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第22話 存在しない家族

 落ち葉や、どこかから飛んできた新聞にまみれ、オフタサマが雨に打たれていた。 

 着物がぐっしょりと濡れ、重みで下がって脱げかけている。着物の何枚かは、すでに風に飛んでしまったのか、ハンカチのような端切はぎれをまとった状態だった。


「触れたら死ぬ」などという迷信は、はなから信じていなかった。

 けれど、あまりの真相に言葉も出ない。

 端切れを纏ったオフタサマの正体は、ただの木の枝だった。

 布でくるんだ綿わたの塊を枝の先に刺し、それを頭部としていたようだ。頭に被せていたほっかむりや着物が吹き飛び、今や、畑に打ち捨てられた小さな案山子のような有様だ。――いや、案山子のほうがまだ立派だ。


「伊智子さん、見てごらん」


 ご神体などない、ただの枝きれだったのだ。


「これがオフタサマの正体だよ」

「……え、」


 橘の身体の下で、伊智子が顔を上げる。屋根の剥がれた祠を見て、瞬きを止める。

 雨が目に入るのも構わず、伊智子が目を見開いている。

 どんなに言葉を尽くして説得するよりも、効果があった。


「この棒きれみたいな人形のために誰かが死んだり、伊智子さんや二湖さんの人生が犠牲にされなくちゃいけないの? この棒きれのために、誰かの命を捧げなくちゃいけないの?」


 オフタサマを守ってこいとでも言われているのだろう。少女が一人で荒れ狂う嵐の中にいるというのに、家族の誰も迎えに来ようとしない。それどころか、雨戸を閉め切った屋敷は、中に人がいるのかどうかもわからないほどだ。

 伊智子が顔を覆ってわんわんと泣き出した。


 こんな嵐のさなかの水辺にいては危ないと伊智子を立たせようとした。しかし伊智子は岩のように動かない。

 オフタサマの真相を知ったショックからの涙か、こんな枝切れのために人生を犠牲にしてきた悔しさからか、涙は枯れず、雨に負けず劣らずな勢いで伊智子は泣いた。


 橘は伊智子を抱え込むようにして棟門へ向かった。とにかくこの雨を凌がないことには、どうしようもない。雨風だけならまだしも、未曾有の強風が、看板や大木の枝まで飛ばしてくる。

 顔を上げているのも辛い。太い針のような雨が目や顔を刺し、目を開けていられない。片手で庇を作りながら一歩一歩前へ進んでいると、豪雨の中、ばしゃばしゃと駆けてくる足音がした。


「伊智子!」


 振り返ると、慶太だった。手にはえんじ色のリュックを持っている。


「皆さん、こっちへ!」


 慶太は、伊智子を抱える橘の腕を引いて棟門の下へと導いた。小さな屋根ではあったが、多少の雨は防げた。棟門の下に、慶太、伊智子、橘にミズキが収まると、もう満員御礼だった。

 慶太はリュックの中からタオルを出すと、伊智子の顔を拭い、髪を拭いてやった。普段は素っ気ない素振りを見せる慶太だったが、姉妹には優しいのかもしれない。


「伊智子、伊智子、しっかりしろ」

「……」


 伊智子は荒い呼吸を繰り返すばかりで返事をしない。ショックがまだ拭い去れないのか、瞳はぼんやりとして焦点が合っていなかった。


「伊智子、返事をしなくていいから聞け。この家を出るのなら今だ」

「慶太くん」


 驚きに声を上げた橘を制し、慶太が続けた。


「家の中も、停電やら床下浸水やらでてんやわんやだ。この騒動に乗じて出てゆくのがいい。最低限のお前の荷物はこの中に詰めてきた」


 慶太がリュックを開いて中身を見せる。

 着替えと、スニーカーと、財布と通帳が入っていた。小さなポーチは印鑑などだろうか。最低限とは言え、伊智子の全財産がこれだけだと思うと物悲しかった。二十歳を超えた女性の全財産……。しかも、こんな大きなお屋敷に住む女性のすべてとは思えない。


「もっと持ってきたかったけど、大荷物になると動きづらいだろう。いいか、県外へ出ろ。落ち着いたら俺に連絡して。電話でなく、SNSのほうへ。お前だとわからないようなアカウント名でよこせ。いいな」


 ようやく意味を理解し始めたのか、伊智子が不安そうな目で慶太を見ている。何度も「いいか?」と念を押され、不安そうに小さく首を横に振った。


「しっかりしろ伊智子! 今しかないんだよ!」

「今……」

「今ここを出ないと、死ぬまでこの家の奴隷だ! 県内にいる限り、せまい田舎のネットワークですぐに居場所を突き止められる。連れ戻されたら死ぬまで家のために働かされるだけだぞ!」

「死ぬ、まで……?」


 ようやく状況が見えてきたのか、伊智子が青褪める。死ぬまで思い通りにならない人生。そんなの、誰だって耐え難い。しかも、生かされる確証もない……。


「私が一緒に仙台駅まで行きます」


 あのまま千葉に戻らなくてよかった。自分の冷淡さに肝を冷やしながら橘は慶太に向き直った。


「俺たちは東京まで戻りますが、伊智子さんは……?」

「福島に信用できる人間がいます。伊智子を福島駅で下ろしてやってくれますか?」


 慶太が橘の手にリュックを渡してきた。この子は、こんなにしっかりした青年だったのか。


「わかりました。二湖さんは?」

「二湖は高校を卒業したいそうです。それまではここにいると。卒業までは俺がなんとか……、守ります」

「わかりました」


 二湖の身も心配だったが、高校を卒業したいという本人の希望も理解できる。


「この家を、出ないといけないの……?」


 ようやく状況を理解した伊智子が、こわごわと慶太を見上げる。暖かい家庭とは言えなくとも、伊智子にとっては唯一の居場所だったはずだ。急に出てゆくことになり、不安だろう。


「伊智子。言いづらいが、オフタサマの意味がなくなった今、お前たちの居場所はなくなったんだよ。お前たち姉妹は、オフタサマの世話のためにこの家に置かれていたんだ。わかるだろう?」


 最低限の教育、必要に迫られた時のみの会話、家族の残り物を食べる毎日。本人たちだって、嫌というほどわかっていただろう。


「お前にはお前の人生があるんだよ。ここを出て、自分で選んだ人生を歩め。じゃないと、ずっと『厄介』としてこの家に縛り付けられるだけだ。さんざん働かせるくせに、厄介者扱いされる。いやだろう?」


 はっきりと「厄介」と言葉にされ、他人事なのに胸が苦しくなる。


「オフタサマが意味をなさなくなった今、あいつらが何をしでかすかわからない。あの夏のように――」

 何を思い出しているのか、慶太が大きく顔を顰めた。伊智子も、同じ過去を反芻しているのだろう。眉を顰めた後、覚悟を決めたように顔を上げた。瞳に、光が戻ってきていた。


「この中にいくらか金を入れてきた。急に一人で生きろって言っても難しいと思うけど、しばらくはこの金で、」

「福島の知り合いって、真奈美先生?」

「……そうだ。憶えてるか?」


 伊智子が大きく頷く。

 聞けば、慶太の大学受験のために来てもらっていた家庭教師だそうだ。菅野家に滞在中、姉妹の境遇を目の当たりにし、ひどく心配していたらしい。


「真奈美先生とは、ずっと連絡を取り合っていたんだ。伊智子のことを頼んでおくから、先生と合流できたら連絡して」

「わかった」

「でも、先生に迷惑をかけられないから、あまり先生の家に長居はできないと思って。家探し、できそうか?」


 伊智子がようやく小さく微笑んだ。


「……小学生じゃないんだよ。それくらい、できる」


 よし、と慶太が頷く。


「じゃあ、新幹線に乗るまでお願いできますか?」


 慶太は橘に向かって丁寧に頭を下げた。橘が頷くと、安心したように表情を緩めすぐに伊智子に向き直った。


「家が決まったら連絡して。できれば住所も教えてほしい。……急に訪ねて行ったりしないから」


 最後はまるで懇願するような口調だった。ずっと理路整然と話していたが、よく見ると慶太の目にも涙が滲んでいる。

 ――もしかすると、慶太はずっと伊智子のことが……。


「二湖にごめんねって伝えて」


 伊智子はすっかり落ち着きを取り戻し、慶太とは反対に表情がしっかりしてきていた。


「わかった」


 束の間、二人は言葉もなく見つめ合った。慶太が、抱きしめる形で両手を開いたが、思い直したように手を下ろした。代わりに、伊智子の右手を両手で包んだ。


「――今まで、何もしてやれなくて悪かった」


 それから橘たちを棟門から押し出すようにすると、声を張り上げた。


「うちの人間に見つかる前に行って! 大通りに出れば市営バスが走っています! この台風の中、運行していればの話ですが!」

「助かりました!」


 橘はお礼を言いながら伊智子の手を引いて走り出した。濡れるのを厭わないミズキが、水しぶきを巻き上げながら軽い足取りでついてくる。伊智子も、確かな足取りで走っていた。


 伊智子が、菅野家から旅立つ。――『厄介』からの脱却だ。

 嵐の中の門出だった。



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