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第7話 呪いはどこから

 橘の記憶の中の景子おばのマンションは、駅前の綺麗なマンション、というイメージだったのだが、時は経ちすっかり古びた様相になっていた。レンガ調の外壁はこげ茶を通り越して黒に近く、サッシやバルコニーの手すりに錆が目立った。


「さあ、上がってちょうだい」

「お邪魔します」


 だが招き入れられた室内は、矍鑠かくしゃくとした景子おばの部屋らしく、きれいに整理整頓され、掃除が行き届いていた。窓が大きく、日当たりも風通しもよい。


「本当に久しぶり。高校を卒業してからは家を出たって深雪さんにちらっと聞いていたんだけど、どうしていたの?」


 深雪とは、橘の母だ。


「あちこちを旅行していたんだ。最終的に千葉に辿り着いて、そのまま住み着いた」


 盃のことは家族以外には話していない。橘は旅行好きで家を飛び出したことになっている。母や兄がそう周囲に話しているはずだ。


 どうぞ、と勧められ、リビングダイニングの中央に据えられた座卓の一画に着いた。ミズキが寄る辺なく立ち尽くしてたが、「座ったら」と促すと橘の背後で膝を抱えた。がらにもなく緊張しているのだろうか。景子おばに会ってから、ミズキはほとんど口をきいていない。

 景子おばは、レース編みのカバーのかかったクッションをセットすると、いつもの定位置らしき場所に座った。


 向かい合うと、ずいぶんと年を取ったと改めて思った。面影はあるものの、だいぶ風貌が変わっている。

 背は丸くなり、前に突き出た首は頸椎けいついが判るほど細い。座卓に置かれた手も薄く、シミがたくさん浮いている。景子おばに最後に会ったのが橘が七歳の時。あの時すでに六十歳だったから、今は八十を過ぎているはずだ。変わっていて当然だ。


「家にはもう行ったの?」

「いや、」


 ここまで来て実家に顔を出さないことをどう思われるだろうと逡巡していると、「ねえ、幸一は元気?」と景子おばのほうから話題を変えてきた。

 ありがたいと思い、話に乗った。


「ああ、元気みたいだよ」

「前に二人でここに来たときは、こーんなに小さかったのにねぇ」


 景子おばが掌を肩の高さくらいに持ち上げる。

 以前ここに来た時は、たしかに二人とも小学生で小さかった。だがまるで小人のように表され思わず吹き出す。


「俺たち、七歳と九歳だったよ。どうしてかは覚えていないけど、母さんにこっぴどく怒られて、家出いえでだなんて言ってここに二人で来たんだよな」


 事前約束もなく転がり込んで、ずいぶん勝手にふるまっていたように思う。にもかかわらず、景子おばは嫌な顔一つせず迎え入れてくれ、山ほどのお菓子やジュースでもてなしてくれた。


「そんなこともあったわね」


 景子おばは昔を懐かしむように目を細めた。

 当時、景子おばにふるまわれ、初めて紅茶を飲んだ。いつも家で飲んでいる麦茶とは違って、よい香りのするお茶だと感じた。大人として扱われているような気がして嬉しかった。


(以前は、もういいと言っても食べきれないお茶菓子を出してくれたんだけど……)


 もてなして欲しいわけではないが、景子おばが立ち上がる気配もないのに少し寂しさを覚えた。お茶を出す気力も、自身の食欲もなくなってきているのだろうか。

 物欲しそうな顔になっていないだろうかと、橘は顔を俯けた。

 顔を下げると、ふいに甘ったるい匂いが鼻先を掠めた。朽ちかけた花のような、白檀びゃくだんの香のような匂いだ。どこかに花でも飾っているのだろうかと顔を上げてあたりを見回すが、それらしき花はない。


 景子おばがふう、と息を吐いた。


「もうすぐ私も、あんたんとこの会社の世話になるわ」


 橘葬儀社の世話になる――自分の先はそう長くはないという意味だ。老人たちの鉄板の自虐ネタだ。


「縁起でもないこと言わないでよ」


 景子おばは目を伏せたまま小さく笑った。


「本当よ。……兄さんは三十年も前に死んだし、私も十分生きた」


 景子おばの兄・篤志あつしは、橘家の男子の呪いの犠牲者で、五十になる手前で交通事故で死んだ。大型車両に頭を轢かれ、本人確認が大変だったと母が語っていた。


「家族はみんな死んじゃったからね。寂しいわ」


 橘家の呪いで男子が早死にするため、男たちの妻だけが残される。妻たちの間に血の繋がりはなく、自然と親戚間の交流は少なくなっていった。

 特に景子おばは家庭を持たなかったため、身に染みて孤独を感じているのかもしれない。


「……ねえ、景子おばさんのお父さんは、何歳の時に亡くなったんだっけ?」

「私が十になる前よ。享年二十八歳だったかしら。戦争に行ってね」


 そうだ、母が言っていた。曾祖父は、戦争で頭を打たれて死んだのだと。――景子おばの父親の代で、すでに呪いが発生していたことになる。


「父はもともと脚が悪くて、そう長く立っていられない身体だったらしいの。それではじめは徴兵を免れていたんだけど、どうしてかしら、終戦間際に急に召集されてね」


 終戦間際――国は敗戦の色が濃いことはわかっていただろう。それでも兵隊を搔き集めて最後の足掻きをしていたのかと思うとやるせない。そんな破滅的な計画で、多くの人間が命を落としてしまうなんて。曾祖父の死も、呪いだとしても、呪いでないとしても、悲惨だ。


「ごめんなさいねミズキくん。こんな暗い話ばっかりしちゃって」


 景子おばがミズキに向かって謝った。

 ミズキは黙って首を横に振ると、静かに口を開いた。


「お父さんが亡くなった後は、誰が橘葬儀社の代表をしていたんですか? あなたが十歳になっていないのなら、兄弟もまだ幼いですよね?」


 淀みなく喋るミズキの口調に、あんぐりと口が開く。

 ついこの前まで丁寧語を知らず、誰に対しても「おまえ」や「あんた」、亡くなっていることを「死んだ」「死んでる」などと直截な言葉を使っていたのに。まるで立派に成人した弟を前にしたようで、すっかり驚いてしまった。


 景子おばは、「こんな身内の話に興味があるの?」と苦笑してから、

「母よ。兄の篤志が成人するまでは、母が会社を仕切っていた」

 と答えた。


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