山形駅の目と鼻の先にあるビジネスホテルにチェックインし、まずはスーツケースを荷解きした。とりあえず二泊の予約をしたが、場合によっては延泊も視野に入れていた。
「狭い! 窓も開かない!」
部屋は必要最低限の設備のツインルームだ。清潔に整えられてはいるが、窓は嵌め殺しで開閉できず、敷き詰められた毛足の長い絨毯のせいか、どこか埃っぽい感じがした。
初めてビジネスホテルに宿泊するミズキは、興味深そうにあちこちを観察している。「狭い」と文句を言っているものの、面白がってもいるようだ。
「たぶんここには寝に帰ってくるだけだろうから、これで十分だ」
橘は服の中から巾着を引っ張り出し、袋を開いて盃を取り出した。
「ミズキ、見て」
部屋の入口に近いベッドに腰掛け、
先日の犬神の襲来で粉々に砕けた盃も、今やすっかり元通りになっている。
ミズキが隣に座り、覗き込んできた。
「……一回割れたんだよな? それ。すごいなすっかり元通りだ」
「そう。割っても壊しても、こうやって元に戻るんだ。こいつは、そう簡単に死なないんだ」
「壊れない」ではなく、あえて「死なない」と表現した。
この盃の中にはたしかに怨念が宿っていて、繰り返し繰り返し橘家の男子を襲い殺しにくる。
「この盃について、ちゃんと説明してなかったよな」
一緒に暮らしていても、ほとんど巾着から出すこともなかったし、盃を引き取った経緯も説明したことがなかった。
「知ってるよ、お前の兄ちゃんに呪いがいかないように、お前が持って家を出たんだろ?」
またブラコンだと揶揄われる前に、橘は続きを話し出した。
「昔、うちの商売が立ち行かなくなった時に、従業員と、……おそらく俺の先祖が、火葬する前のご遺体の頭を割って、
「
※霊天蓋……戦国時代に用いられていた癒薬(外傷用の塗り薬)。もとは頭蓋骨の粉末だったものが、さらに呪術色を強め、後に脳味噌の黒焼きにまでなった秘薬。万病に効くとされ高値で取り引きされた。
ミズキは気味悪がる様子もなく、すぐに的を射た返事をした。
日々ネットサーフィンで知識を貪り、ミズキの知識量は今や橘を凌ぐほどの勢いだ。
「そう。その脳漿を取り出す時に受け皿として使われたのがこの盃。どれくらいの遺体から脳漿を取り出したのか、誰がやろうと言い出したのか、詳しいことはわかっていないんだ。それを解明すれば、もしかしたら呪いを解く鍵になるかもしれない」
本当に遺体から脳漿を取り出すなんていう野蛮なことが行われたのか……。それすらも疑わしい。しかしこの盃に何らかの因縁があって、橘家の男たちが頭が原因の不審死を遂げているのは真実だ。
「ミズキ前に言ってたよな? 俺の胸元から黒い
ミズキは呆れたように首を振った。
「わかるわけないだろ。何を訴えているかわかっていたらもっと早く言うよ。それに、霊が何を言っているかなんてわからないよ。霊の発する言葉なんて支離滅裂だ」
そう言われ、これまでの怪奇事件を思い返してみる。
男に殺され取り憑いた女の霊も、ミニカーに宿った子供の霊も、みなまともに言葉を発さなかった。言葉を発さないというより、生きた人間とは意思の疎通が図れなくなっていた。ただ、恨めしい、憎い、寂しい――その強い思いだけでこの世に留まっていた。
肝試しに行って車に轢かれた不幸な青年・直人だけは、まるで生きた人間のように言葉を喋った。直人は自分が死んだことに気付いていなく、言うなれば生霊のようなものだったのだ。死を自覚した途端、喋る言葉が覚束なくなり、やがて消えた。
怨霊との意思疎通は不可能。となれば、橘葬儀社の過去に何があったか調べるしか手立てはない。
「恨んでいる人間がいっぱい見えるっていうのはどれくらいだ? いったい何体のご遺体が犠牲になったんだろう」
知らない、とミズキが首を振る。
「犠牲になった人数はわからない。ただ、何体もの霊がこの盃に縛られているのは見える」
「……でも、おかしいとは思わないか?」
橘はずっと疑問に思っていたことを口にした。
「死んだ人間が、死後身体を傷つけられたからと言って、そんなに長い年月をかけて人間を恨むだろうか。例えば俺が臓器バンクに登録していて、死後臓器が取り出されて身体の部位がばらばらに散ったとしても、医者を恨んだり臓器の持ち主を恨んだりはしないと思う」
それは違う、とミズキがかぶりを振る。
「それは自分の意思で決めたからだろう。最初の立ち位置から違う。……でも、そうだな。死んだ後に身体を傷つけられたからって、そんなに恨みは続かない、それはわかる気がする」
ミズキが腕を組んで天井を振り仰いだ。
「俺、この前死産と流産について調べてみたんだ。俺がどっちだったかは知らないけど、もし流産だった場合、医者に『胎児および胎児付属物』として娩出されたはずなんだ。でも死んだ後だからな。自分の肉体がどうなったかなんて知らない。知ったとしても、医者を恨んだり、母さんを恨んだりはしない」
「……」
時々忘れかけるが、ミズキは死を経験している。こうしてふとした時に死の様子を聞かされると、急に冷や水を浴びせられたような気分になる。
生きていると勘違いしてしまうけど、ミズキは魂が帰ってきているだけなのだ。いつか必ず、黄泉の国に帰る時がくる。それはそう遠くない。
ただ、今はそれを考える時ではない。
「じゃあ、複数の黒い靄っていうのは何なんだろう」
いざ突き詰めて考えてみると、謎はいくつも残っている。
脳漿を取り出された遺体たちは、当たり前だがとっくに死亡していた。死後、魂が肉体に残り続けていたとは考え辛い。死後の身体を傷つけられたからといって、何代にも渡って葬儀社の主人の血筋を恨み続けるだろうか。
頭を割られた遺体の怒りだというのなら、どうしてやったら収まるというのだろう。
「わかんない事だらけだな」
「可能な限り調べてみよう。そのためにここまで来たんだ」
橘はミズキを促してホテルを出た。
まずは腹ごしらえをして、脳漿取り出しの事実があったかどうか調べようと思った。