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第2話 夢で重なる

 初めて脳漿を取り出すのだろう。従業員たちの行動にも迷いが見られる。遺体の向きをどうしたらいいのか、後頭部から割ったほうがいいのか、額から割ったほうがいいのかなどと右往左往している。


「早くしろ」


 上座に胡坐あぐらを掻いた男が一喝した。男は座ったまま、居丈高に口だけを出している。


「誰かがきたら面倒だ。早くやってしまえ」


 男は周囲よりも飛びぬけて若い。歳の頃は三十手前くらいだろうか。揃いの紺地の半纏を着ているが、中に着た縞の着物が上等そうだ。髪はきっちりと撫でつけられており、肌や佇まいに品があった。

 他の従業員のようにばたばた動き回らず、男はさっきから上座に坐したままだ。雰囲気からして、従業員らの上司か、リーダーなのだろう。


ひたいから割るんだ。最初の一撃で深くやれ。けれど、脳を潰さないように注意しろよ。不純物が混じってしまう」

「へい」


 男のはきはきとした指示に、従業員たちは小気味よく返事をして持ち直したようだった。

 これで、脳漿を取り出すという行為が、いち従業員の独断で行った行為ではないことがよくわかった。どうやら組織的に行われていたようだ。


 落ち着きを取り戻した従業員たちが、遺体を仰向けにした。

 目を逸らしたい場面だが、すべてを見届けなければならない。橘はさらに彼らの輪に近付いた。誰も橘を振り返る気配がない。


 遺体は、中年の男だった。

 体形は中肉中背。顔がすっかり黄変しているが、顏さえ見なければ生きた人間が寝ているだけのような、比較的きれいなご遺体だった。真新しい白装束を着せられている。

 今は穏やかな死に顔をしているのに……。これから行われる蛮行で、橘家を呪うようになるのだろうか――。


 二人の従業員が、遺体の両脇に立ち、片足で遺体の肩を踏んだ。おそらくなたを振り下ろした際に遺体が動かないよう抑えているのだろう。足で踏むなんて目を背けたくなるような行いだ。

 なたを構えた男が、遺体の頭の傍に立つ。


(たとえ夢だとしても、止めたほうが……)


 本当にこのままやらせていいのか。迷いが生じた。ここで止めれば、現実世界で何かが変わるのではないか……?

 逡巡していると、背後の戸が勢いよく開いた。


「何をしているんです!」


 叫びながら飛び込んできたのは、若い青年だった。

 他の者たちと同じ、橘紋たちばなもんの入った半纏はんてんを身に着けている。一同を見渡し、中心にご遺体があるのに気付いて目を剥いた。


「こんな所でいったい何を⁉」

清七せいしち


 遺体の肩を踏んでいた角刈りの男が、忌々し気に青年の名を呼んだ。


「こんな時間に皆さんがそろって出ていかれるから……。何をしようとしていたんです⁉ ご遺体に傷をつけるなど御法度ですよ!」


 清七と呼ばれた青年は、澄んだ声で周囲を一喝した。二十歳はたちに達しているだろうか。まだ頬のラインに幼さを残している。両の瞳は正義感に燃え、煌々と光っていた。

 清七よりも一回りも二回りも年嵩の男たちが、口籠って立ち往生する。


「……清七。なぜきた」


 上座の男が、面倒くさそうに口を開いた。「明日も早いだろう。さっさと帰れ」

貴一きいち様」


 清七が敬意を示すように目線を下げた。だがはっきりとした口調で訴える。


「ご遺体を傷つけるなんてあってはいけません。これを先代せんだいが知ったらなんと思うか」


 上座の男・貴一は、胡坐の膝に頬杖をつくとはあ、と大仰に溜息を吐いた。


「先代、先代って。もう先代は死んだだろう? 今は俺が橘葬儀社の当主だ」

「当主であればなおさら! こんなことやめさせてください。橘葬儀社の名に傷がつきます」


 貴一は、聞えよがしに舌打ちをした。


「綺麗事を言うのもいい加減にしてくれ。これをやらないと、橘葬儀社の今後が危ういことは、帳簿を見れば一目瞭然だろう」


 脳漿を売らなければいけないほど、経営状態が悪化しているということか。


「ですが」

いくさのせいでみな外国で死に、骨だけが戻ってくる。国内くにで死んだ者も、それぞれの地域で焼かれるだけで火葬場になんか来やしない。みんな金がないんだよ。葬式どころじゃないんだ。橘葬儀社はどうやって食っていけばいい? 火葬の薪さえ買えやしないんだぞ」


 清七は怯むことなく訴えかける。


「それでも! それでも、仏様を身体を傷つけるなんてあっちゃいけません!」

「清七」


 口ひげをたくわえた男が、清七の肩に手をかけた。


「これは従業員みんなの総意なんだ。脳漿は高値で売れる。何も金を独り占めしようってんじゃない。その金で、橘葬儀社の未来を守って行こうって話だ」

「……けれど」


 清七が口籠ったのを好機チャンスと見たのか、口ひげの男がなおも続けた。


「脳をいただいたらちゃんと火葬もする。なに、頭蓋骨が残らないよう高温で焼けば、遺族にも気付かれやしないさ」


 男の露悪的な言い方に、清七が目の光を取り戻した。


「なんてことを……! やはり仏様を傷つけるなんていけません」


 清七が皆を見回す。


将造しょうぞう様がいつも言っていたではありませんか! 仏様を大事に扱えって。『仏様』なんだからって。自分が死んだときにそうして欲しいと思うように弔えって。今は大変でも、正しい行いをしていればきっと景気が戻ってきます!」

「お前は!」


 一番年嵩の男が、初めて口を開いた。


「お前たち手代てだいはいい。店に住み込んでいるんだから。だが俺たち番頭ばんとうはそれぞれに下宿に住んでいたり、家族を養っていかなくてはいけないんだよ! 先代に気に入られていたお前は、家もあるし着るものにも食べるものにも困らないだろう。無料ただで勉学もさせてもらえる。だが死んだ先代は俺たち番頭の家賃や生活費まで残してくれたか? 学びを深める資金を残してくれたか⁉」


 清七が悔しそうに顔を俯ける。

 どうやら清七という青年は手代てだいで、先代当主に気に入られていたようだ。

 たしか手代てだいは、丁稚奉公でっちぼうこうを十年以上勤め上げ、見込みのある者だけが出世できるポジションではなかっただろうか。おそらく清七は優秀で、先代に忠実な従業員だったのだろう。

 一方清七は、現在の当主の貴一にはまだ忠誠を誓っていないようだ。


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