい。二体とも女性、ですか?」


 どちらも、女性ものの赤い着物を着せられている。ひな人形のように男女ペアではないようだ。

 そうなんです、と母親が頷く。


「この家に尽くした二人の女性の神様だと言い伝えられています。決して手を触れてはいけないんです。私たち家族でさえ」


 ねえ、と母親が伊智子に向かって同意を求める。伊智子が小さく頷いた。


「手を触れた者は、命を落とすと言われています。四年前、うちに出入りしている庭師の幼い息子がうっかり触ってしまって……。その後、足を滑らせて落ちたんでしょう。池の中で死んでいるのが見つかりました」


 かわいそうに、と母親が頬に手を当てる。


「この池で……?」


 ――この池で溺死?

 橘は池を覗き込んだ。それほど深さがあるだろうか……水藻が張っていて池の底がよく見えない。落ちる時に頭でも打ったのだろうか。


「気の毒に」

「ええ、本当に。とても庭師の顔を見られませんでした。――でも、幼い子供を職場に連れてくるっていうのもどうなんでしょう。仕事ですからずっと見守っているわけにもいきませんし」

「まあ、そうですね」


 もう思い出したくない、といったように母親がかぶりを振る。


「そういうわけで、オフタサマのお世話は娘たちにしかさせないんです」

「そう、え……?」


 同意しかけて、我に返った。あまりにも自然な流れで言われて、うっかり頷くところだった。


 ――この母親は、どういう意味で言ったのだろう。

 娘たちはオフタサマの恐ろしさをよくわかっているから、慎重に行動できるという意味だろうか? 

 それとも、死ぬのが娘だったら、まあ仕方がないとでも……?


 母親の隣で、伊智子が虚ろなまなざしで立っている。普段から言われ慣れているのだろう、傷ついた様子もない。


「それ、どういう意味? 娘だったら死んでもいいってこと?」


 ミズキの悪びれない問いに、母親が面倒くさそうに顔を逸らした。


 伊智子は相変わらず、ぼんやりと虚空を見ている。


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