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第28話 犬神遣い

 一か月着倒したジャケットに鼻を近づけると、煙草の匂いに混じって飲食店の油の匂いがした。微かに秋陽堂の香の匂いもする。そろそろクリーニングに出すタイミングだとハンガーから引き抜いた。

 ポケットに物が入っていないかチェックしていると、左のポケットにかさりとした紙の感触があった。つまみ出すと小さな人形ひとがたの紙片だった。


「くそ、いつの間に」

「なに?」


 隣からミズキが覗き込んでくる。


「……これ。たぶん須田に付けられた」


 人形ひとがたの奉書紙を見せると、ミズキが可笑しそうに目を丸くした。口に出さないが、「間抜け」と言っているのが如実に伝わってくる。

 須田はおそらく、これをアンテナにここに辿り着いたのだ。

 いつの間に入れられたのだろう。秋陽堂で会った時……、狭い店内で肘がぶつかりお互いに謝りあった。


「あの時か」


 ミズキに言われずとも、自分の間抜けさに嫌気が差す。今の今まで気づかなかったなんて。


「……クロ!」


 突然、ミズキが首を捩じり外を見た。店の前にはまだ誰もいない。


「まさか、あいつが来たのか?」

「うん!」


 ミズキが通用口を出て出迎えに行く。犬が好きなようなのでしようがないが、須田の来訪を出迎えるような真似はやめてほしい。


「やあ、久しぶり」


 ミズキの出迎えを受け、満更でもない顔で須田が現れる。


「……何が久しぶりだ。先週来たばかりじゃないですか」


 橘は店内に残ったまま、カウンター越しに言葉を交わす。

 こっそりとポケットに人形ひとがたを入れられていたかと思うと不快だし、やはり信用できない男だと思う。


「これ」

 さっき見つけたばかりの紙片を須田に突き返す。


「お返しします。ここまでして俺たちの住処を探したかったんですか? なぜ?」


 そもそも、なぜ付き纏うのか。


「特に意味はありませんよ。同じような匂いがしたから、仕事の悩みでも打ち明け合えるかな、と思いまして」


 何が仕事の悩みだ。うちは煙草屋兼呪物蒐集家で、お祓いやまじないはやっていない。

 須田がまた胡散臭い笑顔を浮かべる。ずっと崩さない敬語も、軽薄な態度も、何もかもが信用ならない。

 今日もこざっぱりとした恰好をしているが、よくよく見ると、だいぶ髪に白いものが混じっている。結構年上なのかもしれない。それともストレスのせいか。


「やあ。こいつも君のことが気に入ったみたいだ」


 須田が一度右側を見遣ってから、ミズキに向き直った。


「名前は?」

「ミズキ」


 へえ、と須田が馬鹿にしたように笑う。


屍人アンデッドのくせに、きれいな名前までもらっちゃって」


 あまり須田をミズキに関わらせたくなく、ミズキに「中に入れ」と伝える。が、犬に夢中なミズキは聞く耳を持たない。須田に言われた嫌味も、たいして気にしていないようだ。


「お前、お利口だな」


 ミズキは須田に足元にしゃがみこみ、空気を混ぜるように手を動かしている。橘にはよく見えないが、犬のほうも喜んでいるのだろうか。


「このアパートはペット禁止ですか?」


 ふいに、須田が訊いてきた。


「……いえ、別に。わけあって今ここに住んでいるのは俺たちだけですし」


 そうですか、と言うと須田が玄関に回り込んでくる。入っていいと言ってもいないのに、施錠されている玄関を難なく開け、ずかずかと上がり込んでくる。


「ちょっと!」

「お邪魔します。ああ、お茶は結構ですよ」

「お茶を出すなんて言っていない! 勝手に入ってくるなと言っているんだよ!」

「まあまあ」


 橘の制止も聞かず、須田が大股で階段を昇ってゆく。家主の橘が後を追いかける形になってしまう。


「へえ、これまたすごい数だ」


 教えてもいないのに、複数あるドアのうち、橘の部屋のドアを真っ先に開け須田が声を上げた。部屋の呪物棚を興味深そうに見ている。


「なんなんですか部屋にまで上がり込んで! 図々しいなほんとに!」

「この前は私の仕事の話ばかりしましたからね。今度は橘さんのお仕事の話を聞こうと思いまして」

「聞こうと思いまして、じゃないよ」


 須田に話すことなんてない。

 須田は部屋の真ん中にどっかりと座り込み、長居する気満々だ。警戒した橘とミズキが戸口に立つ形になり、これではどちらが部屋のあるじかわからない。


「この呪物のどれかで、ミズキくんを蘇らせたんでしょう? なんでまた」


 抜け目のない須田は、すっかりお見通しのようだ。

 橘は溜息を吐いた。ここまで正面切って現れて、今更こちらに害を及ぼす気はないだろう。

 それに、愛犬を蘇らせた須田に訊きたいこともあった。


「なんでだっていいでしょう? それより、須田さんのその連れている動物霊は犬神ですか? 蟲術こじゅつで造り出した? それとも愛犬を何等かの方法で蘇らせたんですか?」


 怒るかと思ったが、須田は「ああ、これ」と自分の右側の畳を見た。


蟲術こじゅつって、あの犬を首だけ出して飢えさせるってやつですか? しませんよ、そんな真似。それにね、あれでできる犬神は千に一つです。普通の犬は、首が飛ぶどころか、土の中でただ飢え死にするだけです」


 実際にやったのかよ、と鉛を飲んだ気分になる。


「こいつはね、たしかに私の愛犬です。こいつが死んだ後に、四国のとある山中に埋めて、ちょっとしたまじないをかけたんです。生き物が蘇る土地があるんですよ。いわゆる『ペットセメタリ―』です」


 噂には聞いたことがある。ある土地に死んだ動物を埋め、三日三晩決まった祈りをささげる。すると生前の姿で家に戻ってくるらしい。決まった祈りは、一部の者しか知らず、さらに実現できるのは、ほんの一握りの人間だと。


「はじめはね、こいつも肉体いれものがあったんですよ。真っ黒い毛並みの紀州犬で。でも犬の身体はすぐにダメになる。毛が抜け、肉が腐り、目や口から悪臭をまき散らす。周囲に化け物だと騒がれましてね。何代か身体を入れ替えてきたんですが、そのたびに犬の死骸を集めるのも一苦労で、今では霊体のままです。私にはしっかり視えているので問題はないです」

「……最初のれ物は、……どれくらいったんですか?」

「三か月です。最後のほうはもう、ただの肉塊でした」


 な、と須田が右側の空間を撫でる。聞こえはしないが、愛犬の弾む息遣いが聞こえてきそうだ。


 三か月――。それは人間の年月に換算するとどれくらいなのだろう。


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