村を離れて市街地まで出て、国道沿いのコンビニで明るくなるまで待った。
早朝にようやく一台のタクシーを捕まえ、仙台駅へと向かう。
雨はいよいよ本降りになり、仙台駅に着く頃にはバケツをひっくり返すような勢いになっていた。タクシーのフロントガラスに、滝のような水のカーテンが出来ている。
「お客さん、この様子だと新幹線、動いていないかもしれませんよ」
「そうですね」
行きとは違って標準語のドライバーに礼を言い、駅のロータリーでタクシーを降りた。
仙台駅は、早朝にもかかわらず、豪雨で足止めをされた人間で混み合っていた。みな濡れネズミになり、不安そうに電光掲示板を見たり、駅員に問いかけたりしている。
急ぎの予定もなかったので、橘は気長に構えた。構内の外れのベンチに陣取り、新情報が流れるまで一仕事しようと、パソコンを開く。
ミズキが隣に腰を下ろし、聞えよがしに独り言をつぶやいた。
「数年後、どうするのかな」
「……何? 何の数年後?」
「あの姉妹だよ。数年後にはどうするのかな。慶太の嫁が来たら用なしだろ? 用がなくなったら無駄にメシを食うだけの人間になる。そうしたらあの一家にとって、ただの邪魔者だ」
「……」
「あんなに働いているのに、あの扱いだ。きっと役目がなくなったら、相当酷い扱いを受けるだろうな。酷い扱いならまだしも、もしかしたら……」
「おい、何が言いたいんだよ」
遠まわしな言い方に、横目でにらむ。
「殺されちゃうかもな。オフタサマに触った少年みたいに」
「……戻れっていうのか? 言いたいことがあるならはっきり言え」
「別に? あのまま放っておいていいのかなって。いつもは
ついにミズキも他人のこと心配できるようになったのだと妙な感動も憶えていた。しかも「何もしてやれることはない」と線引きをした自分より、ずっとずっと情に厚い。
「――やっぱり池で死んだ少年って、あの一家の仕業だと思う?」
「当たり前だ。あんな小さな池で溺れ死ぬわけがない」
「そうだよな……」
この台風の中、あそこへ戻り、何をすればいいのだろう。
まさか十代の少女二人を連れ出して逃げるわけにもいかない。我が家へ、日の出荘へ連れて帰るわけにもいかない。ミズキ一人ですでにいっぱいいっぱいなのに、異性の子をいったいどうしたらいいのだ。彼女らに何をしてやれる……?
「――もう、タクシーは捕まらないかもしれないぞ? ……雨の中相当歩くことになると思うけど平気か?」
「平気」
何をしてやれるかはわからない。けれど沸き上がる心の声を無視するわけにはいかない。
きっとあの娘たちの未来はない。
なんとかロータリーでタクシーを捕まえ、今来た道を戻る。先ほどコンビニで買った
近年
早くも引き返すことを後悔しそうになった。
「戻ってどうする? 姉妹を連れ出すのか? まさか、一家に姉妹も大事にしろなんて言えないぞ。俺たちが攻撃されるのがおちだ」
「日の出荘に一緒に帰ればいいじゃないか」
「一緒にって、お前……」
親のいる子、しかも十八に満たない子供を勝手に連れ出すのを、未成年者略取というのを知らないのか?
しかも彼女たちの学校、進路、生活費。役所への手続き関係に、周囲との交友関係、それに、橘の周囲への説明……。
とにかく、なるようになれと菅野家の前でタクシーを降りる。
雨は一層勢いを増し、風も強くなってきた。道路には早くも小川のような水流ができ始め、タクシーは亀のような速度で来た道を戻って行った。
車を降りた途端、一瞬で靴が重く水分を含む。
もはや意味をなさない合羽を掻き合わせ、ミズキの肩を引き寄せた。
「マジで危ないから。あまり離れるなよ!」
ミズキの返事は雨音にかき消された。
棟門は開け放たれていた。
中を伺うが、横殴りの雨で屋敷の様子がよくわからない。
植栽の陰からうかがうと、雨戸を閉め切り、みな中に籠って避難しているようだった。
そんな中――――
「何をやっているんだ!」
波立つ池の中、中州に佇む少女のシルエットが見えた。伊智子だ。
「何やってるんだよ! 池に落ちて死ぬぞ!」
ミズキも中州に向かって駆け出した。灯篭までの禁足は、守っていられなかった。
叩きつける雨で、池の表面がガラスの破片のように暴れている。水量もだいぶ増しているようだ。これでは本当に溺れ死ぬ人間がいてもおかしくない。
伊智子は何やら大判のビニールシートを祠に被せようとしている。家族に言いつけられたのか、自らそうしようとしたのか、祠に被さるようにして必死にオフタサマを守っていた。
もはやカバーなど意味をなさない。強風に煽られ、オフタサマよりも伊智子自身が吹き飛ばされそうだ。
「伊智子さん! 危ないよ、屋内に」
「た、橘さん⁉ でも、オフタサマが、飛ばされないように……」
そう言う間にも、強風に煽られ伊智子の手にしていたビニールが吹き飛ばされる。
橘は伊智子の腕を引き、橋の欄干を持たせて姿勢を低くさせた。雨に殴られ、伊智子の顔は濡れた髪や葉っぱでぐしゃぐしゃだ。
「伊智子さんはオフタサマをどうしたいの! 結局、俺にどうしてほしかったの⁉」
「……」
伊智子が肩で息をする。
「オフタサマがなくなればいいなって考えていたんじゃないの? なくなれば自由になれると思ったんじゃないの? 『珍しい呪物がありますよ』ってほのめかせば、俺が勝手に盗んでいくとでも思った? 期待に応えられなくて申し訳ないけど、俺は引き取ってほしいと頼まれたり、買い取ってほしいと言われた物でないと引き受けないんだ。盗むなんてできないよ!」
伊智子が濡れた顔で見上げてくる。目が赤くなって、泣いているのがわかった――図星だ。オフタサマを持ち去ってほしくて橘たちを呼び寄せたのだ。
「伊智子さんは何が望みなの? オフタサマがなくなること? それとも、俺たちが犠牲になって、これからもオフタサマの恩恵を受けられること? どっち⁈」
伊智子の瞳が揺れる。――後者の考えも、少しはあったようだ。
「でも、俺たちが犠牲になったところで伊智子さんたちの待遇は変わらないよ‼ いつまでも菅野家の奴隷のままだ!」
ぐっと伊智子が下唇を噛む。これまでで一番感情がむき出しになった顔だった。心まで死んでいるわけではないようだ。
「オフタサマは、ただの人形だよ。触れたって死にやしないし、わかっていると思うけど生贄を与えたところで、特別な恩恵を与えてくれるわけでもない。菅野家が裕福なのは、会社の経営がうまくいっているからだよ。お父さんの働きが」
「うまくいってない!」
伊智子が声を張り上げた。
「会社はうまくいってない。経営が火の車だってお父さんが毎日愚痴ってる。だからそろそろオフタサマに新しい生贄が必要なんだって――」
――あの手紙を書いたのは、伊智子たちだろう。けれど手紙を送ったのは、この一家全員の総意だ。のこのことやってくる客が、生贄にちょうどいいと思っていたのだろう。
オフタサマという珍しい呪物を餌に呪物蒐集家を誘い込み、泊めてやると言って仕留める――
「伊智子さんは賢いからわかっているんだろう? 俺が死んだところで、会社の経営は上向かない。それどころか、経営者の家で
「け、警察には、お父さんのお友達がいて……」
伊智子の言わんとしているのかわかり、暗澹とした気持ちになる。そうやって、屋敷での少年の死を、事故死として片付けたのだろうか。
「それだけじゃない。もし俺の生贄では効き目がないとわかったら、次はどうなる? もっとたくさんの生贄が必要だとか、若い女の生贄でないといけないとか言い出すと思わないか?」
ははっ、とミズキがあざ笑う。「違いない」
伊智子が顔色を変える。
「ずっとこの馬鹿げた蛮行の共犯者になっていくのか? この辺で引き返さないと、人の道に戻ってこれなくなるぞ!」
青ざめた伊智子の目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちる。もともとは頭の良い子なのに、自ら考える力をずっと刈り取られてきたのだ。急に決断を迫られて、混乱している。
強風に煽られ、松の枝がばきばきと音をたてる。しなる枝がまるで怪物の四肢のようだ。どこかから飛んできたトタンの破片が、大きな音をたてて祠に当たった。
「オフタサマがっ!」
伊智子が振り返って再び祠に駆け寄ろうとする。
「伊智子さん、危ないから立たないで!」
トタンは祠の屋根の一部を剥がして池に落ちた。祠の内部が露わになる。
「オフタサマ、」
バケツをひっくり返したような雨が、容赦なくオフタサマに降り注ぐ。池は、まるで荒れた海のようにばしゃばしゃと波立っている。
「祠が」
伊智子が橘の手を振りほどいて中州へと戻る。
「伊智子さん、危ないから!」
「放っとけよ、人形なんか!」
強風が、さまざまな物を空に舞いあげている。伊智子に直撃しないとも限らない。
橘は庇うようにして伊智子に覆いかぶさった。背後のミズキの無事を確認して、手を翳してオフタサマの祠を見上げた。