一か月着倒したジャケットに鼻を近づけると、煙草の匂いに混じって飲食店の油の匂いがした。微かに秋陽堂の香の匂いもする。そろそろクリーニングに出すタイミングだとハンガーから引き抜いた。
ポケットに物が入っていないかチェックしていると、左のポケットにかさりとした紙の感触があった。つまみ出すと小さな
「くそ、いつの間に」
「なに?」
隣からミズキが覗き込んでくる。
「……これ。たぶん須田に付けられた」
須田はおそらく、これをアンテナにここに辿り着いたのだ。
いつの間に入れられたのだろう。秋陽堂で会った時……、狭い店内で肘がぶつかりお互いに謝りあった。
「あの時か」
ミズキに言われずとも、自分の間抜けさに嫌気が差す。今の今まで気づかなかったなんて。
「……クロ!」
突然、ミズキが首を捩じり外を見た。店の前にはまだ誰もいない。
「まさか、あいつが来たのか?」
「うん!」
ミズキが通用口を出て出迎えに行く。犬が好きなようなのでしようがないが、須田の来訪を出迎えるような真似はやめてほしい。
「やあ、久しぶり」
ミズキの出迎えを受け、満更でもない顔で須田が現れる。
「……何が久しぶりだ。先週来たばかりじゃないですか」
橘は店内に残ったまま、カウンター越しに言葉を交わす。
こっそりとポケットに
「これ」
さっき見つけたばかりの紙片を須田に突き返す。
「お返しします。ここまでして俺たちの住処を探したかったんですか? なぜ?」
そもそも、なぜ付き纏うのか。
「特に意味はありませんよ。同じような匂いがしたから、仕事の悩みでも打ち明け合えるかな、と思いまして」
何が仕事の悩みだ。うちは煙草屋兼呪物蒐集家で、お祓いやまじないはやっていない。
須田がまた胡散臭い笑顔を浮かべる。ずっと崩さない敬語も、軽薄な態度も、何もかもが信用ならない。
今日もこざっぱりとした恰好をしているが、よくよく見ると、だいぶ髪に白いものが混じっている。結構年上なのかもしれない。それともストレスのせいか。
「やあ。こいつも君のことが気に入ったみたいだ」
須田が一度右側を見遣ってから、ミズキに向き直った。
「名前は?」
「ミズキ」
へえ、と須田が馬鹿にしたように笑う。
「
あまり須田をミズキに関わらせたくなく、ミズキに「中に入れ」と伝える。が、犬に夢中なミズキは聞く耳を持たない。須田に言われた嫌味も、たいして気にしていないようだ。
「お前、お利口だな」
ミズキは須田に足元にしゃがみこみ、空気を混ぜるように手を動かしている。橘にはよく見えないが、犬のほうも喜んでいるのだろうか。
「このアパートはペット禁止ですか?」
ふいに、須田が訊いてきた。
「……いえ、別に。わけあって今ここに住んでいるのは俺たちだけですし」
そうですか、と言うと須田が玄関に回り込んでくる。入っていいと言ってもいないのに、施錠されている玄関を難なく開け、ずかずかと上がり込んでくる。
「ちょっと!」
「お邪魔します。ああ、お茶は結構ですよ」
「お茶を出すなんて言っていない! 勝手に入ってくるなと言っているんだよ!」
「まあまあ」
橘の制止も聞かず、須田が大股で階段を昇ってゆく。家主の橘が後を追いかける形になってしまう。
「へえ、これまたすごい数だ」
教えてもいないのに、複数あるドアのうち、橘の部屋のドアを真っ先に開け須田が声を上げた。部屋の呪物棚を興味深そうに見ている。
「なんなんですか部屋にまで上がり込んで! 図々しいなほんとに!」
「この前は私の仕事の話ばかりしましたからね。今度は橘さんのお仕事の話を聞こうと思いまして」
「聞こうと思いまして、じゃないよ」
須田に話すことなんてない。
須田は部屋の真ん中にどっかりと座り込み、長居する気満々だ。警戒した橘とミズキが戸口に立つ形になり、これではどちらが部屋の
「この呪物のどれかで、ミズキくんを蘇らせたんでしょう? なんでまた」
抜け目のない須田は、すっかりお見通しのようだ。
橘は溜息を吐いた。ここまで正面切って現れて、今更こちらに害を及ぼす気はないだろう。
それに、愛犬を蘇らせた須田に訊きたいこともあった。
「なんでだっていいでしょう? それより、須田さんのその連れている動物霊は犬神ですか?
怒るかと思ったが、須田は「ああ、これ」と自分の右側の畳を見た。
「
実際にやったのかよ、と鉛を飲んだ気分になる。
「こいつはね、たしかに私の愛犬です。こいつが死んだ後に、四国のとある山中に埋めて、ちょっとした
噂には聞いたことがある。ある土地に死んだ動物を埋め、三日三晩決まった祈りをささげる。すると生前の姿で家に戻ってくるらしい。決まった祈りは、一部の者しか知らず、さらに実現できるのは、ほんの一握りの人間だと。
「はじめはね、こいつも
「……最初の
「三か月です。最後のほうはもう、ただの肉塊でした」
な、と須田が右側の空間を撫でる。聞こえはしないが、愛犬の弾む息遣いが聞こえてきそうだ。
三か月――。それは人間の年月に換算するとどれくらいなのだろう。