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第18話 存在しない家族

 無言で進む次女について、また庭の池をぐるりと回った。


 改めて見ても、大きな庭だ。京都の寺院を思わせる。

 池のほとりには様々な樹木が植えられており、四季折々に景色を彩るのだろう。ドウダンツツジが色づいたら、きっと美しいのだろうなと思いを馳せつつ、どうしても全体の重い空気が拭えない。

 暗くなり始め、池の水面が黒く見えた。


「橘と言います。こちらは助手のミズキ。お名前を伺っても?」


 無言を貫く背中に向かって問いかけると、次女はぴたりと歩みを止め振り返った。


菅野二湖かんのにこです」


 首を折るようにして頭を下げ、挨拶は終わったとばかりに祠へと向かう。橘たちは、また灯篭の位置で立ち止まり、オフタサマへお供えをする二湖の背中を見守った。


 長女同様、口数の少ない子だ。もし手紙を出したのが二湖ならば、今が名乗り出るのに絶好の機会ではないだろうか。名乗らないのなら、やはり手紙の差出人は伊智子か。


 長い目礼の後、二湖が橋を戻ってくる。

 とぼけられても構わないと思い、切り出した。


「手紙をくれたのは二湖さん?」


 二湖はまっすぐに橘とミズキを見据えた。姉と同様、はい、とも、いいえとも答えない。


「私と、お姉ちゃんとで」

「そう、二人で。ありがとう。確かにすごいね、『オフタサマ』」


 どうして差出人を書かなかったのかは、聞かなかった。あまり話したくなさそうに見えた。


「さっき、毎日三食オフタサマにお膳をあげているって聞いたよ。うちにも屋敷神様がいたけど、お供えは朝の一食だけだった」

「三食と、夜寝る前にお膳を下げてお飲み物を供えます」

「へえ。人間みたいだ」


 それも高齢の――。最後の一言は口には出さず、オフタサマについて続けて訊いた。


「それって毎日だよね? オフタサマの世話は姉妹二人でやっているって聞いたよ。大変じゃない? それも、手を触れたら死ぬって」


 ぷっと、二湖が口の中で小さく噴き出した。初めて、表情を崩した。


「死にませんよ。私、昔触ったことありますもん。祠に入ってしまった落ち葉を取り払おうとして、うっかり。でもこの通り」


 生きてます、と二湖が両手を広げて見せる。言葉の端々から、控えめにだが、家族ほどオフタサマを信仰していないことが伝わってくる。


「さっきお母さまからこの池で死んでしまった子供がいると聞いてね。びっくりしたんだ」


 二湖が目を瞠り、痛々しそうに顔を顰めた。


「あれは……事故です」

「事故……そうだよね。俺も正直、触れただけで死ぬなんて信じられなくて……。そう、触っても平気なんだね」

「でも家族はみんな、触ったら死ぬって本気で信じてます。だから、私たち姉妹にしかオフタサマの世話をさせないんです」

「……そのようだね」


 居たたまれない気持ちになり、先に視線を外す。親に優先順位をつけられるのはどういう気分だろう。ただの贔屓ひいきなんかでなく、死んでも仕方がないと思われるなんて――。


「君たち二人がこの家を出ることになったら、お母様がお世話をするのかな?」

「出てゆきませんよ」


 当然、とばかりに二湖が首を振る。


「もちろん、すぐにではないけど。伊智子さんも働きに出るかもしれないし、二湖さんも高校生だろう? 県外の大学とかは考えていないの?」

「考えてないです。大学には行きません」

「そう」


 きっぱりとした言い方に「勉強はもうこりごりだ」などと続くのかと思った。しかし、違った。


「行かせてもらえません」

「え?」

「大学には行かせてもらえません。女に学歴は必要ないって」

「誰が、そんなことを言うの?」

「祖母と父が」


 頭から冷水を浴びせられた気分だ。そんな時代錯誤なことを面と向かって言う父親が現実にいるとは。


「――でも、いずれ就職したり、一人暮らしすることになるかもしれないだろう? そうなったら」

「就職も、ないです。私たちはオフタサマのお世話をしないといけないから。……そうですね、慶太が嫁を貰ったら、その人に代わって私たちはお役御免になるかな」


 明治時代の話か……? 十代の少女が、「長男が嫁を貰ったら」などと言うなんて。「お役御免」などと言うなんて。


「お役御免って、そんな」

「私たちの名前、『伊智子いちこ』と『二湖にこ』っていうんですよ」

「うん、聞いたよ」

「本当は『一子いちこ』と『二子にこ』になる予定だったんですって。でも、それではあまりにも可哀想だからって、お母さんが適当な漢字をあてたそうです。つまり私たちは、ただの働き手なんですよ、この家にとって」

「そんなこと、ないよ」


 橘のその場しのぎの慰めに、二湖が怒ったように言葉をかぶせた。


「私たちは慶太を助け、この家のために働かないといけないんです!」


 話は終わりだとばかりに、二湖が踵を返す。橘とミズキを置いて、走るように速足で帰ってゆく。

 こんなに希望のない若者は、見たことがなかった。

 同じ時代に生きているとは思えない。




 夕食のテーブルには大皿の料理が何品も並び、母親と姉妹いちこたちが、終始忙しそうに立ち働いていた。


 上座には脚の悪い祖母が、その隣に長男、末っ子、向かい側に橘とミズキの席が準備されていた。家長である父親はいつも帰りが遅く、今日も深夜になるだろうと母親が言っていた。


 緊張のためか末っ子は三分とその場に座っておられず、少し食べては台所の母親にまとわりついていた。名は悦郎えつろうといった。小学三年生になると言う。


「悦郎くん、初めまして。お邪魔しています」

「……」


 視線を合わせると、照れた悦郎が無言のまま席を立った。台所で立ち働く、母親の脚にまとわりつく。父親似だろうか、長兄と違ってふっくらと体格がよく、眉も逞しい。けれど、歳のわりに行動が幼い印象を受けた。


 母親が悦郎を席に座らせ、甲斐甲斐しくおかずを口に運んでやって、また台所へ戻ってゆく。それでも悦郎の辛抱は三分と持たない。


「お母さんがいなくて寂しんだっちゃ。万里江さん、少し隣にいでやったらいいさ」


 祖母に促され、母親が苦笑しながら悦郎の隣に腰を下ろす。

 誰も悦郎のふるまいを叱る者はいない。兄妹たちと歳が離れているせいか、だいぶ甘やかされているようだ。


 料理の皿が空くと、伊智子と二湖が代わる代わる新しい料理を運んできた。いつまでたっても二人が席に着く様子はなく、思わず声を掛ける。


「伊智子さんたちは食べたの? さっきからずっと立ちっぱなしじゃない」

 伊智子が黙って首を振る。ここに座れと、ミズキとの間のスペースを指すと、祖母が「いいんだっちゃ」と遮った。「いいんだっちゃ」とは、「いいね」だろうか、「いいから構うな」だろうか……。


「適当にやるから、構わねで」

「……」


 伊智子と二湖は一言も発さない。祖母は、二人の姿を見もしない。

 すでに伊智子は台所に引っ込んでいた。


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