清七の声に懇願の色が混じった。
「和田さん、どうかおやめください。私の給金はしばらくいりませんので、どうか、どうか」
「お前の給金ごときを返上したってどうにもならないんだよ!」
清七の勢いが凪いだのをきっかけに、周囲の者も声を上げ出した。
「ここ数か月、俺たちは無給で働いているじゃないか! 今更お前の給金ごときを返上したって、何にも良くなりゃしないんだよ! 葬儀屋は新たな仕事を取ることができないんだ。葬儀を依頼されるのを待っていては、何時まで経っても借金が減りやしない!」
「そうは言っても、仕事は完全にはなくなっていません。今の従業員数なら、ぎりぎりではありますが食っていけるだけの金が」
「綺麗ごとばかり抜かすな!」
貴一がばしん、と平手で床を叩いた。
「いつ
何か立派な高説が始まるのかと思ったが、貴一が語る内容はどこか薄っぺらかった。
「番頭たちだって新しい眼鏡や時計が必要なんだ。和田には小さな娘が二人もいる。な、清七だってみんなにいい思いをさせてやりたいだろう?」
「貴一様……」
清七の顔には、もはや絶望の表情が浮かんでいる。
何を言っても通じない――そう考えていそうだ。
「仏様の身体を傷つけるなんていけません。もしも仏様に傷をつけたことが世間にばれてしまったら、橘葬儀社は信用を失い、もう二度とお仕事をいただけません。数回の利益のために橘葬儀社の将来を絶ってしまってもいいのですか……?」
「大丈夫。世間にはばれないさ。俺がうまくやる」
話はもう終わりだと言うように貴一が回りの男たちに合図した。男たちが再びご遺体に向き直る。
清七がどたどたと小上がりに上がり込んだ。鉈を振りかぶる和田の腕に縋る。
「貴一様! 皆さまも! どうかおやめください」
「うるさい! 下がってろ」
清七は貴一にも食い下がる。
「貴一様!」
橘は正義感に燃える清七にすっかり肩入れしていた。
頑張ってくれ清七。なんとかこの蛮行を食い止めて、橘家の負の遺産を消してくれ。
しかし、一対複数ではどうしようもなく、清七は二人の男に取り押さえられ、小屋の隅に追いやられてしまった。
「仏様の頭を割るなど……! どうなってもしりませんよ! きっと橘葬儀社は何代にもわたって祟られるでしょう! いいのですか!」
清七の悲痛な叫びに、橘は拳を握りしめた。
その通りだ。頭を割られた死者たちに、橘家は何代も何代も呪われることになった。――いま目の前で遺体の頭を割ろうとしている従業員に無性に腹が立った。お前のせいで、お前のせいで俺たちは――。
貴一を含む男たちが、声を上げて笑った。
「お前清七! まさかオバケを信じているのか?」
「おお、よしよし。お前はまだ十九だものなぁ」
周囲も貴一に同調し、清七を揶揄する。
「死んだ者は自分が何をされているかなんてわからないよ。むしろ、死後自分の身体を必要とするものに有効利用されるんだ。ありがたい話だと思っているさ」
高校生の時、初めて母親に盃を見せられ、自分なりに当時の人体薬について調べてみた。
人体から摂れる臓器や脳は、人体薬の原料となり、
「
清七が蹲って
「お前、本当に祟りを信じているのか? ……まったく」構っていられないというように首を振る。
おかしくなった清七を放って、男たちは脳漿の取りだしを再開した。
「押さえてろよ」
「へい」
再び和田が鉈を振り上げた瞬間、清七が弾かれたように小上がりに突進した。大人しくなったと油断していた男たちが、あっ、と短く叫ぶ。
「皆さま、どうかおやめください!」
清七は鉈の刃に触れる勢いで身を割り込ませ、火事場のバカ力で暴れた。橘も思わず輪の中へ飛び込む。擦り抜けるとわかっていても、清七に加勢せずにはいられなかった。
やがて力では叶わないとわかると、清七は躊躇なく遺体の上に覆いかぶさった。
「よけろ清七! たたっ切るぞ!」
清七は岩のように動かなかった。遺体を庇うように俯せになっているので、橘からは表情がわからない。
貴一が頷き、和田が鉈を握り直した。和田も、こちらも本気だと示すように改めて鉈を振りかぶった。
『清七さん! 危ない!』
橘は思わず清七の肩を掴んだ。当然掴めるわけもなく、清七の背に手がぬるりと埋まり、前傾する。奇しくも、清七の上に橘も覆いかぶさるようにつんのめった。
清七と同じ体勢で、身体が重なった。
一瞬、すべての音が遠ざかり、水中にいるような錯覚がした。
『どうして助けてくれなかったんです……?』
かすかにそう聞こえた気がして、目を開く。清七とは同じ体勢で重なっていたはずなのに、どういうわけか、鼻先寸前に清七の顔が迫っていた。
清七は無表情のまま橘をじぃっと見ていた。
昏い深淵のような目。あんなに力強く正義感に燃えていたのに。
無感情な声で再度問いかけてくる。
『どうして? どうして助けてくれなかったんです?』
自分は止めに入った。けれど身体が擦り抜けてしまうのだ。
貴方に加勢したつもりだ――
『どうして どうして 助けてくれなかった』
声にならない声で訴えたが、伝わった様子はなかった。次第に、表情を変えずに繰り返し訴えてくる清七の顔が恐ろしくなり、硬く目を瞑った。
『どうして どうして どうして どうして どうして どうしてどうしてどうして……』
自分は貴方の味方だ、どうか許してほしい……。
どうか、どうか。貴方の恨むべき相手は自分ではなく……
目を瞑っている間に、首に強い衝撃が走った。痛みというより、強烈な打撃で骨が砕けるような感覚だった。
目の前が暗くなる――
清七は……、ご遺体は…………。
完全に闇に落ちる――――