「二湖は、どうして来なかったんだろう」
新幹線の窓から流れる景色を見ながら、ミズキが呟いた。
「高校中退になりたくなかったんだろう。それに、家ではあんなだけど、きっと学校には友達がたくさんいたんだ。そういう人間関係をぱっと切ってしまうのは、怖いんだよ」
「学校? ……ふうん」
やはりミズキを学校に通わせたほうがいいのだろうか。またあの悩みが蘇る。
「伊智子は、大丈夫かな」
「たぶん、軍資金はたっぷりあるだろうから、あとは伊智子ちゃんの行動力次第だ。急に一人になって最初は不安だろうけど、慣れたら案外自由を謳歌するかも」
福島駅で降りた伊智子は、すっかり憑き物の取れたような顔をしていた。
Tシャツにジーンズ、背中にはバックパックを背負い、まるで小旅行にでも行くような恰好だった。やや幼く見えるところはあるが、思慮深い子だ。それに、一日中家で扱き使われていただけあり、家事全般に心配がない。独り立ちもそう難しくはないだろう。
それでも、急に家を放り出されたのだ。これから、辛い目に遭ったり嫌な思いをすることもあるだろう。けれど、それらを凌駕する、喜びや幸福もきっとある。それらを味わうことを、他人が制限してはならない。
「慶太は、あの家の家族と血が繋がってないよ」
何の脈絡もなくミズキが言い出し、思わず隣を振り返る。
「え⁉」
「あいつだけ、違う匂いがした。それに、たぶん伊智子より年下だ」
「え、え? 伊智子ちゃんのほうが上?」
そういえば、伊智子の歳も、慶太の歳も聞いていなかった。慶太が大学生だ、と聞かされただけで……。それに母親も、
「長男が大学生、長女が家事手伝いをしていまして、次女が高校生。末っ子がまだ小学生です」
と言っていただけだ。兄弟の一番上が慶太だとは、一言も言っていない。
「よく、わかったな」
「俺、鼻がいいから。最初から変な
あの
思い返せば、慶太と悦郎は、似ても似つかない兄弟だった。
「だからあんなに伊智子ちゃんを心配していたのか」
「伊智子のこと、好きなんだろ、たぶん」
隣で景色に見入っているミズキの横顔を盗み見る。
珍しく積極的に慶太に話し掛けていた。目には見えない慶太の孤独を感じ取っていたのかもしれない。――自分自身に、重ねたのかもしれない。
血が繋がっているのに厄介者扱いされる娘たちと、血が繋がっていないのに後継者として重用される長兄。
慶太は毎日、どんな気持ちで過ごしていたのだろう。
さらに複雑なことに、数年を置いて「悦郎」という本物の菅野家の血を引く男児が誕生している。
家族とはなんなのだろう。
「個」を無視してまで「家」を続けてゆく意義とは――。
今、自分たちは、血の繋がりもなく、何の関係もないにもかかわらず、共に生きている。
「今回はなんの収穫もなかったな」
ミズキが揶揄うようにこちらを見てきた。
「金が出ていっただけだ」
「――そんなことないさ」
橘は大きなショルダーバッグから、コンビニのプラスチック袋を出した。中身はたっぷりと水分を含んでいて、袋の底に水たまりができている。
ミズキに向かって、袋の口を小さく開いて見せた。
「!」
ミズキがガラス玉のような瞳を、めいいっぱい見開いている。
「持ってきたのか!」
めずらしく、驚いた声を上げている。
「ここまできて、何も収穫なしじゃあ、やってられないだろう?」
「あはっ」
堪えきれないというように、ミズキが笑った。
袋の中には一体のオフタサマが入っていた。
中州で伊智子に覆いかぶさっていた時に、オフタサマの一体が落下してきた。池に落ちないよう受け止め、そのまま合羽のポケットに突っ込んでいた。
改めて見ても、ただの木の棒だ。先に刺さった綿がぐっしょりと濡れていて、握ると水分が零れ出た。赤い着物の切れ端が、棒に絡みついている。
いつ、誰がこれを作ったのだろう。どう見ても、誰かが手作りした稚拙な人形だ。
だが、長い間これに一家の運命が振り回されてきたと思うと、充分に呪物と言える。一家の恨みつらみ、思惑、欲望、すべてが詰まっている。
よっぽど可笑しかったのか、ミズキがしばらく楽しそうに笑っていた。
「楽しかったな、旅行」
「まあ、な」
当初思い描いていたような自然を満喫する旅行にはならなかったが、ミズキは満足しているようだ。
予想のはるか上をゆく出張だった。